二本目の紺色
雨粒が、紺色の生地に小さな染みを作っていく。
湊さんはまだ傘を開かなかった。
「七年前から……?」
「ああ」
私の部屋にある傘と、同じ型。
似たものを偶然買ったのではない。そう言い切る声だった。
「でも、七年前の傘は、私が持っています」
「知っている」
「知っている、じゃなくて」
混乱すると、私はすぐ早口になる。
「あの日、私に貸してくれたんですよね。私が返さないまま東京を離れて、それで、湊さんが七年前から持っているって、どういう意味ですか」
湊さんは一度、目を伏せた。
動揺すると黙る。その癖を、今の私は知っている。
だから急かさずに待った。
「同じものを、買い直した」
「いつですか」
「あの日の翌日だ」
心臓が、遅れて大きく鳴った。
「翌日……」
「傘が必要だった。それだけだ」
「今、それだけで逃げようとしましたね」
氷の部長は、こういうときだけ部下の追及から目を逸らす。
私は半歩近づいた。雨が前髪に触れ、頬へ冷たい筋を作る。
「同じ傘じゃなくてもよかったはずです」
「……そうだな」
「それを、七年も持っていたんですか」
「ああ」
「どうして」
問いながら、胸の奥ではもう答えに触れていた。
でも、想像で済ませたくなかった。
私たちはそれで何度もすれ違った。相手のためだと勝手に決めて、言わなくてもわかるはずだと黙って、空いた場所を諦めで埋めた。
湊さんが私を見る。
「忘れられなかったからだ」
雨音が遠のいた。
「君を断ったことも、泣かせたことも。あの傘を差し出したとき、君が礼を言って笑おうとした顔も」
「笑えてませんでしたよ、たぶん」
「笑えていなかった」
そこは即答なんだ。
七年越しに証言されて、恥ずかしいような、悔しいような気持ちになる。けれど、その全部より強く、胸を締めつけるものがあった。
私は、借りた傘を捨てられなかった。
湊さんは、なくなった傘と同じものを買い直した。
二人とも、相手には見えない場所で、同じ紺色に七年を閉じ込めていた。
「だったら、どうして今まで黙っていたんですか」
「言える立場ではないと思っていた」
「また立場ですか」
「それだけじゃない」
湊さんの指が、傘の持ち手を強く握る。
「これを見せれば、俺も苦しんでいたと訴えることになる。君を傷つけた事実が軽くなるようで、嫌だった」
この人らしい。
不器用で、頑固で、反省の仕方まで一人きりだ。
「軽くなりません」
「ひなた」
「私が傷ついたことと、湊さんが忘れられなかったことは、別です。どっちかが本当なら、どっちかが嘘になるわけじゃない」
傘の留め具に触れる。細い銀色の線が、雨に濡れて光った。
「これは免罪符じゃありません。でも、言い訳でもないでしょう」
「……ああ」
「じゃあ、ちゃんと教えてください。私が知らなかった、湊さんの七年を」
湊さんの喉が、わずかに動いた。
「一度に全部でなくていいです。私も、全部を一度に話せる自信はありません」
「それでも聞きたいのか」
「聞きたいです。これからのことを話すなら、今まで一人で抱えたことも、二人で知っておきたい」
父に問われた未来は、まだ輪郭もない。五年後も十年後も、どちらが先に弱るかもわからない。
けれど、話せる。
知らないことを怖がるのではなく、知ろうとするところから始められる。
湊さんは、ようやく傘を開いた。
紺色の下に、雨音が柔らかく響く。
「狭いな」
「七年前と同じ型なら、二人用じゃありませんから」
「濡れるぞ」
「そっちこそ」
私が柄を中央へ押し戻すと、手が重なった。
冷えた指先に、湊さんの体温が移る。
たったそれだけなのに、耳まで熱くなる自分が悔しい。父と人生設計の話をした直後でも、ときめくものはときめく。心臓は会議資料ほど整然としてくれない。
「二本あるんですね」
「そうだな」
「今度、私のも持ってきます」
「返さなくていいと言った」
「返しません」
私は重なった手を、そのまま握った。
「並べてみたいんです。七年前から持っていた二本を」
湊さんが息を止める。
「それから、これからも持っていたい。雨の日に別々の場所にいたとしても、同じ傘を開けるように」
言ってから、自分で照れた。
何だ、その妙に詩的な発言は。雨のせいだ。たぶん。できればそういうことにしてほしい。
湊さんは笑わなかった。
ただ、私の手を握り返した。
「わかった」
短い声が、傘の内側に残った。
そのとき、後ろから私の名前を呼ぶ声がした。
「ひなた」
振り向くと、父が古い透明傘を差して立っていた。片手には、見覚えのあるスマートフォンがある。
「あっ」
「テーブルに忘れていた」
「ごめん。ありがとう」
慌てて手を離そうとした私より先に、湊さんの指がほどける。
その動きが、少しだけ寂しかった。
父はスマートフォンを差し出したあと、湊さんの傘を見た。
「それが、さっき話していた傘か」
「聞こえてたの?」
「呼んでも返事をしないから、少しだけな」
どこからが少しなのか、怖くて確認できない。
湊さんが傘の柄を握り直した。
「七年前、ひなたさんに貸したものと同じ型です」
「なぜ同じものを?」
父にも同じ問いを向けられ、湊さんは黙らなかった。
「忘れられなかったからです」
雨の中で、父の眉がわずかに動く。
「それでも、七年前の自分の判断が正しかったとは思っていません。今も、守るつもりで一人で決める間違いをします」
胸の奥が痛んだ。
けれど、その痛みを隠すように笑うのはやめた。
「もう一人では決めさせません」
私が言うと、父は深いため息をついた。
「頑固なのは、どちらも同じか」
「私はお父さん似だと思う」
「私のせいにするな」
返事があまりにいつも通りで、肩から力が抜けた。
父は湊さんへ向き直る。
「霧島さん。今日のところは、まだ手放しで認めるとは言えません」
「はい」
「だが、反対することはやめます」
息をのみ、父を見る。
「それって——」
「お前の選択だ。私が怖がることと、お前に諦めさせることは別だとわかった」
父の視線が、重なったままの私たちの肩へ落ちた。
「次に来るときは、説得する相手としてではなく、ひなたが選んだ人として来てください」
湊さんが深く頭を下げる。
「ありがとうございます」
「礼を言うのはまだ早い。五年後と十年後の話は、次に聞きます」
「はい。二人で話してきます」
父は私にも同じ答えを求めるように見る。
「二人で話してくる」
「ならいい」
父はそれだけ言い、家のほうへ戻り始めた。
数歩先で止まり、振り向かないまま透明傘を傾ける。
「ひなた」
「なに?」
「今度は、二人で泊まれるように客間を片づけておく」
返事をする前に、父は歩き出した。
雨で見えにくくなった背中へ、私は深く頭を下げる。
顔を上げると、湊さんも同じように頭を下げていた。
許されたから選べるのではない。
それでも、大切な人に受け止めてもらえたことが、こんなにも嬉しい。
私は紺色の傘の柄を握り、駅とは反対の方向へ向き直った。
「ひなた、駅は逆だ」
「知っています」
「では、どこへ行く」
父の背中は、まだ雨の向こうに見えていた。
「もう一度だけ、家に戻ります」
私は湊さんの手を取り、今度は自分から歩き出した。
「帰る前に、お父さんと三人で夕飯を食べたいって、私から頼みます」
(第105話へ続く)




