第十四話 四億円の約束
父さんは封筒の上に手を置いたまま、俺を待っていた。
俺はすぐに座れなかった。
ランドセルを背負ったまま、居間の入口に立っていた。肩ひもが食い込んでいるのに、下ろすタイミングが分からない。
「こういち、先にランドセル置いてきなさい」
母さんに言われて、やっと肩から外した。
「手も洗って」
「今?」
「今。帰ってきたら手を洗う」
洗面所で水を出すと、指先が冷たかった。鏡を見ると、髪がはねていて、首元のシャツも曲がっていた。
石けんの匂いがする手を拭いて居間へ戻ると、父さんは銀行の紙をテーブルの上に並べていた。母さんは湯のみを三つ置いている。
「お茶、熱いから気をつけて」
「うん」
椅子に座ると、父さんが俺の方へ紙を寄せた。
「今日、銀行と売り場で確認してきた。やっぱり間違いじゃなかった」
「うん」
「本当に、四億円だ」
金額は昨日から聞いている。
でも、父さんがもう一回言うと、喉の奥が狭くなった。
「ただ、四億円をそのまま渡されるわけじゃない。これから書類を書いて、銀行の口座に入れてもらう」
「口座に入るんだ」
「そうだ。お前の名前の口座になるから、そのあとどうするかは父さんと母さんで相談する」
お前の名前。
そこだけ、変に耳に残った。
「俺の、なの?」
聞いてから、まずかったかなと思った。
父さんは怒らなかった。湯のみを両手で持ったまま、息を吐いた。
「お前が買った券だ。お前の金だ」
母さんが、そこで父さんを見た。
父さんは続けた。
「でも、お前一人で好きに使える金じゃない。まだ小学生だからな」
「勝手には使わないって」
「ならいい」
父さんはそう言ったけれど、声には疲れが出ていた。
朝から銀行や宝くじ売り場へ行って、何度も同じことを聞かれたのかもしれない。
父さんのワイシャツの袖はしわになっていて、ネクタイもいつもよりゆるかった。
それを見てから、声を出した。
「父さん」
「なんだ」
「ありがとう」
父さんは一瞬、聞き慣れない言葉を聞いたみたいに黙った。
母さんも湯のみを持ったまま止まった。
「……急に何だ」
「いや、行ってくれたから」
「当たり前だろ」
「でも、ありがとう」
父さんは困ったようにして、紙の方を見た。
「そういうのは、今じゃなくていい」
「今言ったらだめなのかよ」
「だめじゃない」
母さんが小さく笑った。
その音で、居間の空気が戻った。
「それで、約束してほしいことがある」
父さんが紙を指で押さえた。
「まず、外では絶対に言うな」
「うん」
「友達にも先生にも、近所の人にも言わない」
「言わない」
「姉ちゃんにも、まだ言わない」
姉ちゃんは今、ソフトテニスの練習に行っているのか、友達と遊んでいるのか。たぶん、そろそろ帰ってくる。昨日の夜から同じ家にいるのに、何も知らない。
「いつ言うの?」
俺が聞くと、母さんは少し考えた。
「すぐには無理かな。お姉ちゃんが悪いわけじゃないけど、うっかり言っちゃうかもしれないし」
「姉ちゃん、言いそう」
言ってから、笑いそうになった。
母さんも、困ったように笑った。
「言いそうでしょ」
「言うな」
父さんが短く言った。
母さんがまた笑った。
父さんも、ほんの少しだけ口元を動かした。
姉ちゃんに言えないのは嫌だった。
でも、姉ちゃんのことを三人で笑ったら、嫌な感じだけではなくなった。
「それから、急に生活を変えない」
父さんが指を二本立てた。
「生活?」
「欲しいものを買うなとは言わない。でも、何でもすぐ買うわけじゃない」
「ゲームは?」
つい聞いてしまった。
母さんがすぐこっちを見た。
「こういち」
「聞いただけだって」
「今ちょっと、買う気あったでしょ」
「ないって」
「あった」
父さんが咳払いした。
「ゲームも、買うなら一回ちゃんと話してからだ」
「買っていいの?」
「本当に聞いただけか?」
「ちょっとは欲しい」
でも、ゲーム機やソフトのことは、頭に浮かんでいた。
この前まで迷っていた四百八十円が、急に小さく見えそうになる。
けれど、母さんの湯のみを置く音で戻された。
「こういち」
「うん」
「ゲームの話は、また今度。買うとしても、父さんと相談してから」
「母さんもいいの?」
「ものによる」
「ものによるか」
「それより、明日の準備は終わってるの?」
「まだ」
「じゃあ、そこから」
父さんが紙の端をそろえた。
「あと、四億円を一つにしたままにはしない。使う金と、しばらく残す金、それから将来まで置いておく金に分ける」
「将来のため」
「大学とか、家とか、そういうものだ」
「株は?」
言ってから、父さんと母さんの両方がこっちを見た。
早いとは思ったけど、もう言ってしまった。
「この前、聞いてただろ。会社を買うやつ」
「株は会社を買うんじゃなくて、会社の一部だ」
「それ」
「それ、じゃない」
父さんは紙を一枚ずらした。
「やるとしても、少しだけだ。いきなり大きくは動かさない」
「少しだけ」
「それも、ちゃんと調べてからだ」
「うん」
父さんが俺をじっと見た。
「お前、本当に何を知ってる」
体が固まった。
でも、昨日よりは逃げ場がなかった。
「会社の名前くらい」
「どこの」
「パソコンとか、ネットの会社」
「雑誌に載ってたやつか」
「うん。あと、父さんのパソコンで見た」
嘘ではない。
全部でもない。
父さんは、しばらく何も言わなかった。
母さんも黙っている。
時計の音が聞こえた。
台所の方で、冷蔵庫が小さく鳴った。
「まあ、雑誌とパソコンで見たなら、気になるのは分かる」
父さんが言った。
「でも、勝手に決めるなよ。何かしたいなら、先に父さんに言え」
「勝手には決めないって」
「本当だな」
「たぶん」
「そこは、たぶんじゃない」
「……言う」
母さんがそこでお茶を飲んだ。
「学校では、誰にも言ってないよね」
「言ってない。七海には、ちょっと静かって言われただけ」
「七海ちゃん、同じクラスなんだ」
「うん」
母さんがお茶を置いた。
「へえ」
「そのへえ、何」
「いや、ちょっと」
「絶対ちょっとじゃない」
父さんが紙を持ったまま言った。
「話がそれてる」
「父さんも気になった?」
「気になってない」
「今、ちょっと聞いてた」
「聞こえただけだ」
母さんが笑った。
俺も笑った。
玄関の方で、ドアが開く音がした。
「ただいまー」
姉ちゃんの声だった。
居間の空気が、一瞬で変わった。
母さんが紙をまとめる。
父さんが銀行の封筒を手元に寄せる。
俺も思わず背筋を伸ばした。
「なに、三人で何してんの?」
姉ちゃんが廊下からのぞいた。
手にはラケットの入ったバッグを持っている。髪が乱れていて、額に汗がにじんでいた。
「話」
父さんが言った。
「何の?」
「こういちの学校のこと」
「また?」
姉ちゃんが俺を見る。
「あんた最近、学校のこと多くない?」
「俺に言われても」
「何したの」
「何もしてない」
「何もしてないなら、そんな集まらないでしょ」
母さんが立ち上がった。
「お姉ちゃん、手洗ってきなさい。汗かいてるでしょ」
「はいはい」
姉ちゃんはまだこっちを見ていたけれど、バッグを置いて洗面所へ行った。
水の音が聞こえる。
父さんは小さく息を吐いた。
母さんは封筒を食器棚の引き出しではなく、父さんのかばんの中へ入れた。
俺は湯のみのふちを指で触った。
姉ちゃんが戻ってくる前に、父さんが低い声で言った。
「今日はここまでだ」
「うん」
「明日からも今までどおり学校に行って、宿題もやれ。遊ぶなら時間を守るんだ」
「それ、四億関係ある?」
「金があるからって、生活までいい加減にしていいわけじゃない」
「いい加減にはしないって」
「そういうのは、すぐ生活に出るんだよ」
母さんもうなずいた。
「明日の準備、終わらせておきなさい」
「分かった」
今度は、さっきよりましな声が出た。
姉ちゃんが洗面所から戻ってきた。
「お腹すいた。今日なに?」
「焼きそば」
「やった」
姉ちゃんはさっきまでの空気を知らないまま、台所をのぞき込んだ。
母さんが皿を出す。
父さんが封筒の入ったかばんを足元に置く。
俺はテーブルの上に残っていた湯のみを、台所へ持っていった。
「こういち、今日やけに手伝うじゃん」
姉ちゃんが言った。
「たまには」
「怪しい」
「怪しくない」
姉ちゃんは笑って、焼きそばの皿を待っている。
俺も笑った。
その日の夜、机に向かうと、漢字ドリルが開きっぱなしになっていた。
俺は鉛筆を持って、漢字ドリルの一文字目を書いた。




