結婚を、二人で考える
結婚。
その二文字は、新幹線の走行音に紛れることなく、まっすぐ私の胸へ落ちた。
一定の間隔で響くレールの音も、窓の外を流れていく街の灯りも、急に遠くなる。
テーブルの下では、湊さんの指が私の手に重なったままだった。
温かい。逃げようと思えば、いつでも逃げられる程度の力。それなのに、心臓だけが逃げ道を失ったみたいに速くなる。
顔を上げれば、すぐ隣に湊さんがいる。けれど、その横顔を見る勇気が出ない。
「……それは」
声が裏返りそうになり、いったん息を吸う。車内の乾いた空気が喉に引っかかった。
「今、返事が必要な話ですか?」
「いや」
湊さんはすぐに答えた。
「今ここで決めてほしいわけではない」
ほっとした。
同時に、ほんの少しだけ残念だと思った自分に驚く。
何を期待したの、私。
今すぐ頷いて、そのまま人生の行き先まで決まるような、そんな都合のいい展開を一瞬でも想像したのだろうか。
車内販売のアイスみたいに、勢いで買ってすぐ答えが出る話ではない。しかも父から五年後と十年後について話せと言われた、その帰り道だ。
嬉しい。怖い。期待したい。でも、浮かれて大事なところを見落としたくない。
胸の中で感情が渋滞している。せめて一台ずつ通ってほしい。
「では、どういう意味ですか」
「言葉の通りだ。結婚するかどうかを、二人で考えたい」
簡潔で、逃げがない。
いかにも湊さんらしい言い方だった。甘い飾りは一つもないのに、曖昧にして逃げる余地も残していない。
けれど私は、その言葉を喜ぶ前に、一つだけ確かめなければならなかった。
「お父さんに言われたからですか」
重なっていた指が、わずかに止まった。
ああ、また面倒な聞き方をした。
せっかく嬉しいことを言ってもらったのだから、笑って頷けばいい。以前の私ならそうした。空気を壊さず、相手を困らせず、自分の不安はあとで一人になってから処理する。
でも、そのやり方で七年も遠回りした。
聞かずに飲み込んだ言葉は、消えてくれない。胸の底へ沈んで、何かの拍子に痛みへ変わる。それを私はもう知っている。
「責めたいわけじゃありません。ただ、湊さんは責任を感じると、自分の希望より先に正しい答えを出そうとするから」
「否定できないな」
「そこは少しくらい否定してください」
「事実を曲げても、君は納得しないだろう」
「しませんけど」
真面目すぎる返答に、強張っていた肩から少し力が抜けた。
湊さんは私の手を離さなかった。そのことが、言葉より先に大丈夫だと伝えてくる。
「結城さんに言われたことは、きっかけではある」
「やっぱり」
「最後まで聞け」
会社と同じ低い声なのに、親指が私の指の側面をそっとなぞる。その一度だけで、注意されているのか甘やかされているのかわからなくなる。
氷の部長、勤務時間外の温度管理がずるい。
「俺は、五年後や十年後の話を避けていた」
窓の外で、暗い景色が流れていく。時折現れる町の明かりが、彼の横顔を淡く照らしては消えた。
「年齢の差は変えられない。先のことを具体的に考えれば、君に背負わせるものが見える。それを理由に、考えないままでいるほうが誠実だと思っていた」
「誠実というより、保留ですよね」
「そうだ」
あっさり認められると、こちらの言葉の刃先が行き場をなくす。
反論されると思っていた。あるいは、私のためだと言い切られるかもしれないと。
けれど湊さんは、間違っていた部分まで私に差し出してくる。格好よく見せようとしないその不器用さに、胸の奥が静かに揺れた。
「結婚を口にすれば、君の将来を縛ると思っていた。だが、口にしないことも、君から選ぶ機会を奪う」
父が言ったことと似ていた。
娘の人生を決める許可を、誰にも与えない。
湊さんはずっと、私を守ろうとして私の選択肢を減らしてきた。七年前も、配置転換を申し出たときも。
そして私は、傷つきたくなくて、自分の希望を言う前に相手の答えを予想してきた。
守ることと決めつけること。遠慮することと逃げること。似て見えるけれど、同じではない。
たぶん私たちは、その違いを確かめるために、今ここにいる。
「だから、話したい。俺が一人で結論を出すのではなく」
「結婚しないほうがいい、という結論になる可能性も含めて?」
一瞬の沈黙。
聞いたのは私なのに、胸が痛む。握られた手へ、知らず力が入った。
「含めるべきなんだろうな」
「ずいぶん嫌そうですね」
「嫌だからだ」
湊さんがこちらを見る。
まっすぐな視線を受け止めた途端、耳が熱くなった。
「俺は、君と結婚しないという結論を望んでいない」
息が止まる。
これはプロポーズではない。
期限も、指輪も、具体的な約束もない。二人の未来を話し合うための、入口にすぎない。
それでも、七年前に「応えられない」と線を引いた人が、今は望んでいると言ってくれた。
あのとき閉じた扉の向こう側から、今度は彼自身が手を伸ばしてくれている。
その重さを、私はすぐに笑顔へ変換できなかった。
「……私もです」
ようやく出た声は小さかった。それでも、走行音には負けなかった。
「私も、結婚しないほうがいいという答えを探すために話すのは嫌です」
「そうか」
短い返事だった。けれど彼の指から、ほんの少しだけ緊張が抜けたのがわかった。
「ただし」
「まだあるのか」
「あります。大事なところです」
私は重なっていた手を返し、今度は自分から湊さんの指を握った。
受け止めてもらうだけではなく、私からも選ぶために。
「結婚を、湊さんが私を守るための制度にしないでください」
彼の眉がわずかに動く。
「年齢のことも、仕事のことも、お金のことも、葵さんのことも、私の両親のことも。どちらかが一人で背負う前提では話したくありません」
「わかった」
「早いです」
「では、検討する」
「それも会社みたいです」
「難しいな」
真剣に困った顔をするから、とうとう笑ってしまった。
窓ガラスに映る私の顔は、耳まで赤い。その隣には、相変わらず表情の薄い湊さんがいる。けれど、つないだ手の温度を知っている私には、もう彼が冷たい人には見えなかった。
それでも七年前のように、気持ちを言ったことを恥ずかしいとは思わなかった。
東京駅に着く頃には、日付が変わるまで一時間を切っていた。
ホームへ降りると、夜の空気が頬の熱を冷ましてくれる。頭上では到着案内が響き、人の流れが途切れず改札へ向かっていた。
湊さんは紺色の傘を持ち、私は父から渡された紙袋を抱えている。現実味のない話をした直後なのに、腕の中からは煮物の匂いがわずかに漂っていた。
「煮物、どうします?」
「君が持ち帰れ」
「二人で食べなさいって言われました」
「では、明日」
「明日は月曜です」
「仕事のあとに時間を作る」
あまりに当然のように言われて、足が止まる。
「明日から始めるんですか。五年後と十年後の話」
「先延ばしにする理由はない」
「議題、多いですよ」
「分ければいい」
「会議みたいに?」
「会議より長く時間を取る」
その言い方が妙に嬉しかった。
私たちはこれまで、五分や十五分の隙間を見つけて、言えなかったことを少しずつ渡してきた。けれど人生の話は、余った時間でするものではない。
忙しいからあとで、落ち着いたらいつか。そうやって先送りにした時間が、どれほど長くなるかも知っている。
「じゃあ、最初の議題は?」
「互いが仕事を続けること」
迷いのない答えだった。
私が思わず見上げると、湊さんは静かに続けた。
「君が結婚によって仕事を諦める前提にはしない。俺の異動や処遇も、俺だけで決めない」
胸の奥が、じんと熱くなる。
仕事を大切にしたい気持ちも、彼と一緒にいたい気持ちも、どちらかを選ばなければならないものとして扱われなかった。それが何より嬉しかった。
「それ、忘れないでくださいね」
「ああ」
「録音したいくらいです」
「議事録を作るか」
「本当に作りそうだからやめてください」
並んで改札へ向かう。
結婚という言葉は、まだ私たちの少し先にある。手を伸ばせば届きそうで、けれど触れるには確かめることが多すぎる。
でも、遠いからと目を逸らす必要はない。
一緒に考えることは、一人で決められることより、きっと遅い。
意見が違うこともあるだろう。言いにくいことも、不安になる夜も、たぶんある。
それでも、その遅さを、私は初めて嬉しいと思った。
改札を抜けたところで、鞄の中のスマートフォンが震えた。
短い振動が、柔らかく膨らんでいた未来を切り取る。
会社のメールだった。
件名を見た瞬間、浮ついていた足元が現実へ引き戻される。
『配置転換申出および試行運用に関する審査結果通知』
本文は短かった。
明日午前九時、湊さんと私、それぞれに人事面談を行う。結果はその場で通知する、とある。
「湊さん」
画面を向けると、彼も自分のスマートフォンを確認した。
さっきまで触れていた指先が、急に冷えた気がした。
結婚の話を始めるより先に、明日から私たちが同じ部署にいられるのかさえ、まだ決まっていない。
けれど、もう一人で最悪の答えを想像して黙るのはやめる。
私はスマートフォンを握り直した。
「明日の面談が終わったら、逃げずに話しましょう」
「何をだ」
「仕事も、五年後も、十年後も。全部です」
湊さんは一度だけ頷いた。
「わかった。結果が何であっても、今度は二人で決める」
その声は静かで、駅の雑踏の中でもはっきり聞こえた。
翌朝九時。
私たちの未来を分ける通知が、別々の面談室で告げられる。
(第107話へ続く)




