第二十話 知っている名前
新聞の株価欄は、相変わらず細かい字ばかりだった。
父さんが食卓に広げた新聞の端が、俺の茶碗の方まで来ている。
端から端まで、会社の名前と数字が並んでいる。
「これ、読むの?」
「全部は読まない」
「全部読んだら目が痛くなりそう」
「父さんも全部は読まん」
父さんは赤いボールペンを持って、新聞の端を指で押さえた。
母さんが台所からこっちを見る。
「ご飯粒つけないでよ」
「つけない」
「お父さんじゃなくて、こういち」
「俺?」
「さっきから近い」
言われて、少し顔を離した。
確かに近かった。
近づかないと、字が潰れて見える。
「株価欄って、会社の名前が載ってるところ?」
「そうだな。会社の株の値段が載ってる」
「値段」
「毎日変わる」
「毎日?」
「上がったり下がったりする」
父さんが、新聞の細かい数字を指でなぞった。
俺はその指の先を追ったけど、途中でどこを見ているのか分からなくなった。
「これ、ゲームの攻略本より見にくい」
「攻略本と一緒にするな」
「攻略本の方が分かりやすい」
「それはそうだろうな」
姉ちゃんが麦茶を持って食卓に来た。
「また何してんの」
「新聞」
「見れば分かる」
「じゃあ聞くなよ」
「株?」
姉ちゃんは新聞を少しのぞいて、すぐに顔をしかめた。
「字ちっさ」
「読める?」
「読まない」
「早いな」
「こんなの読んで楽しいの」
父さんが少しだけ笑った。
「楽しいだけで読むものでもない」
「じゃあ楽しくないやつじゃん」
「そういう言い方をするな」
姉ちゃんは麦茶を飲んで、新聞の向こう側に座った。
読む気はなさそうなのに、こっちの話だけは聞くつもりらしい。
「まず、知っている会社を探してみろ」
「知ってる会社」
「名前だけでもいい」
俺は新聞に目を戻した。
知らない会社の方が多い。
漢字が多い。
昔の大人は、こんなのを読んでいたんだろうか。
少し探していると、見覚えのある名前があった。
「ソニー」
「それは知ってるだろうな」
「プレイステーション」
「テレビもある」
「知ってる」
父さんがボールペンの先で、ソニーの横の数字を軽く叩いて、名前の下に短い線を引いた。
「名前を知ってるからって、いい会社とは限らないぞ」
「でも知らない会社よりは良さそう」
「有名なだけかもしれないぞ」
少し返事に詰まった。
俺はソニーを知っている。
でも、株のことはよく分からない。
「ほかは?」
父さんに言われて、もう一度探した。
トヨタを見つけて、その少し下に任天堂もあった。
名前を見つけた瞬間、少しだけ目が止まった。
「任天堂」
「やっぱりそこを見るか」
「ゲームボーイカラーあるし」
「それだけで決めるなよ」
「決めてない。ただ見つけただけ」
父さんは任天堂のところにも、短い線を引いた。
姉ちゃんが横から言う。
「こういち、ゲーム会社買うの?」
「買わない」
「買えばゲームいっぱいもらえる?」
「もらえないだろ」
「なんだ」
母さんが笑いながら、皿を片づける。
「会社を買ったら商品がもらえるなら、お母さんはお菓子の会社がいい」
「母さんまで何言ってんの」
「冗談よ」
新聞の字は細かくて、数字はよく分からない。
それでも、知っている名前が混ざっていると、少しだけ分かりやすかった。
「一株って、これ一個の値段?」
「そうだが、普通は一株だけ買うわけじゃない」
「十個とか?」
「もっとまとまった数だな。会社によって違う」
「じゃあ、この値段では買えないの?」
「それだけじゃ買えない」
父さんは新聞の余白に、10、100、と小さく書いて、その横にかけ算の線を引く。
「こういう計算になる」
「高いな」
「そうだ。だから簡単に買うものじゃない」
「四億あっても?」
言ってから、少しだけ声が小さくなった。
姉ちゃんが麦茶のコップを置く音がした。
母さんの手も、少しだけ止まった気がした。
父さんは怒らなかった。
ボールペンを置いて、俺を見る。
「四億あるから、簡単に決めない」
すぐには返事が出なかった。
「少しならいいんじゃないの」
「少しでも、ちゃんと見てからだ」
「ちゃんとって、何を見るの」
「会社が何をしているか。どれくらい儲かっているか。そういうところだ」
「多いな」
父さんが普通にうなずいたので、少し笑いそうになった。
姉ちゃんが退屈そうに頬杖をついた。
「それ、いつ買うの」
「まだ買わない」
「ふうん。長いね」
母さんが皿を重ねながら言った。
「長くていいの。短く決める方が怖いでしょ」
「お母さんも株分かるの?」
「分からない」
「じゃあなんで」
「分からないから怖いんでしょ」
姉ちゃんは少し考えてから、麦茶を飲んだ。
「それはそうかも」
父さんが新聞を少し折った。
ソニーと任天堂のところに、赤い線が薄く引かれている。
「今日はここまでだな」
「もう少しだけ」
「宿題もあるから、本当に少しだけだぞ」
父さんは少し迷ってから、新聞を俺の方へ寄せた。
「破るなよ」
「破らない」
「麦茶もこぼすな」
「こぼさない」
「顔、近い」
「分かってる」
俺はまた新聞に顔を近づけた。
細かい字の中から、知っている名前を探す。
テレビで見た会社、ゲームの会社、車の会社、銀行。
それよりずっと多い、知らない会社。
ひとつずつ見ていくうちに、別の名前が頭に浮かんだ。
でも、その名前は新聞の中には見つからない。
アメリカの会社だ。
「父さん」
「なんだ」
「新聞に載ってない会社は、どうするの」
父さんが顔を上げた。
「外国の会社か?」
思ったより早く返ってきて、俺の方が黙った。
姉ちゃんが顔を上げる。
「外国?」
「いや、なんとなく」
父さんはしばらく俺を見てから、新聞に目を戻した。
新聞の上で、赤い線の下にある任天堂の文字だけが目に入った。
「次に見るなら、まず日本の会社からだ」
「うん」
「外国の会社は、そのあとだな」
そのあと。
父さんはそう言って、新聞をきれいに折った。
姉ちゃんが小さく言う。
「外国のゲーム?」
「違う」
「じゃあ何」
「まだ分かんない」
「自分で聞いたのに?」
「うるさい」
父さんは新聞を持って立ち上がった。
「宿題」
言われる前に分かっていたのに、言われると少し嫌だった。
「今やる」
ランドセルを取りに行く途中で、もう一度だけ食卓を振り返った。
新聞は父さんの手の中にある。




