第十二話 四億円
「この数字、どうやって選んだ」
父さんの声は大きくなかった。
でも、さっきまでとは全然違った。
怒っているわけじゃない。ただ、どう飲み込めばいいか分からない感じだった。
俺は口を開いたまま、少しだけ固まった。
ここで余計なことを言ったら終わる。
未来で見た。
一周目から覚えていた。
父さんが何度も話していた。
そんなことを言えるわけがない。
「……なんとなく」
やっと出た声は、自分でも頼りなかった。
父さんは券から目を離して、俺を見た。
「なんとなく?」
「うん」
「六つ全部か」
「紙見てたら、これかなって」
言ってから、まずいと思った。
これかなって、なんだ。
父さんは、まだ俺を見ていた。
母さんが横から口をはさんだ。
「子供ってそういうのあるんじゃない? 好きな数字とか」
「好きな数字には見えないけどな」
父さんはもう一度、券を見た。
六、十二、二十三、二十五、二十八、三十八。
誕生日でも、年齢でもない。
「こういち、ほんとに適当に選んだの?」
母さんに聞かれて、俺はうなずいた。
「うん」
喉が少し乾いていた。
父さんはまだ何か言いたそうだったけれど、受話器を耳に戻した。
「いや、まず確認だ」
さっきと同じ音声が、小さく漏れる。
母さんは台所に戻らず、俺の横に立っていた。エプロンで手を拭く動きも止まっている。
父さんはメモの六つの数字を券と見比べ、最後の数字の下に線を引いた。
「……同じだ」
母さんが小さく息を吐いた。
「一等って、いくらなの?」
「待て。そこも聞く」
父さんは受話器を耳に押し当てた。
俺は足の裏に、床の冷たさを感じていた。
四億。
知っている。
知っているはずなのに、父さんの口から出るまでは、まだどこかで違う気がしていた。
何か間違えているんじゃないか。
別の回だったんじゃないか。
買う日を一週ずらしたんじゃないか。
そういう考えが、今さらになって出てくる。
父さんの眉が少し動いた。
「……四億」
母さんが、何も言わずに父さんを見た。
「え?」
「一等、四億円」
母さんが口元に手を当てた。
四億円。
ニュースでもネットでも、何度も見たことがある金額だった。
でも、それはいつも他人の話だった。
自分の当てた金だと思うと、まったく別のものに感じた。
「四億って」
母さんが言いかけて、途中で止まった。
父さんも黙っている。
俺も何も言えなかった。
四億円あれば、家も買えるし、大学の金にも困らない。
行きたい場所にも、たぶん行ける。
アマ〇ンも、アッ〇ルも、エヌ〇ディアも、一瞬だけ頭に浮かんだ。
でも、すぐに考えるのをやめた。
今それを考え始めるのは早い。
俺は小学四年生だった。
四億円を当てた小学四年生。
誰かに知られたら、絶対に面倒なことになる。
「こういち」
父さんが言った。
「これ、学校で言うな」
俺はすぐにうなずいた。
「言わない」
早すぎた。
父さんの目が少しだけ止まる。
俺は慌てて、言葉を足した。
「言ったら、みんなに何それって聞かれるだろ」
「それだけじゃない」
父さんの声は低かった。
「友達にも友達の親にも言うな。先生にも言わなくていい。姉ちゃんにもまだ言うな」
「姉ちゃんにも?」
「今は言わなくていい」
母さんが小さくうなずいた。
「そうね。まず、お父さんとお母さんでちゃんと調べる」
「調べるって?」
「どうやって受け取るのかとか、どこに持っていくのかとか」
父さんは券をテーブルに置かなかった。
ずっと手に持ったままだった。
さっきまで二百円の紙だったものが、今は四億円の紙になっていた。
「なくしたら大変だな」
俺が言うと、父さんは笑わなかった。
「大変どころじゃない」
母さんが俺の肩に手を置いた。
「こういち、今日はもうロトのこと、あまり考えないで」
「無理だと思う」
つい、普通に返してしまった。
母さんは困ったように笑った。
「それはそうか」
父さんは封筒を出して、券をゆっくり入れた。
封筒の口を折る。
それだけの動きなのに、妙に時間がかかって見えた。
「これは父さんが預かる」
「うん」
「明日、銀行に聞くし、宝くじ売り場にも確認する」
「うん」
「それまで、誰にも言うな」
「分かってる」
父さんはもう一度、俺を見た。
「本当に分かってるか」
その言い方は、いつもの父さんだった。
宿題を忘れるなとか、暗くなる前に帰れとか、そういう時の声に少しだけ戻っていた。
俺は少し息を吐いた。
「分かってる」
今度は、ゆっくり言った。
母さんが台所に戻った。
止まっていた水の音が、また聞こえ始める。
味噌汁が温め直されて、鍋のふたが小さく鳴った。
姉ちゃんはまだ風呂に入っていた。
夕飯は普通に出てきた。
白いご飯。
味噌汁。
焼き魚。
焼き魚を少しほぐして、口に入れた。
味があまり分からなかった。
「ちゃんと食べなさい」
母さんに言われて、俺はもう一度箸を動かした。
「食べてる」
「全然減ってない」
「考えてた」
「今日は考えるなって言ったでしょ」
「無理だって」
父さんが新聞を広げようとして、やめた。
それから、俺を見る。
「明日も学校だぞ」
父さんに言われて、棚の方を見そうになってやめた。
姉ちゃんは何も知らないまま、魚の骨を皿の端に寄せている。
「分かってる」
俺はそう言って、味噌汁を飲んだ。
豆腐が熱くて、少しだけ口の中で崩れた。
夜、布団に入っても眠れなかった。
四億円が当たった。
ちゃんと当たったと思うと、布団の中で少し笑いそうになった。
でも、すぐに父さんの顔が浮かぶ。
父さんの低い声が、また戻ってくる。
この数字、どうやって選んだ。
俺は布団の中で、ゆっくり息を吐いた。
明日からは、何も知らないふりをしないといけない。




