三人の夕食
父は、戻ってきた私たちを見て、玄関で固まった。
「……忘れ物か」
「ううん」
私は湊さんの手を離し、濡れた靴を揃えた。離れた指先に、さっきまで重なっていた体温が残っている。勢いで戻ってきたものの、いざ父を前にすると喉がきゅっと狭くなる。
さっきまであれだけ言いたいことを言ったのに、夕飯を一緒に食べたいと頼むだけで緊張するのはなぜだろう。
たぶん、これは議論ではないからだ。
正しさではなく、家族の中へ湊さんを招きたいという、私のわがままだ。拒まれたら、きっとさっきより傷つく。それでも、聞かずに帰るほうが後悔する。
「帰る前に、三人で夕飯を食べたい」
父はしばらく黙っていた。軒先から落ちる雨粒の音が、やけに大きく聞こえる。
「急に言われても、霧島さんに出せるようなものはないぞ」
「私には出せるものがあるの?」
「娘は客じゃない」
「では、俺も客としてでなく、手伝わせてください」
隣から落ち着いた声がして、私は湊さんを見上げた。
父も同じように彼を見る。湊さんは背筋を伸ばしたまま、逃げずにその視線を受け止めていた。
「料理はできますか」
「最低限は」
「その答えを信用して、以前ひなたに台所を任せたら、味噌汁が煮詰まりました」
「それ、私が大学一年のときの話でしょ」
「事実は古くならない」
七年前の失恋は手放そうとしてくれたのに、七年前の味噌汁は保存するらしい。父親の記憶力は、娘にとって都合の悪い方向にだけ性能が高い。
「今は作れるから」
「この前、鍋を焦がしていたな」
「どうして知ってるの」
「電話の途中で火災報知器が鳴った」
「あれは湯気!」
思わず声を上げると、父の口元がほんの少し緩んだ。
それを見て、胸の奥に張っていた糸も少しだけほどける。湊さんの気配も、隣でわずかにやわらいだ気がした。
「入ってください」
父は湊さんにそう告げ、廊下の奥へ向かった。
「夕飯くらいはあります」
認めるとも、歓迎するとも言わない。
けれど、閉まりかけていた家の扉は、確かにもう一度開いた。
冷蔵庫にあったのは、父が昼に作ったらしい煮物と、切り身の魚、それから不自然なほど多い野菜だった。冷気と一緒に、出汁と醤油の懐かしい匂いが漂う。
「これ、最初から誰かと食べる量じゃない?」
「野菜は日持ちしない」
「昨日買ったって袋に書いてあるけど」
「細かいことを言うな」
父は顔を背けて米を研ぎ始めた。水の中で米粒が鳴る音まで、どこか落ち着かない。
もしかしたら、指定席を二人分取ったときから、夕飯の可能性も少しだけ残していたのかもしれない。
そう思っても、指摘はしなかった。私にも、素直になれないときがある。その逃げ道を明るさで塞がれる苦しさはよく知っている。
「俺は何をすればいいでしょう」
湊さんが腕時計を外し、シャツの袖を折る。
仕事中にも見る仕草なのに、実家の台所でするだけで心臓に悪い。露わになった手首や、きちんと揃えられた折り目にまで目が行く。白いシャツの腕に見とれている場合ではない。私は二十六歳の社会人で、これから包丁を持つのだ。集中しよう。
「魚をお願いします。ひなたには野菜を」
「逆じゃない?」
「適材適所だ」
父の判断により、私は切るだけの担当になった。
湊さんは魚の水気を拭き、父に調味料の場所を尋ねる。一つ聞けば、あとは迷わず手を動かす。フライパンを温める横顔が真剣すぎて、社内の進捗会議でも始まりそうだった。
「部長、火加減はいかがですか」
小声でからかうと、湊さんが一瞬だけ私を見る。
「結城。にんじんの大きさが揃っていない」
「実家でも鬼上司」
「怪我をするなと言っている」
「それを先に言ってください」
「同じ意味だ」
「違います」
「手を動かせ」
父の前だからか、いつもより低い声なのに、耳が熱くなる。肩が触れそうな距離でこんな声を出すのは反則だと思う。
向かいで味噌を溶いていた父が咳払いをした。
「会社でも、ずっとこうなんですか」
「私はもっとしっかりしています」
「結城は仕事では優秀です」
即答だった。
包丁を持つ手が止まる。
「企画の意図を数字に落とし込み、相手の立場から修正案を出せます。追い込まれると一人で抱えようとするところはありますが、以前より周囲を頼れるようになりました」
評価面談のような内容なのに、声がやさしい。私のいないところでも、きっと同じように言ってくれるのだろうと思える声だった。
「……褒めすぎでは」
「事実だ」
「事実は古くならないらしいぞ」
父まで乗ってこないでほしい。
耳の熱をごまかすように、私はにんじんを睨んだ。今度こそ同じ大きさに切ってやる。
出来上がった夕飯は、驚くほど普通だった。
焼き魚と煮物と、野菜の多い味噌汁。三人分のご飯が並ぶ食卓は、さっきまで話し合いをしていた場所と同じなのに、少し広く見えた。
湯気の向こうに父がいて、その隣に湊さんがいる。見慣れない光景なのに、不思議と間違っているようには見えなかった。
「いただきます」
三つの声が、微妙にずれた。
最初は箸の音ばかりが響いた。時計の秒針が一周するまでが、こんなに長いとは知らなかった。
父は魚を一口食べ、湊さんを見る。
「料理は本当に最低限ですね」
私は慌てて魚を口に入れた。普通においしい。焦げていないし、塩加減もちょうどいい。
「お父さん、厳しすぎない?」
「褒めています」
「どこが?」
「最低限を確実にできる人は信用できます」
父なりの最大級の評価だったらしい。
湊さんは少し黙ってから、頭を下げた。
「ありがとうございます」
その表情はいつも通り落ち着いていたけれど、膝の上へ戻した手がわずかにほどけたのを、私は見逃さなかった。
「ただし、ひなたは空腹になると機嫌が悪くなります」
「知っています」
「ちょっと」
「朝食を抜くと十時半頃から返事が短くなる」
「観察しないでください」
「上司として把握した」
「今、その肩書きを便利に使いましたよね?」
父が声を立てずに笑った。
ほんの一瞬だったけれど、見間違いではなかった。
七年前、泣きながら電話をした私を知る父と、泣かせたことを七年間悔やんできた湊さん。
二人の間にあるものが、今日だけで消えるわけではない。消さなくてもいいのだと思う。
痛かった過去までなかったことにしなくていい。
その過去を抱えたまま、同じ食卓で新しい時間を作ればいい。慎重で、不器用で、三つの声が少しずつずれるような始まりでもいい。
食後、湊さんが立ち上がった。
「片づけます」
「客にそこまでさせられません」
「先ほど、客でなくていいと言っていただきました」
父が言葉に詰まる。
氷の部長は、契約条件の確認に厳しい。
結局、父が洗い、湊さんが拭き、私は食器を棚へ戻すことになった。水音のする狭い台所で肩が触れそうになるたび、変に意識してしまう。
会社では隠してきた距離を、ここでは隠さなくていい。
それだけのことが、まだ少しくすぐったい。湊さんから受け取った皿には彼の指のぬくもりなど残っていないはずなのに、触れた場所ばかり気になった。
帰り際、父は玄関で小さな紙袋を差し出した。中には、残った煮物が保存容器に詰められていた。
「二人で食べなさい」
「ありがとう」
「容器は次に来たときでいい」
次。
その一言が嬉しくて、私は強く紙袋を抱いた。胸いっぱいに何かが込み上げたけれど、ここで泣けば父が困る。だから、いつも通りに笑った。
湊さんが父へ頭を下げる。
「また、伺います」
「今度は先に連絡してください。魚を三切れ買います」
「はい」
短い返事に、湊さんの安堵がにじんでいた。
駅へ向かう道では、もう雨が上がっていた。濡れたアスファルトが街灯を映し、並んだ私たちの影を淡く揺らしている。
それでも湊さんは紺色の傘を持ち、私は煮物の入った紙袋を持って歩いた。七年前の傘と、今日から続いていく食卓。その両方が、私たちの間にある。
帰りの新幹線で、隣の席に座った湊さんは、しばらく窓の外を見ていた。流れていく夜の灯りが、窓ガラスに彼の横顔を重ねている。
「疲れました?」
「いや」
「緊張はしましたよね」
「した」
正直な答えに笑うと、テーブルの下で彼の手が私の手に触れた。
指先を確かめるように重ねられ、心臓が一拍遅れて跳ねる。車内は暖かいはずなのに、触れたところから熱が広がっていく。
「ひなた」
仕事の肩書きも、父の視線もない場所で名前を呼ばれる。
「はい」
「五年後と十年後の話をする前に、確認したいことがある」
彼の指に、少しだけ力がこもった。
「東京へ戻ったら、俺たちの結婚について話したい」
(第106話へ続く)




