第16話 悲痛を胸に抱き
暗闇にて揺蕩っている。体は鉛の様に重く、心には汚泥を被ったような不快感だけがある。手足の感覚は無く、光すらも飲み込む暗き影の世界が眼前に広がっていた。遅れて気付く、これは夢だ。彼女の精神と深く干渉した事による一時的な心象の共有とも言える。現実とは大きく異なる不快な空間は、星羅の心を蝕んでいく。深く、残酷に。
気力無く俯いていると、目の前に一筋の光が差し込んだ。光は彼女を暖かく、そして優しく包み込み、幸福と安らぎを与える。だがそんな幸福は長く続かない。永劫を望んだ安らぎは、無慈悲にも奪われた。消えゆく光を求めて必死に走る。光はその手で掴む事は出来ず、彼女を再び闇へと突き落とした。
これがアルカナの味わった絶望だ。彼女のいる場所が暗闇であると教えてくれたのは、ロナウド・アストラエアだった。暗闇から連れ出してくれたのはロナウド・アストラエアだった。彼はアルカナにとって光そのものだったのだ。初めて知る幸福という感情は、彼女にとってこの上なく大切なものだった。喜びも悲しみも彼から教わった感情だ。だからこそなのだろう、それを奪われた事実が、本物のない現実が、彼女には耐えられなかった。
支えを無くした闇は、その身を復讐の業火で焼き焦がす。それが間違った道であると分かっていても。それを成し遂げる事こそが、至上の命題と言わんばかりに。闇に囚われた彼女の姿は、か弱き少女のまま変わってなどいない。
「私はそれでも、彼に非難されようと、世界を焼く」
少女の声が、怒りを纏ったその声が響く。だが声の奥底に、星羅は確かに見た。暗い地の底で、蹲り鎖に囚われた、黒髪の少女を。
星羅は不快な感情を抱きながら、ゆっくりと目を覚ます。眼前に広がるのは見知った天井だ。だが覚えがあるのは彼女自身の記憶故では無い。これはアルカナの記憶だ。
記憶の混濁が見られる。魔本世界に長く居たせいだろうか。アルカナの記憶と自身の記憶、その境界が揺らいでいる。頭痛が酷く、頭が割れそうだ。意識がはっきりとするにつれ、身体を襲う鋭い痛みを実感する。
目を向けると体の至る所に包帯が巻かれており、血が滲んでいた。感覚的に表面上の傷は既に治っている。治癒に時間がかかっているのは骨。肉とは異なり、骨の治癒には時間を要するのだ。星羅の技を模倣され、それをノーガードで受けた事も負傷の一因ではあるが、より厄介な傷はロナウドの攻撃によって付いた傷。彼は星羅が自己治癒を得意としていると察知して直ぐに、より尾を引く傷を与えてきた。戦闘に於ける経験値で大きく劣っていたという事だ。
敗北感を覚えながら、痛む体を起こし周囲を見渡すと、そこはやはりアルカナの記憶にあった酒場だった。記憶よりも更に廃れてはいるが、やはりここはアルカナとロナウド、そして彼が出会った場所だ。
「貴方は――」
星羅はカウンター席に座っている男に語り掛ける。その男は記憶と同じように酒を啜り、感傷に浸っているようだ。青みがかった髪と紅い瞳、薄暗い室内ですら異彩を放つその男は、鋭い目付きで星羅を見つめた。
「アトラス・サンダーボルト。星詠の間でアルカナの過去を見たのなら、少しはオレの事を知ってるだろう? オレはオマエの事をよく知ってるぞ。虎城星羅、五年前突如としてソラリスに現れた、若き希望の星」
目の前のアトラスは当然記憶よりも大人びている。だがそれだけではない、精神的に参っているのか、気苦労が見てとれるようだ。きっとまだ、十年前の事件を引きずっているのだろう。
「私を助けてくれたのは貴方ですか?」
「オレは手伝っただけだ。それに、オマエの兄貴に頼まれたからな。随分と手酷くやられたようだが、聞いていた通り再生能力が驚異的だ。これならあと数時間あれば完治するだろう」
星詠の間へと招かれる前、星羅はアルカナに惨敗した。あれから数時間、いや窓の外は既に夜闇が覆っている。十数時間は経っているだろう。
「私の体は特別らしいから……それよりも、兄さんが貴方に協力を要請していたとは……何はともあれ、ありがとうございます」
「気にするな、オレにも戦う理由があるからな。オマエの兄貴は三年前、捜索対象だったオレを見逃した。その時から今回の事態を予測していたんだろう」
「捜索対象?」
「……まさか、妹にも隠してやがったのか。五年前、オレは星騎士を辞めた。アイツはもう、オレが護ってやる程、弱くは無かったからな。そして三年前、少し遅れてオマエらがこの都市へ補充された。当時から最強と名高かったオマエの兄貴は、即座にオレの捜索を依頼された。生死問わずのな。だが奴はその時、オレを見逃したんだ」
アトラス・サンダーボルトは元星騎士、その肩書きが持つ意味は大きい。単体での戦闘力が国家の持つ軍事力の中で最も秀でているという国直々のお墨付きなのだ。同じく星騎士程の実力がなければ、唯の人間と見分ける事すら出来ず、あらゆるセキュリティをその身1つで抜ける事も可能、そんな世界一自由な殺戮兵器を野放しにする事なぞ誰が出来ようか。
この都市へ送られた当初、星羅の戦闘能力は素人に毛が生えた程度だった。だからだろう、失踪したアトラスの捜索任務を天星が受けたのだ。任務は極秘のもの、星羅にはその一切が知らされてはいなかった。生死問わずと言う任務の意図は、容易に想像がつく。政府はアトラスを殺すつもりだったのだ。口封じが主な目的だろう。
広大な土地から唯一人の人間を見つけ出す事は困難を極めるかに思われたが、魔力を探知する技術を持つ星騎士、それも最強の称号を持つ天星は僅か一週間でアトラスを見つける事に成功する。政府上層部にとって誤算だったのは、その最強が自らの手駒であると誤認していた事。天星は何を思ってか、「任務対象は抹殺した」という嘘を吐いた。その真偽を確かめる術など政府には無く、今に至る。
「何で兄さんはそんな事を? まさかアルカナの過去を知っていて?」
「いいや、少なくともその時は知らなかった。後でオレが教えたんだからな。奴がオレを生かしたのは、この時を見越していたからだろう。アルカナが都市を潰しにかかるこの時を」
アルカナの実力は既に星騎士と同等のものだ。五年前の時点で、引退した星騎士を屠れる程だったのだから。彼女が振るう復讐の刃は、最早都市を滅ぼせるものへと成っている。
「星騎士を殺し、オマエらが派遣される二年の間。都市庁舎を滅ぼすには、絶好の機会だった筈だ。だがアルカナはそれをしなかった」
「成程、彼女は都市庁舎を滅ぼすだけじゃない。都市全体を滅ぼす気か。そして恐らくこの五年で、その準備は整った」
「オマエの兄貴はその事実を都市に着いて直ぐに気付いた。いやはや、恐ろしい勘の良さだよ」
アルカナの復讐心は業火の如きものだ。生半可な復讐で、彼女は満足しない。その刃はジャックだけでなく、彼が創り出した恩恵にあやかる、都市全土へと及ぶ。
「……兄さんは今何処に?」
「じきに来る。都市庁舎はアルカナが占拠しちまったからな。敵の情報と侵入経路を押さえておくらしい。何か飲むか? つっても酒しか無いが……」
酒を勧める彼は、星羅と遠い記憶の誰かを重ねているようだった。
星羅達は酒を飲みながら語らい続ける。月明りが差し込む酒場にはそもそも電気が通っていないのか、室内には月光と蝋燭の灯りだけがあった。暗がりのせいもあってか、アトラスの瞳に更なる闇が落ちているようにすら見える。
星騎士の体はこの世多くの毒を無効化する。それは酒に含まれるアルコールも例外ではない。その為、星羅達星騎士は、たとえ未成年であっても酒を飲もうが酔う事はないのだ。そもそも新時代の法に成人などという概念や、酒を禁じる概念すらも含まれていないが。
「1つ教えて欲しい事があるんですが……」
「教えて欲しい事? 何でも答えるさ、どうせ言って困るような事なんて無い」
「さっき言ってた戦う理由……それってやっぱりアルカナの事ですよね?」
「……ああ、あの子がああなったのは元々オレのせいでもある。結局の所、過去からは逃げられない。それが後ろめたいものならば尚の事。天星はオレに最期のチャンスを与えてくれた。今度こそ、しくじる訳にはいかない」
快諾の言葉とは裏腹に、アトラスは僅かに躊躇いながら答えた。魔本世界の最期、アルカナと彼は袂を別ってしまう。その原因が彼自身にあるとは微塵も思わない、思わないが、彼は自らに非があると認識しているのだろう。虚ろな彼の表情が、星羅の思惑の正しさを証明している。
アトラスの後悔は、アルカナの手を取れなかった事にあるのだ。それが彼自身の正義に則したものであれば、彼も幾分か楽だっただろうが。
「過去を見たのならば分かるだろう。オレは救える立場にあった。あの子の手を取れる立場に」
「それで貴方は……自身を責めている。ですが私は貴方に責があるとは思いません。あそこで手を取る事は悪事に手を貸すと同義ですから」
「……いいや、やはりオレのせいだ。ずっとそうだった。オレは迷ってばかり、あの時も、今も。それがアルカナを苦しめる事になると分かっていたにも拘らず…………」
アトラスは迷った。ロナウドが星騎士達と戦う為、地下に残った時。ジャックから政府への従事を提案された時。そして、アルカナが手を伸ばした時。迷いの末に選んだ結果が今だ。もっと良い道があった筈だと、後悔だけが残っている。それが何よりアトラスを苦しめた。
「ロナウドはアイツ自身が思っているよりも、オレ達の中で大きな存在だった。そして、アイツの死を礎として成り立つには、この都市はあまりに醜かった」
アルカナの心と同期した星羅にも、その感情は理解出来る。痛いほどに。ロナウドを愛する者からすれば、四星剣が殺された光景はどう見えていたのか。最愛の家族が命を賭して生み出した平和、仮初であろうと、意図していないものであったとしても、あの先にあるのは確かに平和だった。それを、彼が護ろうと奔走した国民がその手で破壊したのだ。それを瞬間を見て、どんな想いだっただろう。
「ジャック・マクシミリアンにしてもそうだ。奴は当然ロナウドの犠牲を秘匿し、新たな四星剣としての地位を確立させた」
「魔導障壁……」
十年前、ロナウドが殺された後、ジャックは予定通り魔導障壁を完成させる。それはアトラス達にとっては憎むべき功績だった。だが犠牲の事実が隠蔽され、障壁作成の事実のみが伝わってしまう。表向きのジャックは、人類を護る多大な功績を残した偉大なる人物として扱われたのだ。ロナウド・アストラエアの功績など、民達は直ぐに忘れ去った。それが何よりも、許せなかったのだろう。アルカナの想いは、アトラスにだって痛い程理解出来る。
「そうだ、ロナウドの命を奪い完成させた都市を護る防護壁。障壁の効果は絶大なもので、それまで魔獣の襲撃が絶えなかったこの都市を安全なものとした。実際、外部からの魔獣は宇宙樹アルカイドが枯れかけていた事で鎮静化されていたんだがな。都市内での魔獣被害が減ったのは俺達が魔獣を粗方掃討しておいたから。だが障壁は、民に精神的な安寧を齎した。それも長くは続かなかったが……」
アトラス達に与えられていた命令、地区内の魔獣掃討。元々魔獣が多かった第三地区は、彼等のお陰で見違える程安全になった。今も地区内にのさばっているのは狩り残した魔獣の子孫だ。ジャックが言っていた通り、元々障壁など必要が無かった。今行われているのは、都市の円滑な運営の為の悪政に過ぎない。偽りの脅威をでっち上げる事で、魔導障壁の必要性を無理に説いているのだ。
「…………」
「ロナウドは……友だった。だがそんな友の犠牲の上であったとしても、オレは復讐しようなんて思わなかった。大勢の幸福の為なら自分の命なぞ顧みない、それがロナウドだったからだ。だけど、あの子にこの考えは理解出来なかったんだろう」
アトラスの言葉は不思議と言い訳のように聞こえた。行動を起こさない自分を、言い聞かせる為の言い訳。先刻も言ったように、彼は今も迷っているのだ。自分の行動は正しいのか。更なる不幸を生んでしまわないかと。だからこそ、手を取る事を躊躇してしまう。
「平和になると信じていた。だが違った。都市の人間達は魔導障壁を有難がる事はしなかった。偽りとはいえ、魔獣の脅威から護られ、十年前よりもこの都市の技術レベルは飛躍的な成長を遂げたにも拘わらず。より良い生活を享受し、安全を一方的に受け入れるしか能の無い愚物のクセに、都市民はこの平和にケチをつけた。不満は続出し、今迄以上に都市内部では犯罪が横行した」
アトラスらの希望を裏切るように、魔獣という外からの脅威が減少した都市内部では、人間による犯罪が増加してしまった。共通の敵が減り、代わりに生まれた生活の苦しさから来る内部分裂。それが彼らの目にはどう映っただろう。絶望と言うには生温い、落胆。
「……それは」
「悪いな、少々口が悪くなった。だが完璧な平和なぞ眉唾だ。それを元より理解していたから、オレは諦められた。アルカナの為に、苦渋を飲んで政府に従おうと。だがアルカナは違った。ロナウドの夢物語を間近で聞き続けたのもあったんだろう。あの子は人という種に落胆した」
ロナウドの語る世界は、どんな絵物語よりも煌びやかに見えた。現実の醜さなど、彼の光が消し去ってくれていたのだ。彼が死んで、そんなフィルターは消え去った。色眼鏡を通さずに見たこの世界は、見るに堪えないものだった。アトラス自身、諦めが付いたというよりは、諦めざるを得なかったという方が正しいのかもしれないと、彼の口調を観察していて思ってしまう。
「ロナウドが死んで、代わりに生き残ったのは想像よりも数段醜い人間達。あの子には耐えられなかったんだろう。最愛の人間が死んで、代わりに生きる人類は総じて不快なものだったんだからな」
「この都市の民はロナウドが語っていた程素晴らしいものでは無かった……か」
「ああ、それからはオマエの見た通り。礎となったロナウドを知らず、幸福を穢す彼らに生きる価値は無いと、アルカナは復讐を始めた。第二地区での事は知ってる。それも全て、都市民すらも復讐対象と捉えている故の凶行だろう」
都市全体を恨むアルカナにとって、第二地区の人々も復讐対象。それは理解出来る。だがここで疑問が浮かぶ。先の事件での被害者総数は1万人程度。都市全民と比較すると、言ってしまえば大した数では無い。星羅には、先の事件は他に何かしら目的があったのではないかと思わせた。これより大きな被害を出す為の準備なのではないかと。
「だが今度こそ、止めなくてはならない。あの子の心が悲鳴をあげているのだと、オレは知っているから」
「それが貴方の戦う理由……」
都市民の命など、今のアトラスにとってはどうだっていい事なのだろう。それ以上に彼は、復讐で身を焼くアルカナを止めたいのだ。彼女の内に秘めた絶望を知っているからこそ。
「オレはアルカナと別れてからのこの五年、何も出来なかった。だがあの子を止めるべきだという事は、迷いの無いオレの決断だ。最期の家族として、止めてやらなくては……」
都市への恨みはアトラスも同様に持っている。彼からしてみれば、アルカナの怒りは全うなものなのだ。その怒りを憐れむ事はあっても、止める道理はなかった。だが何より彼女の心が苦しんでいるのであれば、それを慰めるのはこの世でただ一人、自分の役目だと認識しているのだろう。
アトラスの瞳は曇ってはいたけれど、迷いはあったけれど、それでも覚悟は確かなものを感じる。彼は心の底から彼女を救いたいと思っているのだと、確信出来る瞳だった。
「先の提案に乗りましょう。こちらも貴方の力が必要だ。手を組もう。私もあの女を救いたい」
星羅は彼に手を差し伸べる。その姿は、アトラスの記憶の鮮やかな部分。記憶の中にしか存在しない、彼の姿を思わせた。何より一度負け、大きすぎる被害を出したアルカナに対し、彼女は救いたいと発言する。その底抜けの優しさが、友の姿と重なってしまうのだ。
「…………そうか。宜しく頼む、虎城星羅」
アトラスは微笑みと共に、その手を取った。そこに迷いは無い。虎城星羅は、記憶の底のロナウドと同じだったから。彼女の心に、確かな光を感じたから。
(……そうか、オマエは、ここまで墜ちたあの子を、それでも救おうとしてくれるんだな。だがあの子はもう…………殺すしかない、オレの手で。終わらせるより他ないんだ)




