二人分の指定席
日曜の朝、改札前に着くと、湊さんはすでに待っていた。
休日なのに濃紺のジャケット。ネクタイまで締めている。足元には小さな紙袋があり、どう見ても取引先への正式訪問だった。
「おはようございます」
「ああ」
「もしかして、眠れませんでした?」
「眠った」
「何時間ですか」
一瞬の沈黙。
「三時間は、睡眠に入りますか?」
「入る」
氷の部長は、恋人の父親を前にすると睡眠時間を申告できなくなるらしい。
少しだけ笑いかけて、やめた。私だって似たようなものだ。昨夜は父に何を言われるか考えて、そのたびに布団の中で答えを作り直していた。
父が怒るのは、たぶん年齢だけではない。
七年前、私が泣いたことを知っているからだ。
「それ、お土産ですか?」
「地元で買えないものを調べた」
「父の好み、知りませんよね」
「君に聞くべきだった」
「聞いてくれたら、甘いものはあまり食べないって答えました」
湊さんの視線が紙袋へ落ちた。
「菓子ですか」
「ああ」
「大丈夫です。お父さん、来客用のお菓子は食べます。自分のために買わないだけで」
「そうか」
あからさまに安堵した声がおかしくて、今度は笑ってしまった。
「湊さんでも緊張するんですね」
「する」
「もう少し否定してください。私まで緊張します」
「嘘はつけない」
そういうところが好きだと思った直後、顔が熱くなる。朝の改札前で何を考えているの、私。
湊さんが切符を取り出した。父が送ってきた指定席は、隣り合う二席だった。
電話では判断しない。
二人で来い。
それは歓迎ではない。でも、最初から湊さんだけを締め出すつもりなら、一席でよかったはずだ。
私はその小さな余白に期待したかった。
*
列車が動き出してからしばらく、私たちは仕事の話をしなかった。
窓の外では、見慣れたビルが少しずつ低くなっていく。昨夜の雨は上がっていたけれど、厚い雲の隙間に青空はまだ見えない。
「父は、怖い人ではありません」
「知っている」
「会ったこと、ありましたっけ」
「君を見ればわかる」
「それ、どういう意味ですか」
「大切に育てられた人の怒り方をする」
私は言葉に詰まった。
怒鳴るより先に、相手の話を聞こうとすること。自分が傷ついても、誰かを傷つける言葉は選ばないこと。
そんなふうに見てもらえているとは思わなかった。
「でも、頑固です。決めたら簡単には曲げません」
「それも、知っている」
「今、私に似ているって言いました?」
「ああ」
迷いのない返事に、頬が緩む。
けれど、すぐに湊さんの横顔が硬くなった。
「七年前のことは、どこまで話している」
「告白して、断られたことまでです。葵さんの病気のことは話していません」
「今日、俺から話す」
「言い訳だと思われるかもしれません」
「それでも事実は伝える。ただし、あの断り方を正当化するつもりはない」
低い声は静かだった。
湊さんはもう、過去をなかったことにはしない。けれど、それを免罪符にも使わない。
私は膝の上に置いた手を握った。指先が冷えている。
「もし、父が反対したら」
「聞く」
「それだけですか?」
「理由を聞いて、俺の考えを話す」
「それでも認めないと言われたら?」
湊さんはすぐには答えなかった。
列車の振動が、足元から一定の間隔で伝わってくる。前なら、この沈黙の先に『君のために離れる』が待っている気がして怖かった。
けれど今は、待てる。
「君は、どうしたい」
やがて返ってきたのは、私への問いだった。
「父の気持ちは無視したくありません。でも、許可がないから別れるつもりもありません」
「ああ」
「私の人生です。父が心配してくれることも含めて、私が決めます」
「なら、俺も同じ答えだ」
胸の奥に張っていた糸が、少しだけ緩んだ。
父と争いたいわけではない。湊さんに父を説得してもらいたいわけでもない。
二人とも私のためを思って、私を置き去りにする。それだけは、もう嫌だった。
「今日は私が先に話します」
「わかった」
「私が困っても、勝手に身を引かないでください」
「わかった」
「二回言いましたからね」
「覚えておく」
窓際の肘掛けに置いていた私の小指へ、湊さんの指がそっと触れた。
握るのではなく、触れるだけ。逃げ道を残した温度だった。
私は自分から指を絡めた。
車内放送が次の停車駅を告げる。目的地まで、あと少しだった。
*
改札を出ると、父は柱のそばに立っていた。
電話で聞いた声より、少し疲れて見えた。私と目が合っても笑わない。その視線が隣の湊さんへ移る。
湊さんが深く頭を下げた。
「霧島湊です。本日は、お時間をいただきありがとうございます」
「結城です」
父の返事は短かった。
「車を置いてある。話は家で聞きます」
歩き出す父の背中を追いながら、私は昔と同じ景色の中で、自分だけが別の場所へ来たような気がした。
車内ではほとんど会話がなかった。
父が運転し、私が助手席、湊さんが後部座席に座る。いつもの帰省なら私が近況をしゃべり続けるのに、今日は何を言っても軽く響きそうで口を開けなかった。
バックミラー越しに、父が一度だけ湊さんを見る。
「三十八歳だそうですね」
「はい」
「ひなたとは十二違う」
「はい」
「今も上司ですか」
「日常的な指揮命令からは外れています。今後の配置は審査中です」
父の指が、ハンドルを握り直した。
「それは、娘との交際が理由ですか」
「交際だけではありません。管理職として、私が誤った判断をしました」
湊さんは曖昧に逃げなかった。
父はそれ以上聞かず、前を向いた。
家に着き、懐かしい居間に通される。テーブルの上には湯飲みが三つ並んでいた。父は最初から、湊さんを玄関で追い返すつもりではなかったらしい。
それなのに、少し安心した自分を、すぐに戒める。話はまだ始まってもいない。
湊さんが紙袋を差し出した。
「つまらないものですが」
「お気遣いなく」
父は受け取り、脇へ置いた。包装を開ける気配はない。
私たちが並んで座ると、父は向かい側に腰を下ろした。
「ひなた」
「うん」
「お前から話しなさい」
昨日の列車から何度も用意した言葉が、喉の奥で絡まった。
緊張すると早口になる。全部説明しようとして、いちばん伝えたいことを見失う。それが私の悪い癖だ。
一度息を吸い、父を見る。
「私は、湊さんが好きです」
隣で、湊さんがほんのわずかに息を止めた。
「七年前に断られて、傷ついた。再会してからも、覚えていないふりをされて、また傷ついた。最近も、私を守るためだと言って、勝手に離れようとされました」
「結城」
「最後まで言わせてください」
横を見ずに言うと、湊さんは黙った。
「嫌だったことは、なかったことにしません。でも、今の私は、それを知らない十九歳じゃない。湊さんの間違いも、不器用さも知っています。そのうえで、自分でこの人を選びました」
父は湯飲みに触れなかった。
「お父さんが心配する理由も聞きたい。だから来たの。でも、私の代わりに、私が不幸になると決めないで」
声は震えたけれど、逸らさずに父を見た。
長い沈黙が落ちた。
壁の時計の音が、やけに大きく響く。
父はようやく湯飲みへ手を伸ばした。けれど持ち上げず、縁に指を置いただけだった。
「話はわかった」
低い声は、怒鳴られるより重かった。
「霧島さん。今度はあなたの話を聞きます」
「はい」
「ただ、その前に一つだけ伝えておく」
父は私ではなく、湊さんを正面から見た。
「私は、あなたとの交際を認めるつもりはありません」
(第102話へ続く)




