第十話 新聞の数字
次の日の朝、花のノートを開いたまま起きた。
机の上に、昨日の字が残っている。
パソコン。
インターネット。
電話代。
父さんに聞く。
「こういちー、朝ごはん冷めるよー」
母さんの声がした。
「今行くー」
返事をして、ノートを閉じる。ランドセルの横には、昨日の雑誌が置いてあった。表紙の端は曲がったままだ。
直そうとして指で押したけど、すぐ戻ってくる。
「もういいか」
机の端に寄せた。
階段を下りると、味噌汁の匂いがした。テレビでは朝の番組が流れていて、姉ちゃんが制服のリボンを片手で直しながら、食パンをかじっている。
「おそ。もう食べてるで」
「遅くないって」
「髪はねてるし」
「分かってる。あとで直す」
「絶対忘れるやつやん」
姉ちゃんはそう言って、自分の髪を鏡も見ずに手で払った。
「姉ちゃんも適当だろ」
「うちはいいの。時間ないし」
「なんでだよ」
母さんが台所から振り返った。
「二人とも、食べながら言い合わない」
「こういちが先」
「姉ちゃんだろ」
「どっちでもいいから食べなさい」
俺は椅子に座った。
父さんはもう新聞を広げている。
端の方に、数字が並んでいた。
株。
味噌汁を一口飲んでから、父さんの新聞を横から見た。見出し、広告、テレビ欄。俺が見たい数字は、どこにあるのかすぐには分からない。
「何だ」
父さんが新聞から少し目を上げた。
「新聞って、株のところある?」
言ってから、味噌汁の茶碗を持つ手に少し力が入った。
姉ちゃんがパンをくわえたまま、こっちを見る。
「朝から何?」
「ちょっと気になっただけ」
「株って何」
「俺も今聞いてる」
「知らんのに気になったん?」
「新聞に載ってたから」
父さんが新聞を一枚めくった。
「株価欄か」
「かぶか?」
「株の値段が載ってるところだな」
父さんは新聞を畳み直して、テーブルの上に置いた。
小さい文字と数字が、びっしり並んでいる。
会社の名前の横に、細かい数字がずっと続いている。
思っていたより、読みにくかった。
「細か」
姉ちゃんが横からのぞいて言った。
「お前は見なくていい」
「見えたんやもん」
「食べろって」
「こういちが変なこと聞くからやん」
母さんが味噌汁の鍋にふたをしながら、少し笑った。
「お父さん、朝から難しい話しないでよ。学校行く前なんだから」
「俺が始めたんじゃない」
「こういち、急にどうしたの」
「昨日、新聞に数字がいっぱいあるの見えたから」
父さんは新聞の一か所を指で押さえた。
「会社には株っていうものがあってな。簡単に言うと、その会社の一部を買うみたいなものだ」
「会社を買うの?」
「全部じゃない。ほんの少しだ」
「ほんの少しでも買えるの?」
「買える会社もある。ただ、子供が自分で買うものじゃないぞ」
父さんの声が、そこだけ少し固くなった。
「なんで」
「お金もいるし、証券会社ってところに口座もいる」
「しょうけん会社?」
「株を買う時に使う会社だな。あと、株は上がることもあれば下がることもある」
「下がる?」
「買った値段より安くなることだな」
「損するってこと?」
「そうだ」
損、は分かった。
姉ちゃんがパンの耳をかじりながら言う。
「じゃあ買わん方がよくない?」
「そういう考え方もある」
「父さん買ってるん?」
「少しだけな」
俺は父さんを見た。
「買ってるの?」
「会社で付き合いがあって、少しだけだ。たいしたものじゃない」
「儲かった?」
「朝からそんな話をするな」
姉ちゃんが笑った。
「こういち、お金の話好きやな」
「好きっていうか、気になっただけ」
「昨日も雑誌のお金で悩んでたし」
「それは四百八十円だからだろ」
「まだ言ってる」
母さんが時計を見た。
「はい、そこまで。こういち、そろそろ準備しなさい」
「まだ新聞見てる」
「学校に遅れます」
父さんも新聞を畳んだ。
「興味があるのは悪くないけど、まず学校だ」
「分かった」
「あと、株で簡単に金持ちになれると思うなよ」
「思ってないって」
でも、今の俺の机の引き出しには、百二十円しかない。
金持ちどころか、ゲーム雑誌を一冊買っただけで、ほとんどなくなった。
ランドセルを背負うと、昨日より少し重かった。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
「髪、結局はねてるで」
「うるさい」
姉ちゃんの声を背中に受けながら、玄関を出た。
朝の空気は少し冷たい。
道の端に、昨日より小さい水たまりが残っていた。車が通ると、その横だけ光る。
学校へ向かう途中で、悠斗が走ってきた。
「藤宮、今日早い」
「昨日よりはな。宿題やってないから」
「今日もやった?」
「まだ出てない」
「じゃあ勝った」
「何にだよ」
悠斗はランドセルを揺らしながら笑った。
「昨日の雑誌、今日も読む?」
「学校には持ってこない」
「分かってるって。放課後」
「遼太が来たらな」
「来るだろ。あいつ、昨日めっちゃ見たがってたし」
曲がり角で、七海と一緒になった。
「おはよ。二人とも早いね」
「おはよう」
「藤宮、髪はねてる」
「二回目。姉ちゃんにも言われた」
「じゃあ直してきたらよかったのに」
「朝ごはん食べてたら忘れた」
「ほんとにそのまま来たんだ」
七海が少し笑った。
俺は前髪を押さえたけど、手を離すとまた戻った。
「もういい。このまま行く」
「あきらめ早」
「学校着くまでには直るかもしれない」
「直らんと思う」
悠斗が横から言う。
「水つければ直るんじゃない?」
「学校の水道でやるのは嫌だな」
「じゃあ一日そのままだね」
「そうする。もう三人に言われたし」
どうでもいい話をしながら歩く。
さっき見た新聞の細かい数字が、まだ少し気になっていた。
七海が「今日、体育あるっけ」と聞いて、悠斗が「たぶんある」と言った。
そういえば、連絡帳に体育と書いてあった気がする。
教室に着くと、遼太が机に半分寝そべっていた。
「藤宮、雑誌は?」
「持ってきてない」
「知ってるけど、一応聞いた」
「じゃあ聞くなよ」
「放課後な。昨日の続き」
「宿題あったら先やる」
「またそれ」
遼太は顔を上げて、俺の前髪を見た。
「寝ぐせ」
「三回目」
「数えてんの?」
「朝から三人に言われた」
「人気者じゃん」
「寝ぐせで人気になりたくない」
遼太は笑って、机の中から教科書を出した。
朝の会が始まるまでの教室は、昨日より少しだけ騒がしい。誰かが新しい消しゴムを見せていて、誰かが給食の献立表を見ている。
俺はランドセルから連絡帳を出した。
今日の持ち物。
国語。
算数。
理科。
体育。
「体育あるじゃん」
悠斗が横からのぞく。
「見るなって」
「助かった。体操服忘れてない」
「自分の見ろよ」
「藤宮の方が早い」
「なんだそれ」
佐伯先生が教室に入ってきて、黒板の前に立った。
「はーい、座れー。朝から元気なのはいいけど、出席取るぞ」
ざわざわしていた教室が、少しずつ席に戻っていく。
株。
会社。
証券会社。
朝聞いた言葉を、連絡帳の端に小さく書きそうになって、やめた。
そこに書いたら、あとで誰かに見られる。
代わりに、算数のノートの端を少しだけ指でなぞった。
黒板に書かれた計算の数字まで、朝の新聞みたいに見えた。
授業が終わって、休み時間になると、遼太がすぐ後ろを向いた。
「藤宮、今日なんかまじめ」
「授業中だろ」
「いつもより黒板見てた」
「見てただけ」
「先生みたい」
「先生は黒板の前だろ」
「じゃあ黒板係」
「そんな係ない」
遼太は雑なことを言って、勝手に笑った。
昼休み、給食の牛乳を飲みながら、俺は朝の新聞をまた思い出した。
父さんの声だけ、まだ少し残っていた。
会社を少し買う。
でも、新聞の数字は読めなかった。
父さんが少しだけ持っていると言った株が何なのかも、分からない。
知っている会社の名前をいくつか思い出しても、今すぐどうすることもできない。
牛乳パックをたたもうとして、失敗した。
「藤宮、へた」
悠斗が言った。
「うるさい。これ、たたみにくいだろ」
「こうやるんだよ」
悠斗は自分の牛乳パックをぺたんとたたんだ。
「なんでうまいんだよ」
「毎日やってるし」
「俺も毎日やってたはずなんだけどな」
「はず?」
「なんでもない」
俺はもう一回折った。
今度は少しだけましだった。
放課後、家に帰ると、母さんは台所でじゃがいもの皮をむいていた。
「おかえり」
「ただいま」
「今日は早いね。雑誌、読みに行くの?」
「行くかも。公園で昨日の続き読むって言ってた」
「宿題は?」
「まだ見てない」
「じゃあ、先に連絡帳見てからね」
「分かってる。あったらやる」
ランドセルを置いて、連絡帳を開く。
宿題。
漢字ドリル一ページ。
算数プリント一枚。
思ったよりある。
「うわ」
声が出た。
母さんが台所から言う。
「何?」
「宿題あった」
「先にやっちゃいなさい」
「分かってる」
「またインターネット見たいなら、なおさら先にやる」
母さんのその言い方で、昨日のパソコンの光を思い出した。
「今日は見るか分かんない」
「お父さんがいる時だけね」
「分かってるって」
机に向かって、漢字ドリルを開く。
株とか会社とか、朝聞いた言葉がまだ残っている。
でも、その前に今日の漢字を書かなければならなかった。
線が少し曲がる。
消しゴムで消して、もう一回書く。
雑誌を読みたい。
パソコンも触りたい。
新聞も見たい。
でも、漢字ドリルは一ページある。
「多いな」
鉛筆を握り直した。
夕方、宿題を終えるころには、放課後の時間は半分くらいなくなっていた。
それでも雑誌を袋に入れて、母さんに声をかける。
「公園行ってくる」
「五時までね。雑誌は袋に入れた?」
「入れた」
「歩きながら読まない」
「読まないって」
「昨日も言った」
「今日はちゃんと袋に入れてる」
「よし」
母さんはじゃがいもを水にさらしながら言った。
外に出ると、少しだけ日が傾いていた。
公園には、悠斗だけがいた。
「遅い。遼太まだ来てないけど」
「宿題あったんだよ」
「遼太はまだ来てないのか」
「まだ。あいつ、たぶん忘れてる」
「宿題じゃなくて?」
「違うと思う。連絡帳も見てなさそうだし」
悠斗は自信ありげに言った。
「ひどいな」
「でも来るだろ」
「それは来る気がする」
二人でベンチに座る。
袋から雑誌を出して、ベンチの上でページを開いた。
開いたページには、昨日見たパソコンの広告がある。
インターネット、という文字の横に、聞いたことのない会社名がいくつか並んでいる。
新聞と同じで、細かい字は見ているだけで目が疲れる。
「藤宮、また字読んでる」
悠斗が横から言った。
「読んでる。ここ気になるんだよ」
「絵見ようぜ。字ばっかりだと眠くなる」
「ちょっと待って。もう少しだけ」
「字、好きなの?」
「好きっていうか、気になる」
「ふうん。俺、絵の方が好き」
「知ってる」
悠斗は笑って、ベンチの下に落ちていた小石を靴でつついた。
遼太はまだ来ない。
俺は広告の端を指で押さえたまま、父さんの言葉を思い出した。
子供が自分で買うものじゃない。
家に帰ったら、花のノートに書こう。
株。新聞。父さんにまた聞く。
その横に百二十円と書いたら、ちょっと笑うかもしれない。
それでも、書かないと忘れそうだった。
ブランコの方から、遼太の声がした。
「ごめん、寝てた!」
悠斗が顔を上げる。
「宿題じゃないじゃん」
「宿題はあと!」
「やっぱ忘れるやつだ」
遼太が走ってくる。
俺は雑誌のページを押さえながら、少しだけ笑った。
新聞の数字は、まだよく分からない。
でも、とりあえず今は、雑誌のページが風でめくれないようにする方が先だった。




