第15話 それでも
魔本世界に綴られていたアルカナの物語、その全てを体験した星羅は、再び極彩色の通路を通り星詠の間へと帰還した。吐き気を催しているのは、その物語の凄絶さ故だろう。
「ッ……はぁ……アルカナ…………」
アルカナへの同情とその記憶の悍ましい闇で、星羅は酷い負の感情の濁流を感じていた。精神的苦痛から体の力が抜けていくのが分かる。闇を抱えているのは分かっていた。理由なく都市庁舎を襲うような間抜けではないと。だが星羅が想定していたより、彼女が内に秘めた闇は途方もなく大きく深かった。
「おかえり……その顔を見るに、予想通り酷い思いをしたようだな」
4つ這いになる星羅の前にはアンブロシウスが佇んでいた。近くの砂時計を見て分かる通り、本に入ってからは五分と経っていない。彼からすれば数分前に消えた女が、今にも吐きそうな酷い顔色でいきなり現れたように見えている事だろう。
「ふむ……歩けるかい? ゆっくりと茶でも飲みながら話をしよう」
星羅は重い体を引き摺りながら、アンブロシウスの案内で庭園へと移動する。移動中聞いた話では、ここまで疲弊した魔本世界の閲覧者は初めてらしい。と言っても彼女の他に閲覧者など、さしているとも思えないが。
「彼女の魔本世界でそこまで疲弊したという事は、それだけ心象接続率が高い証。つまり彼女と君は、その本質が似通っているという事だ」
「……先に言っておいて欲しかったですけどね」
「先に言った所で君の想いは変わらなかっただろう? 不安要素を増やして行くか、増やさず行くかの違いしかない」
魔本世界では物語の基盤となった人物との心象接続率が重要だそうだ。物語の主軸となる人間との相性、心の類似性の高さ、それが心象接続率。これが低ければ魔本世界から即座に弾かれ、高ければその者の感情までもが事細かに理解出来る。アルカナの哀しみ、心の内から溢れ出す怒りを、星羅はまるで自分の事かのように理解した。
星羅とアンブロシウスは、落ち着いた空間で紅茶を飲みながら魔本世界の事を話す。
「アンブロシウスさんも見たんですね? アルカナとアトラス、そしてロナウドの物語を……」
「あぁ、だが私はどんな魔本世界に対しても心象接続率が低いようでね。君のように感情を深く理解する事は出来なかった。無理矢理感情を同期させる事は出来るが……あれは危険だからな……」
アンブロシウスは哀しみの籠った瞳で言う。彼は他者の感情を心の底から理解したいと思っている。だがそんな想いに反して、彼は全ての物語に対し心象接続率が低かった。それならば苦しむ事も無い。アルカナの感情は星羅にはとても受け入れ難いものだった。彼には申し訳ないが、今だけはその心象接続率の低さが羨ましい限りだ。
「それで? 彼女と戦う覚悟は今も変わらずかい?」
「それは……」
アンブロシウスは事前に言っていた通り、星羅に問いかける。曰く、アルカナの過去を理解した上で彼女を打ち負かす覚悟があるのか。彼女はその問いに言葉を詰まらせた。
「分からない、かな? 言った筈だ。過去を覗けば君の覚悟は揺らぐ。君の事は知っている。虎城星羅は限りなく善の側に立つ者、自身の中に確固たる善悪の境界が存在する」
アンブロシウスは手元の紅茶にミルクを注ぎながら、星羅の信念を分析する。注がれた純白のミルクは黒みがかった紅茶と混ざり、徐々にその境界を曖昧にしていく。
「アルカナの行いは確実に悪の領域だ。だがその心情、そこに至るまでの苦しみが、善たる君の信念を揺るがしている。君は分からなくなった。自身の善を貫き、定めた悪を断罪する。果たしてその善とは本当に正しきものなのか、アルカナ・アストラエアに当て嵌まるものなのか」
アンブロシウスには分かっていた。星羅がアルカナの過去を見て、感じて、その精神が揺らぐと。だからこそ予め質問内容を決めておく事が出来たのだ。1つ不可解な点があるとすれば、質問をするアンブロシウスが何処か楽しそうに見える事だろう。それが星羅を追い詰める事で生じる嗜虐心故のものなのか、はたまた別の意図があるのかは不明だが、どちらにしろ良い気はしない。
「……貴方も彼女の過去を見たんでしょう? 真に感情を理解出来ずとも、起こった事実は知っている。何故、真実を秘匿しているんですか?」
星羅はアンブロシウスの思惑通り覚悟を揺るがしながらも、反対に彼へ質問を投げかける。その質問には不満や不信感、真実を未だ公表していない彼に対する怒りが滲んでいる事に、彼女自身は気付いていない。
「下手な論点ずらしだね。だが答えてあげよう。確かに知っているとも。アルカナの過去だけで無く、国家創立後に起こった全ての悪事を知っている。勿論、もっと昔の悪事についても。だがそれを私の口から公表するつもりは毛頭無い」
アンブロシウスは微笑みを消し、真剣な眼差しを浮かべながら答えた。星羅が答えに困って質問に切り替えた事を見透かし、その上で悠々と答えたのだ。彼女には到底理解出来ない、その心の内を。
「何故です!? ジャックの罪は裁かれるべきものだ! アルカナの心は、あんたになら救えたんじゃないのか⁉︎」
アンブロシウスは知っていた。アルカナに起こった悲劇、その一部始終を。彼の手の中には救う術があった。物語を見たのが今から何年前の事かは分からないが、少なくとも彼女が今、都市への復讐を始めるより前に手を打てた筈。
「その問いの答えはイエスだ。私が彼女の悲劇を知ったのは、彼女が両親を殺し、妹までもを手にかけたその数日後。当時はその殺害方法があまりにも残虐だった為、話題になっていたからね。私自身、犯人が気になって直ぐに調べさせたんだ」
アンブロシウスは紅茶を啜りながら、淡々と答える。他人事かのように語る彼を見ていると、その様子は達観を越えて人間の感情を持たぬロボットのようにすら感じられた。
「……1つ言っておこう。私は正義ではない。星騎士もまた、正義ではない」
星羅がアンブロシウスの口調や仕草を見て、言い知れぬ不気味さを感じていると、彼はそう言った。まるでそれが真実であると知っているかのように。それが本質であると見抜くかのように。
「何を――」
当然星羅はそれに反論を試みる。彼女は自身の行いが正義であると信じている。星騎士とは正義を執行する者であると、妄信にも似た感情を持っている。アンブロシウス自身が正義でないだけならばいざ知らず、星騎士が正義である事を否定させる訳にはいかない。
「星騎士の力は人類を存続する為、宇宙樹討滅の為に行使されるべきもの。ジャック・マクシミリアンはこの上ない愚図だが、それでも暴風都市ボレアスを運営するにあたって、奴の政策はプラスに働いている。人類の存続に、奴は貢献している」
アンブロシウスの言葉からは確かな理念が感じられた。内に秘めた正しさが感じられた。国という大きな尺度で見れば、確かにジャックの行動は正しいのだろう。少数に不幸を押し付け、多数に幸福を享受させる。そしてその為の政策は、現在を見れば成功しているのだ。彼の謀略は、結果として安定を生んでいる。だが現実はシミュレーションゲームとは訳が違う。彼の政策で犠牲となった少数の人々は、決して物言わぬ駒ではない。彼ら彼女らの一人一人には感情があるのだ。勿論、アルカナやアトラス、そしてロナウドにも。それを故意に貶める事を、星羅は到底許容出来ない。
「……そんなのは貴方の勝手な認識だろう。少なくともあの男が四星剣になるのは間違っている! あいつはただの人殺しだ!」
星羅はアンブロシウスの言葉を否定出来ずにいた。彼は事実しか喋っていない。星騎士の基本理念も、ジャックの精神鑑定も、彼の政策、その効果も。星羅はそれに苦し紛れの反論を返すばかり。少なくとも犯罪者である彼に、世界最高の権力を与えるべきではないと。
「それこそ間違いだ。君は人間を信じ過ぎている面がある。もし事実を公表すれば、都市内部の反感は免れない。そうなれば政府への批判で内部から崩壊する。君の言う通り四星剣に就任させなかったとしても、それは功績を認めていないように住民には映り、これもまた内部崩壊の危機を招く。奴が真実の露呈よりも早く魔導障壁を公表し、前四星剣が死したその瞬間、ここまでのシナリオは決定していた」
悔しいが事実と認めざるを得ない。アルカナの物語にはそれを裏付けるものがありありと記録されていた。我先にと少女を押しのけ、安寧の底で苦しむ人々に気付こうともしない。そんな都市住民の愚かさ、吐き気を催す思考回路が。
「……闇討ちでも、捏造でも、手段を選ばなければやりようはいくらでもあった。だがそうしなかったのは、都市の運営に外部の手が加わるべきではないと認識しているからだ」
アンブロシウスはティーカップを傾けながら、優雅に言う。彼の力は強大だ。同じく星騎士の力も強大だ。彼らには都市に備わったバランスを崩してしまう程の力がある。
「人間は国家が統合される以前から何も変わっていない、哀しいくらいにね。政府は尚も腐敗し、住民に至っては貧富の差が広がった事で更に醜くなったくらいだ。だがそんな現状が、あの都市に於いては健常と言える。穢れた文化があの都市のバランスを担っているんだ。大きな争いを回避する為には、強者に愉悦を、弱者には泥を、支配者にはそれらを管理出来るだけの力を与えればいい」
その言葉は長く生きたというアンブロシウスの、人類への諦めからくるものなのだろうか。星羅にはその考えがあまりにも残酷に見えた。それが正しさだとしても、それが都市全体を見た時に最善だったとしても、その考えを肯定する事が星羅には出来ない。
「私は……それでも、その考えは理解出来ない」
星羅は苦悶の表情で答える。その言葉が思考の果てに辿り着いた彼女の感情、信念、その全てを踏襲したものである事は、彼女の声色や表情からも見てとれた。覚悟を持って答えていると、断言出来る。
「……と言うと?」
「私は少数の犠牲を許容出来ない。アルカナの過去を、ロナウドの犠牲を、無かった事には出来ない。都市の未来に暗雲が立ち込めるとしても、私は真実を公表するべきだと思う」
少数を貶める事が、多数の幸福に繋がっている。そのシステム自体が星羅には許容出来ない。彼らの哀しみを無碍に扱う事こそ、彼女にとっては悪なのだ。
「アルカナはどうする? まさか赦すつもりか?」
「いいや、罪は罪として裁く。都市の罪も裁く。私に備わった力は正しい事の為に使う。アルカナがこれ以上罪を重ねないように、私が止める」
アルカナが間違っていると断定は出来ない。星羅に出来るのは彼女がこれ以上罪を重ねてしまわないよう、これ以上感情を闇に沈めないよう、助け出す事だけだ。
「それが、都市を滅ぼす事に繋がるとしても?」
「……悪かどうかは分からない、でも彼女の進もうとしている先は闇だ。その道を進ませない為に私の力はある。彼女を殺さずに、救い出してみせる」
「傲慢だな。アルカナは殺さず、真実も公開し、都市を滅ぼさせもしない…………」
(全てを取れると思って疑わない。それも若さ故か……いや…………これが君の言っていた真の光というものなのか…………?)
アンブロシウスの言葉は事実、的を射ている。将来を考えればアルカナを罪人として殺す事が平和的解決への道だと分かっていながら、星羅はより困難な道を進もうとしているのだ。それどころか、その道を自分であれば進めると信じて疑わない。彼の言葉通り、傲慢な考えだ。だが……。
「いいだろう」
星羅は覚悟を決めた。瞳の奥にある、信念の灯を消さなかった。ならば力を貸すにふさわしい人物であると、アンブロシウスは認識する。
「え?」
「直接的な手助けは出来ない。だが事件が収束した後の事は任せなさい。何とかしてあげよう」
困惑する星羅にアンブロシウスは言う。彼の心情が理解出来ない。覚悟を試したと思えば、手を貸すと言い出した。彼女にはその行動が、突拍子も無い事のように見えている。
「……貴方の御眼鏡にかなったという事ですか? てっきり貴方は介入してこないと思っていました。それどころか、私を止めるとばかり」
「簡単な事だ。君という星騎士を、今は信じる。覚悟があるならば、後処理だけはこちらがしよう」
嘘は無い。星羅には自身が労を尽くすだけの価値があると感じたのだろうか。彼女の何がアンブロシウスの心を変えたのか、それは分からないが、事件収束後の不安定を彼が抑えてくれるというのならば、星羅としては重畳だ。
「せいぜい、頑張るといい。君が人間の可能性を信じていられる事を祈るよ」
「なら、貴方の期待に応えるとしましょう。見ていて下さい。私の理想論が、嘘でない事を証明しましょう」
星羅は勢いよく紅茶を飲み干し、その場を後にする。その背には、確かな正義が背負われていた。
星羅を見送った後、平穏が戻った星詠の間で、アンブロシウスは静かに紅茶を啜る。波打つ紅茶に視線を落とす彼のその瞳は、何処か憂いを帯びていた。
「よろしかったので?」
そんなアンブロシウスに声を掛けたのは、本棚の陰で一連の会話を盗み見ていたジークムントだ。
星羅は1つ勘違いをしていた。アンブロシウスは事件に介入しないのではない、出来ないのだ。統合国家ソラリスと彼の間にはある契約がある。曰く『来るその日まで、国家への多大な干渉を禁ずる』この契約を持ち掛けたのがどちらなのか、いつ頃それが締結されたのか、それは不明だ。そして来るその日が一体いつなのか、何の為にこんな契約があるのか、彼の弟子となり長いジークムントにも分からない。
「ああ、私もまた、彼らと同じく愚かだ。昔から何も変わっていない。愚者は太陽の光に魅入られ、その身を焼く。存外、悪い気はしないけどね。大丈夫。事件そのものに介入はしない。私がするのは不安要素の除去のみ」
「……成程、承知致しました。私にお任せ下さい」
契約があるにも拘らず星羅に事件の詳細を見せ、更には小さな手助けをする。ジークムントはアンブロシウスがここまで個人に肩入れする状況を始めて見た。同時に興味を抱く。師にそこまでさせる虎城星羅とは一体何者なのか、彼女に肩入れする特別な理由があるのかと。
「それに、彼女が『騎士王』だとするならば……」
ジークムントの言葉に軽く頷き、アンブロシウスは瞼を伏せる。誰にも聞かれず闇へと消える騎士王と言う単語に思いを馳せながら。
「王よ……貴方の言う希望とやらがどんなものか、見せて頂くとしましょう」
その身に収まらぬ大きな責務を背負いながら、白髪の少女は戦場へと向かう。今日まで積み上げられた人の業を知らず。戦う相手が何者なのか、それすらもまだ彼女は知らない。今はただ、兄から授かった正義に従い、ひた走る。正しさは自らにあると信じて。




