第二十三話 俺の名前の通帳
学校から帰って玄関を開けると、父さんの靴があった。
まだ外が明るい。
「ただいま」
居間の方から、母さんの声がした。
「おかえり。手、洗ってきなさい」
「父さんいるの?」
「いる。先に手を洗って」
洗面所で手を洗っている間も、居間の声が気になった。
父さんが平日のこの時間に家にいるのは、まだ少し変な感じがする。
タオルで手を拭いて戻ると、食卓に茶色い封筒が置かれていた。
父さんは新聞もテレビも見ずに、その封筒の前に座っている。
母さんは湯のみを三つ出していた。
「姉ちゃんは?」
「まだ。今日は部活で遅いって」
母さんがそう言って、台所の方を一回見た。
父さんが封筒を軽く叩いた。
「通帳ができた」
「俺の?」
「名義はお前だ」
父さんは封筒から、まだ新しい通帳を出した。
表紙は少し硬そうで、銀行の名前が入っている。
俺の名前もあった。
「触っていい?」
「手は洗ったな」
「洗った」
「じゃあ少しだけ」
父さんが通帳を俺の方へ向けた。
指で端を持つと、思っていたより軽かった。
でも、変に落としそうで、両手で持った。
「中は?」
「見るか」
父さんがページを開く。
数字が並んでいた。
ゼロが多すぎて、すぐには読めない。
声に出しそうになって、父さんの顔を見た。
「声に出すなよ」
「出さない」
母さんが湯のみを置きながら言った。
「家の中でも、あんまり大きい声で言わないこと」
「うん」
「お姉ちゃんが急に帰ってくることもあるから」
「姉ちゃん、そういう時だけ早いし」
母さんが少し笑った。
父さんは通帳を閉じた。
「これは父さんと母さんで預かる」
「うん」
「お前の名前の通帳だけど、お前が一人で使うものじゃない」
「分かってる」
分かってる、と言ったあとで、もう一度通帳を見た。
自分の名前が書いてある。
でも、俺が自由に使えるお金ではない。
「じゃあ、俺は何に使えるの」
言ってから、少し早かったかなと思った。
父さんは怒らなかった。
「そこを決める」
母さんが椅子に座る。
「小遣いは今まで通り」
「え」
「え、じゃない」
母さんがすぐ言った。
「急にお小遣いが何倍にもなったら、おかしいでしょ」
「何倍にもとは言ってない」
「少しは増えると思ってたでしょ」
「ちょっとだけ」
母さんは湯のみを両手で持って、少しだけ目を細めた。
「欲しいものがある時は言いなさい」
「言えば買える?」
「言えば考える」
「それ、買えるとは違う」
「違うよ」
父さんがうなずいた。
「必要なものと、欲しいだけのものは違う」
「ゲームは?」
「欲しいものだな」
「通信ケーブルは?」
「それも欲しいものだ」
「攻略本は?」
「この前買っただろ」
母さんが少し笑った。
「こういうふうに、すぐ次が出るからルールがいるの」
何も言い返せなかった。
「友達におごるのはだめ」
父さんが言った。
「おごらない」
「絶対だ」
「分かってる。そんなことしたら、すぐ広まるし」
父さんが少し俺を見る。
「そこは分かるんだな」
「学校で言われるの嫌だし」
「ならいい」
母さんが続けた。
「使ったものは、ノートに書くこと」
「花柄のやつ?」
「それでもいいし、別でもいい」
「花柄でいい」
「本当?」
「もう使ってるし」
母さんは少しだけ笑って、父さんを見る。
父さんは通帳を封筒に戻した。
「大きいお金は動かさない。当分は銀行に置く」
「全部?」
「全部ではないが、ほとんどだ」
「株は?」
父さんの手が止まった。
「株は、まだ先だ」
「調べるのも?」
「調べるのはいい。買う話はまだだ」
「名前を書くのは?」
「それはいい」
少しだけ息が抜けた。
父さんは封筒の口を折って、食卓の端に寄せた。
「ただし、今日はここまでだ」
「また宿題?」
「宿題もある」
母さんが台所の時計を見た。
「でも、その前に買い物行くよ」
「今から?」
「お父さんも今日は帰ってきてるし、夕飯は外で食べようか」
思わず父さんを見た。
父さんは湯のみを持ったまま、少しだけ目をそらした。
「外って、どこ」
「駅前のファミレス」
「ファミレス行くの?」
「行く」
「姉ちゃんは?」
「帰ってきたら一緒に行く」
「理由聞かれたら?」
「父さんが早く帰ったから、でいいでしょ」
母さんはそう言って、台所の電気を消した。
その時、玄関のドアが開いた。
「ただいまー」
姉ちゃんの声がした。
母さんが俺を見る。
父さんが封筒を自分の鞄に入れる。
俺は湯のみを両手で持ったまま、少し背筋を伸ばした。
「なに、三人でお茶してんの?」
姉ちゃんが居間をのぞいた。
部活のバッグを肩から下げて、前髪が少し乱れている。
「おかえり。手を洗ってきなさい」
「はーい」
姉ちゃんはバッグを置いて、洗面所へ行きかけた。
「今日、外で食べるって」
俺が言うと、姉ちゃんが振り返った。
「え、ほんと?」
「ほんと」
「なんで?」
母さんが先に答えた。
「お父さんが早いから」
「毎日早く帰ってきて」
「無理だ」
父さんが即答して、姉ちゃんが笑った。
ファミレスへ行く車の中で、姉ちゃんはずっと何を食べるか迷っていた。
「ハンバーグか、ドリアか、パスタ」
「全部は無理だろ」
「分かってるし」
「分かってなさそう」
「こういちに言われたくない」
窓の外はもう暗かった。
店に入ると、あたたかい空気と、油の匂いがした。
テーブルに座って、メニューを開く。
前なら、値段を見てから選んでいた。
でも今日は、母さんがメニューを見ながら言った。
「今日はデザート、一つまでならいいよ」
姉ちゃんが顔を上げる。
「まじで?」
「一つまで」
「やった」
姉ちゃんはチョコパフェの写真を指で押さえた。
「これ」
「早いな」
「迷う時間がもったいない」
「さっきまでハンバーグで迷ってたじゃん」
「デザートは別」
父さんが水を飲みながら、少しだけ笑った。
俺はメニューの端を持ったまま、チョコパフェの写真を見た。
「こういちは?」
母さんに聞かれて、俺はメニューに目を戻した。
「ハンバーグ」
「デザートは?」
「あとで決める」
「先に決めないと、お姉ちゃんが勝手に選ぶよ」
「選ばないし」
姉ちゃんが言った。
「絶対なんか言うだろ」
俺が言うと、姉ちゃんは笑って、チョコパフェの写真をもう一回指で押さえた。




