第十七話 言わないつもりだった
俺は机の上のゲームボーイカラーから、なかなか目を離せなかった。
昨日の夜、箱に戻そうとして、結局戻さなかった。説明書だけ箱に入れて、本体は机の端に置いたままだ。
朝の光に当たると、透明な外側の奥が少しだけ見えた。
「こういちー、朝ごはん冷めるよー」
母さんの声がした。
「今行くー」
返事をしてから、ランドセルを開ける。
国語。
算数。
連絡帳。
ゲームボーイカラーに、一回手が伸びそうになった。
「だめだろ」
机の奥へ押した。
持っていったら、たぶん母さんに怒られる。
俺はランドセルのチャックを閉めた。
台所へ行くと、姉ちゃんが食パンをかじりながらこっちを見た。
「ゲーム、持っていくの?」
「持っていかない」
「えらいじゃん」
「持っていったら怒られるだろ」
「怒られないなら持っていくんだ」
「そういうことじゃない」
姉ちゃんはにやっとした。
「今日、学校で自慢するんでしょ」
「しない」
「ほんとに?」
「しないって」
「遼太くんが言いそう」
そこは、少し言い返せなかった。
母さんが味噌汁を置きながら言った。
「ほら、先に食べなさい」
「うん」
「ゲームのこと考えてたでしょ」
「考えてない」
父さんは新聞を畳んだ。
「学校に持っていくなよ」
「持っていかない」
「本当か」
「部屋に置いてある」
「ならいい」
父さんは新聞を横に置いた。
「毎日友達を家に呼ぶのはだめだからな」
「分かってる」
「母さんも困る」
「うん」
姉ちゃんが横から言った。
「じゃあ、うちはたまに借りていい?」
「何でそうなるんだよ」
「家にあるんだし」
「俺のだろ」
姉ちゃんは少し得意そうにした。
校門の近くで遼太が手を振ってきた。
「藤宮、昨日の続きいつやる?」
「朝からそれかよ」
「気になるだろ」
「ならないわけじゃないけど」
悠斗も横にいた。
「昨日、あれから進んだ?」
「ちょっとだけ」
「どこまで?」
「最初の町出たくらい」
「早」
「早くないだろ」
遼太がすぐ口を挟む。
「最初のやつ、名前つけた?」
「まだ」
「じゃあ俺が決める」
「勝手に決めるな」
昇降口に入る前に、七海がこっちを振り返った。
「何を決めるの?」
「モンスターの名前」
七海は靴を脱ぎながら、こっちを見た。
「ゲーム?」
「昨日、藤宮が買ったやつ」
「まだ少ししかやってないけど」
七海は上履きを片方だけ履いて、少し目を丸くした。
「ゲームボーイ?」
「カラー」
「え、カラーのやつ?」
「うん」
「いいな」
「見たい」
「持ってきてない」
「そりゃそうでしょ。持ってきてたら先生に取られるよ」
「だろ」
「何のゲーム?」
答える前に、遼太が言った。
「モンスターのやつ」
「ああ、あれ」
七海はすぐにうなずいた。
「弟が欲しがってる」
「弟いるんだ」
「いるよ。うるさいのが」
「遼太みたいな?」
「俺うるさくないし」
七海は笑った。
「遼太よりは小さいから、まだまし」
悠斗が小さく笑った。
教室に入ると、遼太はまだ昨日の話をしていた。
「通信ケーブルあったらさ、交換できるんだろ」
「本体もう一個いるって」
「誰か持ってないの?」
「知らない」
「探そうぜ」
「何を」
「持ってるやつ」
朝の用意をしながら話していると、近くの男子がこっちを見た。
「何の話?」
俺は連絡帳を机に置きながら言った。
「ゲームの話」
「藤宮、ゲーム買ったの?」
隣の席の子も、こっちを見た。
「買ったっていうか、家でやるやつ」
「何それ」
「ゲームボーイカラー」
「まじで?」
「静かにしろって」
「見せて」
「学校には持ってきてない」
「なんで」
「持ってくるわけないだろ」
遼太が横から言った。
「先生に取られるからな」
「そういうこと言うなよ」
「だって取られるだろ」
七海が連絡帳を出しながら言った。
「そろそろ先生来るよ」
ちょうどその時、廊下の方から足音がして、遼太が急にそっちを向いた。
「早」
「だから言ったじゃん」
先生が教室に入ってきた。
「はーい、朝の用意できてるか」
何人かが慌ててランドセルを開ける。
俺も連絡帳と筆箱を机に置いた。
ゲームの話はそこで切れた。
遼太は前を向いたまま、口だけで「あとで」と動かした。
一時間目が終わると、遼太がすぐ来た。
「今日、行っていい?」
「今日はだめ」
「なんで」
「昨日来たばっかりだろ」
「昨日は昨日」
「毎日は無理だって」
「ちぇ」
遼太は机の端に指を引っかけた。
悠斗が横から言う。
「でも毎日行ったら、藤宮のお母さんに怒られるよ」
「なんで」
「普通に迷惑じゃん」
「迷惑かな」
「迷惑だろ」
遼太は少し考えてから、俺を見る。
「じゃあ明日」
「早いって」
「じゃあ水曜」
「一日しか空いてないだろ」
「木曜」
「増やせばいいってもんじゃない」
七海が後ろから言った。
「予約制?」
「違う」
「じゃあ紙に名前書く?」
「書かない」
「一番、遼太。二番、遼太」
「俺二回やる」
「やっぱり予約制じゃん」
七海が笑うと、遼太も少し笑った。
俺も笑ってしまった。
給食の時間にも、話は少し戻ってきた。
牛乳を飲んでいると、遼太がパンをちぎりながら言った。
「電池って何本いるの?」
「単三二本」
「土曜まで持つ?」
「知らない。まだそんなにやってないし」
「途中で切れたら嫌じゃん」
「そんなすぐ切れないだろ」
俺は牛乳パックを置いた。
「うち、電池買うだけでも母さんに聞かないとだめ」
悠斗が言った。
「この前ミニ四駆で使ったからでしょ」
「あれはいるだろ」
「いるけど使いすぎ」
遼太はパンを口に入れたまま、少し不満そうな顔をした。
電池くらいなら、今なら買える。
何でもない、と思いかけて、パンの皿を見た。
「家に予備あるかだけ見とく。なかったらなしだからな」
言ってから、牛乳パックの角を指で押した。
遼太がぱっと顔を上げた。
「まじで?」
「あったらな」
「じゃあ土曜、長くできるじゃん」
「だから、まだ呼ぶって決まってない」
悠斗が笑った。
「遼太、もう土曜のつもりじゃん」
「仮だよ、仮」
七海が向かいの席から言った。
「何の仮?」
「藤宮んち」
「勝手に決めるな」
くだらない。
でも俺は、牛乳を飲むのを少し忘れていた。
放課後、靴箱で靴を履いていると、七海が横に来た。
「藤宮」
「何」
「ほんとに持ってきてないんだ」
「持ってきてないって」
「ちょっと見たかった」
「学校では無理だろ」
「だよね」
七海は自分の靴を履きながら、少しだけ黙った。
「うちの弟、言ったら騒ぐと思う」
「言うの?」
「家で言ったら、絶対見たいって言う」
「じゃあ言わなきゃいいだろ」
「それはちょっと言いたい」
「どっちだよ」
七海は笑って、靴箱の扉を閉めた。
「でも、いいな。カラーのやつ」
「うん」
「大事にしなよ」
「分かってる」
「遼太に貸しすぎると、落としそう」
「それはちょっと思った」
七海はそれだけ言って、友達のところへ走っていった。
遼太と悠斗は校門の方で待っていた。
遼太が言う。
「今日だめなら、いつならいい?」
「母さんに聞いてから」
「またそれ」
「勝手に決めたら怒られるだろ」
「じゃあ今日聞いて」
「分かった」
「ほんとに?」
「聞くだけ聞く」
「聞くだけって何だよ」
悠斗が横から言った。
「土曜とかならいいんじゃない?」
「土曜!」
「まだ決まってないって」
「土曜なら長くできるじゃん」
「できるかもしれない、くらい」
「じゃあ土曜な」
「決めるなって」
遼太は勝手に嬉しそうだった。
まだ決まってない、と言いかけたのに、声が少しゆるんだ。
家に帰ると、母さんが台所で夕飯の準備をしていた。
「おかえり」
「ただいま」
「今日は早いね」
「うん。ちょっと聞きたいことある」
「ゲームのこと?」
「なんで分かるんだよ」
「顔に出てる」
母さんが包丁を置いて、こっちを見た。
「誰か呼びたいの?」
「毎日は無理だよな」
「無理」
「土曜なら?」
「お父さんにも聞いてからね。呼ぶなら、あまり多くしないでよ」
「遼太と悠斗くらい」
「そのくらいなら、まあ」
「たぶんうるさいけど」
昨日、四人で画面をのぞき込んでいた時のことを思い出した。
画面は半分しか見えないのに、横から「あっち」とか「違う」とか言って騒いでいた。
母さんは、まな板の方を見ながら言った。
「じゃあ、土曜にするなら、おやつもいる?」
「いると思う」
「家にあるのでいい?」
「うん」
「じゃあ、来たら出すね」
母さんは少し笑って、まな板の上のにんじんを切り始めた。
夜、父さんが帰ってきてから、土曜日の話をした。
「友達を呼ぶ?」
「うん。遼太と悠斗。たぶん七海は来ない」
「たぶん?」
「学校でちょっと見たいって言ってたけど、家までは来ないと思う」
「そうか」
父さんはネクタイをゆるめながら、少し考えた。
「呼ぶなら、母さんがいる時間にしろ。夕方まで。外には持っていかない」
「分かってる」
母さんが台所で笑った。
俺はうなずいて、部屋に戻った。
花柄のノートを手に取って、使ったお金のページとは別のところを開いた。
電池と攻略本と通信ケーブル、と書いて、そこで手が止まった。
もう一台あれば。
頭に浮かんで、すぐ消した。
さすがにそれはない。
ノートを閉じた。




