閑話 学校へ行っている間【別視点・藤宮恒一郎】
その日の朝、玄関の戸が閉まる音がしても、俺は新聞を開かなかった。
恒一が出て、その少しあとに真鈴も出た。二人分の足音がなくなると、食卓には味噌汁の椀と、畳んだままの新聞だけが残った。
妻が真鈴の茶碗を重ねる。
「会社に電話しなくていいの?」
「今からする」
返事をしてからも、すぐには立てなかった。
上着の内ポケットを、服の上から押さえる。
薄い封筒の角が、指に当たった。
「そこだと曲がらない?」
「かばんに入れるよりはいい」
「落とさないでよ」
「分かってる」
昨日から、何度同じことを言ったか分からない。
居間の電話から会社へかけた。
「藤宮です。すみません、家の用事で午前中、休ませてください」
上司の返答に、少し間があった。
『昼からは来られるのか』
「そのつもりです」
『分かった。急ぎの書類だけ、机の右に出してあるからな』
「はい。すみません」
電話を切ると、妻が流しから振り返った。
「用事って、それだけでよかったの?」
「ほかに言いようがないだろ」
「そうだけど」
妻は水を止め、ふきんで手を拭いた。
「本当に四億だったら、どうするの」
「本当かどうかを、これから聞きに行く」
「聞いたあと」
答えずに、車の鍵を取った。
四億円という言葉は、昨日の夜から何度も頭に浮かんだ。
そのたびに、電話の向こうで言われた金額を聞き間違えたのではないか、券の番号をどこか見間違えたのではないかと思った。本当に四億円だったらどうするかは、まだ考えられなかった。
「行ってくる」
「気をつけてね」
玄関で靴を履き、もう一度、胸の封筒を押さえた。
車に乗ると、シートベルトが上着の上から当たった。
封筒をつぶしている気がして、信号待ちで少し位置をずらす。次の信号では、今度は内ポケットの口が開いていないか気になった。
宝くじ売り場は、恒一と券を買った時と同じ場所にあった。
窓口の横には、次の回の数字を書く紙が置かれている。前に来た時と何も変わっていない。
俺は後ろに誰もいないのを見てから、封筒を出した。
「昨日の当せん番号なんですが。電話では聞いたんですが、間違えていないか見てほしくて」
窓口の女性は券と当せん番号を見比べ、途中で奥にいる人を呼んだ。二人で確かめたあと、銀行の場所を書いた紙を差し出した。
「一等で、間違いないと思います」
「思います?」
「こちらではお支払いできない金額ですので、銀行で正式に確認していただくことになります」
返された券を封筒に戻し、口を指で挟んだ。
銀行に着くと、いつもより駐車場が混んでいた。
封筒を上着の内ポケットに戻し、入口の前でもう一度押さえる。
番号札を取り、呼ばれるまで待った。
座る気になれず、壁際で立っていた。電光板の数字が一つずつ変わるたび、手の中の札を見た。
自分の番号が出て、窓口で封筒を渡した。
「宝くじの当せん確認をお願いしたいんですが」
声を低くしたつもりだった。
「少々お待ちいただけますか」
「券は」
「こちらでお預かりします。すぐお戻ししますので」
職員は封筒ごと持って、奥へ行った。
券が奥へ運ばれてから、戻ってくるまでが思ったより長く感じた。
窓口の前に置かれた椅子に座る。膝の上で手を組もうとしたが、指がうまく組めなかった。
隣の窓口では、年配の女性が通帳の数字について聞いていた。
「ここから、これが引かれてるんですか」
「はい、こちらが今月分です」
聞こえてくるのは、何千円か、何万円かの話だった。
しばらくして、さっきの職員が別の職員と戻ってきた。封筒は最初に預けた人が持っている。
「お待たせしました」
二人とも、さっきより声が静かだった。
「確認しました。こちら、一等の当せん券で間違いありません。金額は四億円です」
背中が椅子から少し離れた。電話で聞いた時よりも、逃げ道のない言葉に聞こえた。
職員は、当せん券の扱いと次の手続きについて説明を始めた。
今日この場で全部が終わるわけではないこと。書類が必要なこと。口座についても改めて話すこと。途中で一度聞き返し、渡された紙を折らないようにかばんに入れた。
銀行を出る前に、公衆電話から会社へかけた。
「藤宮です。午前だけの予定でしたが、すみません。今日は一日休ませてください」
『何かあったのか』
「家のことで、もう少しかかります」
受話器を持つ手に、汗がついていた。
『明日は来られるんだな』
「はい。明日は行きます」
『分かった。今日はこっちでやっておく』
「すみません」
電話を切り、ハンカチで手を拭いた。
駐車場へ戻っても、すぐにはエンジンをかけなかった。
かばんから銀行の紙を出し、最初の行から読み直す。
何に使うか。
どう保管するか。
仕事はどうするか。
いくつか浮かんだが、どれも自分だけで決める話ではなかった。
券を買った窓口で、恒一はポケットから百円玉を二枚出した。
ほんとに自分で出すのかと聞いたら、あいつは、自分で買いたいからと言っていた。
紙をかばんに戻し、ようやくエンジンをかけた。
家へ戻ると、玄関に恒一の靴はまだなかった。
妻が台所から出てくる。
「どうだった?」
上着を脱ぐ前に、銀行の紙を食卓に置いた。
「本当だった」
「四億?」
「四億」
妻は立ったまま紙を見た。
手を伸ばして、銀行の名前が入ったところを押さえる。
「これから、どうするの」
「まず、受け取りの手続きだ。口座のことも聞かないといけない」
「こういちの?」
「あいつの金だからな」
「あの子、本当に適当に選んだのかな」
「分からない」
妻は紙から手を離した。
「でも、昨日ほとんど寝てないみたいだった」
「今日も授業になってないだろうな」
「ちゃんと学校に行っただけでもいいでしょ」
それには返事をしなかった。
俺も会社を一日休んだ。
「真鈴には、どうする?」
「今は言わない」
「ずっと?」
「ずっととは言ってない。まず、恒一と話してからだ」
妻は少しだけ廊下の方を見た。
「帰ってきたら、すぐ話す?」
「そうだな。帰ってきたら話すか」
妻が小さく笑い、食器棚を開けた。
湯のみを二つ出してから、もう一つに手を伸ばす。
「まだ帰ってこないか」
「まだ早いよ」
三つ目の湯のみだけ、食器棚の前に置かれた。




