第十一話 外国の会社
「ここ見て。これ絶対強いやつ」
ベンチの真ん中に置いた雑誌を、遼太が指で押さえる。
「そこ、さっき見た」
「俺は今見てる」
「宿題はどうすんだよ」
「あとでやるって。今はこれ」
「忘れるぞ」
「忘れないって」
遼太はそう言いながら、もう次のページを見ていた。
悠斗が横から笑う。
「絶対忘れる」
「うるさいなー。帰ったら見るし」
「連絡帳、ちゃんと持って帰ってる?」
「たぶん机の中にある」
「それ、もうだめじゃん」
だめだった。
遼太の目は、もう別のゲームの絵に行っていた。連絡帳のことは、たぶん頭から抜けていた。
俺は広告の小さい字をもう一度見た。
パソコン。
インターネット。
昔の俺なら、ゲームの画面と攻略記事だけ見て飛ばしていたところだった。
父さんの部屋にあるパソコンを思い出した。
まだ勝手には触れないやつ。
あれで何ができるのか、子供のころの俺はほとんど知らなかった。
「藤宮、そこ読んで楽しい?」
悠斗が聞いてきた。
「楽しいっていうか、気になる」
「ゲームのとこじゃないじゃん」
「ゲームじゃないけど、ちょっと見たい」
「ふうん。俺はいいや」
悠斗は足元の小石を蹴った。
遼太も広告にはほとんど目を向けない。新しいゲームの絵と、裏技の文字だけを追っている。
「藤宮、次」
「待って。ここだけ」
「また字ばっかり見てる」
「ちょっとだけだって」
「ちょっと長い」
遼太が待ちきれずに、横からのぞき込んできた。
「近いって」
「だって見えんし」
「もうちょっと待てよ」
「長いって」
三人で言い合っているうちに、夕方の風が少し冷たくなった。
ブランコの方では低学年の子がまだ遊んでいる。誰かの母親らしい声が「もう帰るよ」と呼んでいた。
五時が近い。
「そろそろ帰る」
「もう帰るの?」
「五時までって言われてる」
「藤宮、最近ちゃんとしてる」
「怒られるの嫌なだけだって」
「じゃあ明日な」
「明日も読む?」
「宿題あったら先やれよ」
「またそれ」
遼太が嫌そうな顔をした。
「お前こそ今日やれよ」
「分かってるって」
「まず連絡帳見るところからな」
「分かってるってば」
遼太は返事だけして、もう歩き出しそうになっていた。
俺も、それ以上は言わなかった。
ランドセルを背負い直して、公園を出る。
家に帰ると、母さんが玄関の方を見た。
「おかえり」
「ただいま」
「手、洗ってね」
「ランドセル置いたら洗う」
靴を脱いで、部屋に入る。
机の上には、花のノートがあった。
表紙の花は、やっぱり少しだけかわいすぎる。けれど、お小遣い帳としてはちゃんと役に立っている。
俺はページを開いた。
残り 百二十円。
その下に、鉛筆で書く。
株。
新聞。
父さんにまた聞く。
書いてから、手が止まった。
小四のノートに、株。
しかも花のノート。
「こういち、ご飯できるよー」
「今行くー」
返事をして、ノートを閉じようとしたところで、姉ちゃんが部屋の前を通った。
「なに書いてんの」
「見るなって。まだ書いてる途中」
「またほしいもの?」
「違うけど、別にいいだろ」
違う、と言ったのがよくなかった。
姉ちゃんはすぐ入ってきて、机の上をのぞいた。
「株?」
声が少し大きい。
「読むなって」
「こういち、株って書いてる」
「だから読むな」
「小四が株って何」
「新聞に載ってたから、ちょっと気になっただけ」
「また新聞?」
姉ちゃんは笑いながら、勝手にノートの端を指で押さえた。
「花のノートに株」
「うるさい。声でかい」
「おもしろいやん」
「おもしろくない」
姉ちゃんは廊下に向かって少し声を上げた。
「母さーん、こういちが花のノートに株って書いてる」
「言うなよ」
台所から母さんの声が返ってくる。
「株?」
「違う、いや違わないけど」
もう面倒だった。
俺はノートを閉じて、食卓へ行った。
晩ごはんは、焼き魚と味噌汁だった。魚の皮が少し焦げていて、皿の横に大根おろしが乗っている。姉ちゃんは席に座ってもまだにやにやしていた。
「こういち、株買うん?」
「買わない。買えないし」
「買えへんやろ」
「だから分かってるって」
「百二十円やもんな」
「見るなって言っただろ」
姉ちゃんが笑う。
父さんが新聞をたたんで、こっちを見た。
「また株の話か」
「ちょっと聞きたいだけ」
「ご飯食べてからにしろ」
「うん」
母さんが茶碗を置きながら言う。
「朝もその話してたでしょ。学校ではちゃんと授業聞いてた?」
「聞いてた」
「ほんとかな」
「ほんと」
味噌汁を飲む。
豆腐とわかめ。今日はねぎも少し入っている。
焼き魚の匂いの中で、外国の会社のことを考えているのが少し変だった。
食べ終わって皿を流しに持っていくと、母さんが「ありがとう」と言った。
「珍しいって言わないの?」
「言われたいの?」
「いや、別に」
「じゃあ言わない」
母さんは笑った。
リビングに戻ると、父さんは新聞を広げ直していた。テレビでは野球のニュースをやっている。姉ちゃんはソファでクッションを抱えていた。
「父さん」
「ん?」
「外国の会社の株って、新聞に載ってる?」
父さんは新聞から目を上げた。
「外国?」
「うん。アメリカとか」
「今度は外国か」
姉ちゃんがすぐ反応した。
「こういち、外国行くん?」
「行かない。そういう話じゃない」
「株買いに?」
「行かないって」
父さんが少し笑って、新聞をめくった。
「普通の新聞には、そんなに詳しくは載ってないと思うぞ。日本の会社なら株価欄にあるけどな」
「外国の会社は?」
「証券会社で調べるとか、そういうのになるんじゃないか」
「また、しょうけん会社か」
「朝も言っただろ」
「聞いたけど、よく分かってない」
「だろうな」
父さんは新聞を持ったまま言った。
言い返せなかった。
「外国の会社も買えるの?」
「買えるものもあるんだろうけど、父さんは詳しくないな。手数料もかかるだろうし、円じゃなくてドルの話にもなる」
「ドルもいるの?」
「アメリカのお金」
「それは知ってる」
「ならいい」
よくなかった。
アマ〇ン。
アッ〇ル。
名前だけなら出てくる。
どこに載っているのか。どうやって買うのか。子供の俺が、どうやってそれを聞くのか。
全然分からない。
「こういち」
父さんが新聞を少し下げた。
「株を買いたいのか?」
「買いたいっていうか」
「じゃあ、何だ」
「会社って、どうしたら大きくなるのかなって」
父さんはすぐには答えなかった。新聞の端を指で押さえたまま、少し考えている。
「いろいろだな。いいものを作るとか、たくさん売るとか、人を増やすとか」
「じゃあ、今は小さい会社でも、大きくなることある?」
「あるだろうな。逆もある」
「大きくならないこともあるってこと?」
「大きい会社がだめになることもある」
それは知っている。
なのに、俺は少し黙った。
「新聞読んだら分かる?」
「全部は分からん」
「じゃあ意味ないじゃん」
「意味なくはない。何をしてる会社か、世の中で何が起きてるかは少し分かる」
「少しだけ?」
「最初は少しでいいんだよ」
父さんはそう言って、新聞を俺の方に少し向けた。
小さい文字と会社の名前と数字が並んでいて、やっぱり読みにくい。
「まずは見出しだけ読め」
「見出しって、大きい字のところ?」
「大きい字のところだ。小さい数字ばっかり見ても分からんだろ」
「分からん。数字ばっかりだし」
「それでいい」
姉ちゃんが横から笑った。
「こういち、新聞読むん?」
「読むっていうか、見るだけ」
「おじさんみたい」
「うるさい」
「小四で新聞と株」
「もういいだろ」
母さんが台所から言う。
「新聞読むのはいいけど、宿題と明日の準備してからね」
「今日の宿題は終わってる」
「明日の準備は?」
「……まだ」
「じゃあ先に終わらせてからにしなさい」
俺は部屋に戻って、ランドセルを開けた。
連絡帳。
国語。
算数。
理科。
体操服が入ってない。
「あ」
声が出た。
廊下の方から姉ちゃんが言う。
「何忘れてたん?」
「体操服入れてなかった」
「株より体操服やな」
「うるさい」
言い返しながら、タンスを開ける。
白い体操服と、赤白帽。袋に入れる。名前のところに、ふじみや、と書いてあった。
それをランドセルの横に置いてから、花のノートを開いた。
株。
新聞。
父さんにまた聞く。
その下に、少しだけ書き足す。
外国の会社。
ドル。
しょうけん会社。
字が途中で小さくなった。
その横に、百二十円、と書く。
百二十円。
外国の会社。
同じページに並ぶと、ちょっと変だった。
いや、かなり変だった。
「こういち、お風呂ー」
「今行くー」
ノートを閉じる。
引き出しを開けて、百円玉を一枚見る。十円玉も二枚ある。
これで何ができるか。
十円のガムなら、十二個。
百円のアイスなら、一個。
百二十円では、外国の会社の株なんて買えない。
俺は引き出しを閉めて、着替えを持った。
廊下へ出ると、リビングから新聞をめくる音が聞こえた。
明日の朝、少しだけ見せてもらおう。
そう思ってから、体操服をまだランドセルに入れていないことに気づいた。
「あ」
もう一回、部屋に戻る。
株より先に、体操服。
俺は体操服の袋を、ランドセルの中に押し込んだ。




