父への告白
電話の向こうで、父が息を止めた。
ほんの数秒のはずなのに、返事を待つ時間がひどく長く感じられる。
窓を打つ雨音だけが、やけに大きく聞こえた。会社の廊下を照らす白い照明も、冷房の低い唸りも、今はすべてが私の緊張を煽っている気がする。
「……霧島さんって」
ようやく返ってきた声は低かった。
「お前が大学のときに好きだった、あの人か」
「うん」
「同姓の別人じゃなく?」
「本人」
できれば別人であってほしい、という願いが二度目の確認ににじんでいた。
私が七年前、電話口でどれだけ泣いたか、父は知っている。
告白して、断られて、平気なふりをして。それでも声を聞いた途端に我慢できなくなった私へ、父は理由を尋ねず、泣きやむまでずっと黙っていてくれた。
電話越しに聞こえた実家の時計の音。途中で一度だけ、「水を飲め」と言われたこと。泣き疲れた私が眠りそうになるまで、父が通話を切らなかったこと。
その沈黙まで思い出して、スマートフォンを持つ手が冷える。
「どうして、その人が東京にいるんだ」
「私の転職先の上司だったの」
「だった?」
しまった。
父は昔から、会話の助詞一つでも聞き逃さない。娘の恋愛にだけ発揮される、その妙に高性能な耳は何なのだろう。今は本当に休んでいてほしい。
「今は審査のために、日常の指揮命令から外れてる。私たちのことが会社に知られて、いろいろあったから」
「いろいろ、で済ませる話なのか」
「済ませるつもりはないよ。だから話してる」
早口になりそうな自分を抑え、一度息を吸う。冷たい空気が喉に引っかかり、心臓だけが呼吸を置き去りにして走っていた。
隣にいる湊さんは、何も言わなかった。代わろうとも、説明しようともしない。ただ、私が落としそうになった缶コーヒーをそっと受け取ってくれた。
触れた指先の温度に、強張っていた肩がわずかにほどける。
空いた左手を握る。
七年前の私は、父に泣きつくことしかできなかった。
今の私は、父に反対されるかもしれないとわかっていて、それでも自分の口で話そうとしている。
「お父さん。私、霧島さんと付き合ってる」
言った。
口にした瞬間、引き返せない一本の線を自分で越えた気がした。
耳が熱い。会社の廊下で父に交際報告をする二十六歳。落ち着いて考えると、かなり逃げ出したい状況だ。今すぐ非常階段を駆け下りて、雨の東京へ紛れたい。
けれど、逃げなかった。
「いつからだ」
「数か月前」
「上司と部下のまま?」
「始まったときは。でも、仕事と私的な関係を混ぜないように約束した。隠していたことは会社にも説明してる」
「十二も上だろう」
「うん」
十二歳という数字だけを切り取れば、父が身構えるのも無理はない。それでも、その差を考えなかったわけではないし、勢いだけでここまで来たわけでもない。
「七年前、お前をあれだけ泣かせた男だろう」
胸の奥を、古い痛みが細く引っかいた。
「……うん」
「それで、また同じ相手を選んだのか」
父の声には怒りより、恐れがあった。
私はようやく気づく。
七年前に傷ついたのは私だけではない。泣く娘の声を遠くで聞くしかなかった父にも、あの夜は残っている。
父にとって湊さんは、まだ「あの夜、娘を泣かせた男」のままなのだ。その認識を責めることはできない。私だって、ずっと七年前の痛みを抱えていたのだから。
「同じじゃないよ」
「相手は同じだ」
「私が違う」
思ったより強い声が出た。
言葉がぶつかり、電話の向こうが静かになった。
「十九歳の私は、断られたら、自分の気持ちが迷惑だったんだって思った。でも今は、そうじゃないとわかってる。好きになることも、伝えることも、私が決めていいことだから」
誰かに守られるだけの私ではいたくない。誰かの正しさに従うだけでもいたくない。
父にも、湊さんにも、そして七年前の自分にも、それを伝えたかった。
「ひなた」
「それに、霧島さんも——」
庇おうとして、止まった。
父が知りたいのは、私が作ったきれいな説明ではない。私の口を借りた、湊さんにとって都合のいい答えでもない。
「ううん。霧島さんがどう思ってるかは、本人に聞いて」
隣を見上げる。
湊さんの目が、わずかに見開かれた。その視線と正面から重なる。冷たく見える黒い瞳の奥に、驚きと緊張、それから逃げないという意志が見えた。
私が彼の言葉を奪わないように。彼にも、私の言葉を奪わせないように。
並んで立つとは、きっとそういうことだ。
「今、一緒にいるのか」
「いるよ」
「会社で?」
「廊下にいる。二人きりじゃないし、業務も終わってるから、そのへんは安心して」
「安心できる要素が一つも増えていない」
まったくもって父らしい返しだった。
喉の奥で笑いそうになったけれど、次の声は固かった。
「代わりなさい」
心臓が跳ねた。
さっきまで覚悟していたはずなのに、いざ二人を直接つなぐとなると、スマートフォンが急に危険物に見えてくる。父と湊さん。私の人生で最も口数の少ない男性二人を電話で対決させるなんて、沈黙だけで廊下が凍るのではないだろうか。
湊さんが手を差し出しかけ、途中で止めた。
「代わっていいか」
決める権利を、私に返してくれる。
その短い確認が、胸の奥へ静かに落ちた。
「はい」
私は自分から、その手のひらにスマートフォンを置いた。
「お電話代わりました。霧島です」
いつもの落ち着いた声だった。ただ、端末を持つ指に少しだけ力が入っている。白くなるほどではない。でも、毎日その手を見てきた私にはわかる。
私の父親に緊張する氷の部長。
こんなときでなければ、ちょっとだけ可愛いと思えたかもしれない。いや、もう思っている。思っている場合ではない。相手は今、氷を砕くどころか業務用冷凍庫ごと停止させかねない父である。
父の声は聞き取れない。
湊さんはしばらく黙って聞き、「はい」と短く答えた。
横顔はいつもと変わらないように見える。それなのに、返事をするまでの一拍が、普段よりほんの少し長い。
「七年前のことは、弁解できません」
胸が強く鳴る。
「事情はありました。ですが、彼女のためだと決めつけて、説明もせずに傷つけたのは私です」
その声に飾りはなかった。
父に認めてもらうために都合よく整えることも、過去の事情へ逃げ込むこともしない。私でさえ目を逸らしたくなる傷を、彼は自分の言葉で指し示していた。
「今回も、同じ過ちを犯しました」
息をのむ。
そこまで言わなくても、と止めたくなる自分がいた。けれど、それは私が彼の答えを奪うことになる。
湊さんは続けた。
「彼女を守るつもりで、一方的に離れようとしました。結城さんに、それは守ることではないと教えられました」
雨粒が窓を流れ落ちる。街の明かりを映した雫が、細い線を作って消えていく。
「ですから、幸せにすると簡単に約束するつもりはありません」
えっ。
そこは約束してほしい。いや、嘘を言われるよりはいいけれど、お父さん相手の第一声としては難易度が高すぎませんか、湊さん。心の中で慌てる私とは対照的に、彼の横顔は真剣そのものだった。
「彼女の幸せを私が決めるとは、もう言いません。つらいときも、意見が違うときも、彼女の答えを聞きます。そのうえで、私も自分の答えを伝えます」
低い声が、雨音の中をまっすぐ進んでいく。
「離れることで責任を取ったつもりにはなりません」
私が何度も欲しかった言葉だった。
守るためだと言って、私を置いていかないこと。
私の幸せを、私より先に決めないこと。
違う答えを持ったままでも、話すことを諦めないこと。
胸の奥に温かいものが広がる。復縁した、なんて軽々しく呼べる段階ではない。それでも彼は、もう一度私の隣に立つための答えを、自分の口で選んでいる。
視線に気づいたのか、湊さんが一瞬だけ私を見た。
言葉はなかった。それでも、逃げない、と伝えられた気がした。
長い沈黙のあと、湊さんの眉がわずかに寄った。
「はい。承知しました」
今度の返事だけは、部下が身構える会議前の声に似ていた。
通話が切れた。
張り詰めていた空気が緩み、私はようやく息を吐いた。知らないうちに止めていたらしい。
「お父さん、なんて?」
湊さんはスマートフォンを私へ返しながら、一瞬だけ目を伏せた。
「電話では判断しない、と」
「それだけですか?」
「今週の日曜、君の実家へ来いと言われた」
「湊さんも?」
「ああ。二人で来いと」
窓の外で、ひときわ強く雨が鳴った。
手の中で、スマートフォンが震えた。
父から届いたメッセージには、実家までの列車の時刻と指定席番号が二つ、すでに並んでいた。
(第101話へ続く)




