認めない理由
覚悟していたはずなのに、胸の奥が鈍く痛んだ。
認めるつもりはない。
父の言葉は、壁の時計の音よりもはっきり居間に残っている。
隣にいる湊さんの気配が、わずかに遠くなった気がした。
違う。遠ざかったんじゃない。私が怖くなって、勝手に距離を測っただけだ。
ここで湊さんの顔色を確かめたら、また相手の答えを先回りしてしまう。
私は膝の上で手を握り、父を見た。
「理由を聞かせて」
「十二歳も年上だからだ」
即答だった。
「それだけ?」
「それだけで十分だ」
「私には十分じゃない」
思ったより強い声が出た。
父の眉が動く。昔なら、それだけで私は次の言葉を飲み込んでいた。けれど、東京から二人分の指定席でここまで来たのだ。娘に戻るためではない。今の私として話すために来た。
「十二歳上だということは、最初から知ってる。その数字だけで私の選択を否定されても、納得できない」
「ひなた」
「心配するなとは言わない。でも、心配と反対は同じじゃないでしょう」
父は湯飲みから手を離した。
向かい側からまっすぐ見られると、背筋が勝手に伸びる。子どもの頃、悪い点のテストを隠したときと同じ反応だ。私の身体、二十六歳になったことをたまに忘れていないだろうか。
「では聞くが」
父の視線が湊さんへ移った。
「霧島さん。あなたは七年前、十九歳のひなたに好意を告げられて、理由も話さず断った。間違いありませんね」
「はい」
「ひなたがどれだけ傷ついたか、知っていましたか」
湊さんはすぐには答えなかった。
その沈黙に、心臓が縮む。
けれど彼は、言い訳を探しているのではなかった。短く息を吸い、父から目を逸らさずに答えた。
「傷つけることはわかっていました。ただ、実際にどれほどだったかは、わかっていなかったと思います」
「思います、か」
「わかっていたと言えば、嘘になります」
父の口元が厳しくなる。
「あなたには事情があったと言いましたね。電話で」
「はい。両親を早くに亡くし、当時は妹が重い病気で長期入院していました」
父はしばらく黙って湊さんを見た。
「そこを責めるつもりはありません」
湊さんが葵さんのことを父に話すのは、これが初めてだった。
「しかし、事情があれば、相手に何も話さず切り捨てていいことにはならない」
「はい」
「再会してからも、知らないふりをしたそうですね」
「はい」
「そして今度は、守るためだと言って、ひなたから離れようとした」
「そのとおりです」
湊さんは一度も否定しなかった。
正しい理由があったとは言わない。仕方がなかったとも言わない。ただ、自分のしたことを受け止めている。
それなのに、聞いている私は苦しくなった。
「お父さん、尋問みたいな言い方は——」
「結城さん」
低い声に止められた。
湊さんがこちらを見る。
「最後まで答えさせてほしい」
電車の中で私が言った言葉を、そのまま返された。
私は唇を結び、うなずく。
父はそのやり取りを見届けてから、さらに声を低くした。
「七年前も今も、あなたは自分のほうが正しく判断できると思った。年上で、社会経験があり、上司でもあるあなたが、この子のために答えを決めた」
胸に刺さった。
「私が反対しているのは、年齢の数字だけではありません。その十二年を、あなたがひなたの選択を奪う理由に使ってきたからです」
返す言葉がなかった。
父の言葉は厳しい。でも、間違ってはいない。
七年前の湊さんは、十九歳の私には自分の現実が重すぎると決めた。再会した彼は、部下の私に過去を持ち出すのは公平ではないと決めた。そして最近も、私の仕事を守るには自分が離れるべきだと決めた。
どれも優しさから始まっていた。
それでも、私の答えを聞く前に終わらせた。
「同じことを、またしないと言い切れますか」
父の問いに、湊さんは黙った。
今度の沈黙は長かった。
私は膝の上の指先を見つめた。言い切ってほしい。二度としないと約束してくれたら、きっと安心できる。
けれど、それは本当に欲しい答えだろうか。
「言い切れません」
息が止まりそうになった。
お父さん相手に、その答えを選びますか。
心の中の私は頭を抱えたけれど、湊さんは続けた。
「私は、正しいと思うと一人で結論を出す癖があります。自覚したから二度と間違えない、と約束するのは不誠実です」
「では、何を約束できるんです」
「間違えたとき、彼女に指摘されることから逃げません」
湊さんの手が、畳の上で静かに握られる。
「話す前に離れない。彼女の答えを聞く。私の考えも隠さない。それでも意見が違うなら、違うまま話し続けます」
「ひなたが、あなたと別れると決めても?」
胸が大きく鳴った。
湊さんは、ほんの一瞬だけ息を止めた。
「はい」
低い声が揺れなかったからこそ、その答えが簡単ではないとわかった。
「彼女の選択なら、受け入れます。ただし」
そこで初めて、湊さんの視線が私に触れた。
「私は別れたくないと、伝えます」
耳が熱くなる。
今ですか。父の前ですよ。
胸の中で慌てながらも、私は目を逸らさなかった。
父のいる前で、私の代わりに答えず、自分の気持ちだけを言った。その不器用な境界線が、どうしようもなく湊さんらしい。
「私もです」
気づけば口にしていた。
「別れたくありません。でも、次に勝手に離れようとしたら、今度はもっと怒ります」
「わかっている」
「たぶん、まだ足りてません」
「……覚えておく」
こんな場所で何を話しているんだろう。
恥ずかしさに耐えきれず湯飲みへ手を伸ばすと、父が深く息を吐いた。呆れられたのかと思ったけれど、その表情は怒っているだけではなかった。
「ひなた」
「うん」
「私は、お前の許可を霧島さんに渡すつもりはない」
「許可?」
「お前の人生を決める許可だ。父親の私にも、そんなものはない」
意外な言葉に、湯飲みを持つ手が止まる。
「だったら、認めないって——」
「認めなくても、お前はこの人を選ぶんだろう」
「……うん」
「なら、私が今ここで反対しても、連れて帰って閉じ込めることはできない」
「しないでよ」
「たとえ話だ」
真面目な顔で言われ、反応に困る。湊さんの隣でなければ、もう少し盛大にため息をついていた。
父はようやく湯飲みを持ち上げた。もう冷めているはずなのに、一口だけ飲む。
「それでも、すぐに認めるとは言えない。私は七年前、お前が泣く声を電話で聞いた」
心臓の奥を、古い痛みがかすめた。
「あのときお前は、振られただけだから心配しないで、と何度も言った。心配するなと言いながら、まともに息もできていなかった」
「それは……」
「父親は、娘が忘れたふりをしたことまで忘れられるほど器用じゃない」
責められているのではない。
父もまた、七年間、あの日から動けずにいたのだ。
私が紺色の傘を捨てられなかったように、父は電話越しの泣き声を手放せなかった。
「ごめん」
反射的に言うと、父の眉間の皺が深くなった。
「なぜお前が謝る」
「心配させたから」
「泣いたことは悪くない。黙っていた私にも責任はある」
父は一度言葉を切り、湊さんを見た。
「だから、今日は年齢以外の話もします」
「はい」
「あなたは今、三十八歳。私は五十五歳です」
数字を並べられ、急に居間が狭くなった気がした。
「私とあなたは、十七しか違わない」
湊さんの肩がわずかに強張る。
父は湯飲みを置いた。
「ひなたが四十六のとき、あなたは五十八です。ひなたが私の年齢になる前に、あなたは七十に近づく」
恋愛のときめきだけでは消せない、現実の数字だった。
「霧島さん」
父の声が、静かな居間に落ちる。
「あなたがひなたより先に老いていくことを、二人で話したことはありますか」
(第103話へ続く)




