私の名前
役員が同席する会議室は、空調が効きすぎていた。
天井から降りてくる冷気が、薄いブラウスの肩を撫でていく。指先まで冷えているのは、そのせいだけではないと思う。
長机の向こうに白石部長代理が座っている。背筋はいつもどおり伸びていて、表情も崩れていない。
私の隣には湊さん、その隣に三上さん。触れられる距離ではない。それでも、扉の前で湊さんが「入るぞ」と私の返事を待ってくれたことが、まだ胸の奥に残っていた。
決めるのは私。
入ることも、ここで何を言うのかも。
その約束を、彼は守っている。
「まず、情報システム部から追加調査の報告を」
役員の言葉に、担当者が画面を切り替えた。
表示されたのは、第一会議室の入退室記録だった。見慣れた社内システムの画面なのに、今日だけは判決文のように見える。
「印刷が実行された十八時十四分の前後、第一会議室へ入室した社員は一名です」
白石部長代理の社員番号が映る。
心臓が強く鳴った。耳の内側で、どくん、と音がする。
わかっていたつもりだった。今日ここへ呼ばれた理由も、これまでの記録が誰を指しているのかも。
けれど、推測と事実の間には、越えるときにしかわからない冷たさがある。
「結城さんのアカウントで行われた認証についても、通常のパスワード認証ではないことが判明しました。端末不具合などの際、部門管理者が発行できる一時認証コードが使用されています」
「発行者は?」
三上さんが尋ねた。
声は平静だった。その平静さに支えられるように、私は画面から目を逸らさずにいる。
「白石部長代理です」
室内が静まり返る。空調の低い唸りだけが、やけに大きく聞こえた。
私のパスワードが破られたわけではなかった。私がどこかで不用意に漏らしたわけでもない。
何度も自分の行動を思い返した。席を離れたとき、画面を閉じ忘れたのではないか。付箋に何か残したのではないか。私の注意不足が誰かを巻き込んだのではないか。
その疑いからは解放されたはずなのに、胸は軽くならなかった。
管理のために渡されていた権限が、私の名前を使うために利用された。
「一時コードの発行理由には『企画資料の緊急確認』と記録されています。しかし、結城さん本人への連絡も、正規の代理閲覧申請もありません」
担当者が次の資料を映す。
「相沢さんのUSBメモリからは、削除された画像ファイルが復元されました。社外へ送られたメールの添付画像と一致します」
匿名メールを送った共用端末。
私の名前で印刷した第一会議室の端末。
そして、社外へ送られた画像。
ばらばらに落ちていた破片が、逃げ道のない一本の線になる。
「相沢さんは関与していません」
その言葉に、私はようやく息を吐いた。肺の奥に溜め込んでいたものが、細く震えながら抜けていく。
信じたいのに、信じると言えなかった時間。それが無駄ではなかったのだと思えた。同時に、疑いを完全には捨てられなかった自分が、少しだけ痛かった。
「共用端末周辺の記録と本人の供述を照合し、白石部長代理が第一会議室の端末に残されていた相沢さんのUSBメモリを預かっていたことも確認しました。最初の匿名メールは共通アカウントから送信。その二日後、結城さんのアカウントで社内メールを印刷し、撮影した画像をUSBメモリへ保存。私用のウェブメールを経由して、複数の取引先へ送信したとのことです」
撮影者も、送信者も、社外への流出経路も、同じ人物だった。
役員が白石部長代理へ目を向ける。
「事実に相違はありますか」
「ありません」
否定しない声は、妙に落ち着いていた。
私は膝の上で手を握る。爪が掌に食い込んでも、力を緩められない。
怒りより先に、怖さが来た。こんなふうに淡々と、誰かの名前を使える人が同じ職場にいたことが怖い。朝に挨拶をして、同じ資料を見て、同じ会議に出ていた。その日常のすぐ裏側で、私の名前だけが私の知らない行動をしていたのだ。
「なぜですか」
口にしてから、声が震えていないことに気づいた。
隣を見なくても、湊さんがこちらを向いたのがわかる。それでも彼は何も言わない。
白石部長代理が私を見る。
「管理職と部下の関係は、会社の信用を損なう。霧島部長は自ら申し出るまで、問題の重大さを理解していなかった」
「だから、私の名前を使ったんですか」
「通常の指摘では握り潰される可能性があった。社外からも説明を求められれば、会社は動かざるを得ない」
正しいことをした、と言いたいのだ。
会社のため。信用のため。組織のため。
もっともらしい言葉はいくらでも並べられる。けれど、そのどこにも、名前を使われた私の意思はない。疑いを着せられた相沢さんの痛みもない。
七年前の湊さんも、私のためだと思って一人で答えを決めた。今の湊さんも、私を守るためだと思って離れようとした。
その優しさに傷ついたからこそ、私は知っている。
けれど、これは同じではない。
誰かを思うことと、誰かから選ぶ権利を奪うことは違う。
「問題だと思ったなら、自分の名前で言えたはずです」
白石部長代理の眉が、わずかに動いた。
「私たちの関係を調べることと、私の名前を使って証拠を作ることは別です。相沢さんのUSBを使ったのも、疑いを向ける相手が必要だったからですよね」
「調査が適切なら、いずれ真相には到達する」
あまりに迷いのない返事に、胸の底で何かが弾けた。
「その『いずれ』まで、私たちは仕事も信用も失うかもしれなかったんです」
言葉にすると、胸の奥に押し込めていた痛みが輪郭を持った。
私の仕事を止められたこと。
積み上げてきたものを、自分で証明できなくなったこと。
あかねや羽田くんを、一瞬でも疑いそうになったこと。
相沢さんの好意まで、嘘かもしれないと思わされたこと。
そして湊さんとの関係を、私たち自身の言葉ではなく、誰かが作った証拠で決められそうになったこと。
「正しい結果に着けば、途中で誰かを傷つけてもいいなんて、私は思いません」
声はもう震えていなかった。
沈黙が落ちた。白石部長代理の視線を受け止めたまま、私は握っていた手をゆっくり開く。
隣で湊さんが動く気配がする。それでも彼は、私の言葉を遮らなかった。
私が言い終えるまで待ってから、低い声で告げる。
「私の管理職としての判断は、正規の審査を受ける。配置転換の申出についても同様です」
白石部長代理が彼を見る。
「だが、結城の名前は、私を追い落とすための道具ではない」
短く、冷たい声だった。氷の部長と呼ばれるときの、隙のない声。
なのに私は、その言葉の中に以前とは違う温度を感じた。
彼は自分の責任から逃げていない。同時に、責任を取るという名目で、私まで切り離そうともしていない。
私の前に立ってすべてを引き受けるのではなく、隣に立って、自分の分だけを引き受けている。
たぶん、それが私の欲しかった守られ方だった。
役員が資料を閉じた。紙が重なる乾いた音に、長かった時間が一区切りついた気がした。
「白石部長代理には、本日付で職務停止を命じます。処分は懲戒審査を経て決定します。結城さんの機密資料へのアクセス制限は、直ちに解除します」
返事をしようとしたのに、最初の一音が出なかった。
解除。その二文字が胸に染み込むまで、少し時間がかかる。
「……承知しました」
やっと言えた声が、少しだけ掠れた。
私の名前が、私の手元へ戻ってきた。
*
会議室を出ると、窓の外では雨が強くなっていた。ガラスを叩く雨粒が筋になり、向かいのビルの輪郭をぼかしている。
廊下へ出た途端、張り詰めていた膝から力が抜けそうになった。けれど、湊さんは腕を取ることも、大丈夫かと先回りして聞くこともしなかった。ただ私の歩幅に合わせて、少しゆっくり歩いてくれる。
そういうところだ。
気づくたびに好きになってしまうから、本当に困る。
湊さんが自動販売機で温かい缶コーヒーを二本買い、片方を私へ差し出す。甘さ控えめ。七年前から、なぜか彼が知っている味。
受け取るとき、指先がほんの少し触れた。
離れていた体温が一瞬だけ重なって、耳が熱くなる。今ここで赤くなる必要ある? と自分に言いたい。でも心臓は、事情聴取より素直だった。
缶の熱を逃がさないように両手で包み、私は隣に並ぶ。
「今日は、先に話させてくれましたね」
「ああ」
「前なら、私の代わりに説明しようとしたかもしれない」
責めたいわけではなかった。ただ、変わったことを確かめたかった。
湊さんは缶を見つめ、一瞬黙った。言葉を選ぶ横顔は相変わらず不器用で、でも、その沈黙を怖いとは思わなかった。
「もうしない」
「全部ですか?」
少し意地悪な聞き方だったかもしれない。湊さんが私を見る。まっすぐな視線に射抜かれて、先に逸らしたくなるのをどうにか堪えた。
「君が決めるべきことは、君に返す」
その言葉を、両手で包んだ缶の温度と一緒に受け取る。
元どおり、ではない。
元どおりになれば、また同じところですれ違う。
だからきっと私たちは、前とは違う関係を作り直している途中なのだ。
自分の名前で話すこと。
相手の答えを奪わないこと。
逃げずに、聞くこと。
簡単そうに見えて、私たちには七年もかかった。それでも遅すぎたとは思いたくない。今から積み直せるのなら、その一つ一つを自分で選びたい。
そこまで考えて、私はスマートフォンを取り出した。
「誰に?」
「父です」
湊さんの表情が固まる。滅多に動じない人のわずかな変化がおかしくて、こんなときなのに少し笑いそうになった。
「まだ、ちゃんと話していませんでした。私たちのこと」
怖い。七年前、私がどれだけ傷ついたか、父は知っている。湊さんを簡単に受け入れられなくても当然だ。
雨音が急かすように窓を叩く。画面の上で、親指が一度止まった。
それでも、誰かに知られるまで待つのはもうやめる。守るための沈黙が、いつも相手を守るとは限らないから。
私は自分から発信ボタンを押した。
数回の呼び出し音のあと、懐かしい声がする。
「もしもし、ひなた?」
「お父さん。話したい人がいるの」
隣に立つ湊さんを見上げ、私は続けた。
「七年前の、霧島さんのこと」
電話の向こうで、父が息を止めた。
(第100話へ続く)




