未来を決めつけない
その話を、二人でしたことがあるか。
父の問いに、私はすぐ答えられなかった。
十二歳という数字なら、何度も意識してきた。再会したときも、恋人になったときも、周囲の目にさらされたときも。
けれどそれはいつも、今の私たちを隔てる数字だった。
十年後、二十年後の暮らしとして考えたことはあるかと問われれば——。
「……ありません」
先に答えたのは、湊さんだった。
低く、逃げ道を作らない声だった。
「まったく考えていなかったわけではありません。ただ、結城さんと具体的に話したことはありません」
「なぜですか」
「私が口にすれば、彼女に将来の負担を意識させることになると思っていました」
父の眉間に皺が寄った。
私の胸にも、別の意味で引っかかる。
それはたぶん、優しさから出た言葉だ。けれど、つい最近まで私たちを苦しめていた考え方と、よく似ている。
「湊さん」
「ああ」
「今の、ちょっと違います」
父の前で恋人に駄目出しをする娘。緊張感のある場面としては、たぶん正解ではない。
でも、ここで黙ったら、また彼だけが私の将来を背負おうとする。
「私が負担に感じるかどうかを、先に決めないでください」
湊さんは一瞬黙った。
動揺したときの間だ。
「……そうだな」
「はい」
「言い方を間違えた」
素直に訂正されると、こちらも調子が狂う。いや、謝らせたいわけではない。ないのだけれど、もう少し反論される覚悟をしていた。
父は私たちを交互に見た。
「今までも、こういうことが?」
「かなり」
「結城」
「最近は改善中です」
慌てて付け足すと、父が深いため息をついた。
「ひなた。私は笑い話を聞いているわけじゃない」
「わかってる」
膝の上で指を組み直す。
「だから、ちゃんと答える。私は湊さんが先に老いることを、具体的には考えてなかった」
言葉にすると、胸の奥が少し冷えた。
好きだから大丈夫、と言ってしまえば簡単だ。
けれど、好きは病院への付き添いを代わってくれない。仕事と介護が重なった朝に、眠る時間を増やしてもくれない。現実の前で、気持ちだけを盾にはできない。
「怖くないのか」
父が聞いた。
「怖いよ」
今度は、すぐに答えた。
「湊さんが病気になるかもしれない。私より早く仕事を辞める時期が来る。私が支える側になる日も、たぶん同い年の人と付き合うより早い」
湊さんの横顔が硬くなる。
言いたくなかったのだろう。私にそんな未来を想像させたくなかったのだ。
けれど、想像しないことと、起きないことは同じではない。
「でも、私が先に病気になるかもしれないし、仕事を続けられなくなるかもしれない。年下だから、ずっと支えてもらう側でいられる保証もない」
「それは論点をずらしている」
「ずらしてないよ。未来は年齢順に困ることが起きるわけじゃないって話」
父の目をまっすぐ見る。
「十二歳差があるから考えなきゃいけないことはある。でも、十二歳差がなければ何も考えなくていいわけじゃない」
壁の時計が一度、大きく鳴った。
言い切ったあとで、自分の呼吸が速くなっていることに気づく。緊張すると早口になる癖は、今日も健在だった。せめて最後まで噛まなかった私を褒めたい。
父は湊さんへ視線を戻した。
「あなたはどう考えますか」
「結城さんの言うとおりです」
「同意だけなら簡単です」
「はい」
湊さんの手が、膝の上でわずかに握られた。
「私はこれまで、自分が負担になる可能性を理由に、彼女から離れるほうが正しいと思っていました」
胸が小さく痛む。
過去形で語られても、その決断に置いていかれた感覚は、まだ完全には消えていない。
「ですが、それでは結局、彼女の選択を私が奪うことになる。今回、それを思い知りました」
父は黙って聞いている。
「私は、年齢差を埋められるとは考えていません。老いないとも、病気にならないとも約束できません。彼女に負担をかけないと断言することもできません」
また難易度の高い答えを真正面から出してくる。
でも不思議と、今度は慌てなかった。
「その可能性を理由に、今のうちに身を引くつもりもありません」
湊さんの声が、静かに強くなる。
「必要なことは彼女と話します。働き方も、暮らし方も、将来の備えも。意見が違えば、私の判断だけで終わらせません」
「もし、あなたが先に倒れたら?」
「助けを求めます」
あまりに短い返事に、父がわずかに目を細めた。
湊さんは続けた。
「以前の私なら、一人で処理しようとしたと思います。妹の闘病中も、それ以外のやり方を知りませんでした」
葵さんのことを話す声には、今も消えない重さがある。
「ですが、一人で抱えることが責任だとは、もう考えません。彼女にも、利用できる制度にも、周囲にも頼ります。彼女が倒れたときは、私が同じようにします」
「それで、ひなたの人生が介護だけになったら?」
湊さんの唇が、わずかに止まった。
簡単な正解のない問いだった。
私の手のひらに汗がにじむ。
「そのときは——」
「二人で決めます」
私は湊さんの言葉を遮った。
二人の視線が同時にこちらへ向く。
「今、私を介護させませんって言おうとしましたよね」
「……否定はできない」
「それが駄目なんです」
思わず敬語になった。職場なら、このあと修正指示を出したいところだ。
「介護するか、誰かに頼るか、施設を探すか、仕事を変えるか。そのときの体調やお金や私の気持ちを抜きにして、今ここで決められません」
「ひなた」
父の声が少し低くなる。
「きれいごとで済まないぞ」
「うん。だから、きれいな約束はしない」
胸の前で握った手を、ゆっくりほどく。
「絶対に幸せになる、とも言えない。後悔しない、とも言えない。でも、湊さんが先に老いるからという理由だけで、今の私の気持ちを間違いにされたくない」
父の顔が、一瞬だけつらそうに歪んだ。
その表情を見て、ようやくわかった。
父は私たちを論破したいのではない。
七年前、電話の向こうで泣いていた娘が、今度はもっと長く、もっと深く傷つくことを恐れている。
「お父さん」
「なんだ」
「心配してくれてありがとう」
父は眉を寄せたまま黙った。
「でも、心配されない人生を選ぶことと、私が選びたい人生は、同じじゃない」
居間に、長い沈黙が落ちた。
やがて父は冷めたお茶を飲み干し、湯飲みを置いた。
「今日、認めるつもりはない」
「うん」
「だが、年齢の話を避ける二人ではないことはわかった」
それは許可ではない。
けれど、拒絶だけでもなかった。
「一度で答えを出そうとするな。東京へ戻って、具体的に話しなさい。五年後、十年後、どちらかが働けなくなったときのことまで」
「はい」
「話したうえで、それでも同じ答えなら、もう一度来なさい」
私は湊さんを見た。
彼も私を見ていた。
「来ます」
今度は、二人の声が重なった。
玄関を出る頃には、空から細い雨が落ち始めていた。
父に駅まで送ると言われたけれど、私は断った。少し歩きたかった。今聞いたことを、隣にいる人と話しながら。
「傘、持ってくればよかった」
私が空を見上げると、湊さんが鞄を開いた。
「一本ある」
取り出された傘を見て、私は息を止めた。
紺色の生地。持ち手の形。留め具に入った細い銀色の線。
七年前に借りて、今も私の部屋にある傘と、色が似ているだけではない。
同じ型だった。
湊さんは傘を開かず、濡れ始めた玄関先で私を見た。
「これは、七年前から俺が持っていた傘だ」
(第104話へ続く)




