同じ部署に残る条件
午前九時の五分前。
私は第三面談室の前で、湊さんは廊下の突き当たりにある第二面談室の前で立っていた。
たった十数メートルなのに、ずいぶん遠い。
白い壁と灰色のカーペット。始業前の廊下には、空調の低い音だけが流れている。いつもなら数秒で歩ける距離が、今日は越えてはいけない境界線のように見えた。
同じ通知を受け取るのに、入る扉は別々だ。恋人同士だから当然なのかもしれない。事実確認も条件の説明も、個別に行うほうが公平だと頭ではわかっている。
けれど、別々に呼ばれるというだけで、また誰かに二人の距離を決められるような気がしてしまう。
昨夜から何度も自分に言い聞かせた。どんな結論でも、まず最後まで聞く。勝手に意味を足さない。湊さんの分まで答えを想像しない。
それでも心臓は、そんな決意を知らないふりで速くなる。
湊さんが私を見る。
表情はいつもと変わらない。けれど、まっすぐ向けられた視線には、私の返事を待つような静かな熱があった。
私は胸の前で小さく拳を握った。
大丈夫です、と声にしないで伝えたつもりだった。
彼も一度だけ頷き、それぞれの扉がほとんど同時に開いた。
「結城さん、どうぞ」
湊さんの姿が扉の向こうへ消える寸前、もう一度だけ目が合った。
たったそれだけで、足が前へ出た。
面談室には人事担当者が二人いた。机の中央には、昨夜のメールと同じ件名が印刷された書類が置かれている。紙の白さが妙に眩しい。
椅子に座った途端、背筋が伸びた。膝の上へ置いた手が冷たい。
こういうとき、緊張すると私は先回りして話しすぎる。沈黙が怖くて、聞かれてもいないことまで説明して、あとから一人反省会を開催するのがいつもの流れだ。
今日は聞く。まず聞く。
膝の上で組んだ指に力を入れた。
「結論からお伝えします」
その一言で、心臓が跳ねる。
担当者が書類へ視線を落とした。ほんの一秒ほどの間なのに、喉がひどく乾いた。
「霧島部長の配置転換申出は、不承認となりました」
息をのみかけて、止めた。
不承認。
頭の中で、その四文字をゆっくり読み直す。
つまり、湊さんは企画部に残る。
胸の奥で弾けかけた喜びを、私は慌てて押しとどめた。まだ説明は終わっていない。都合のいい部分だけ拾って安心するには、ここまでの時間は重すぎる。
そして嬉しい、と思うより早く、別の不安が浮かんだ。元の状態に戻るだけなら、社内恋愛と指揮命令の問題は何も解決していない。
「ただし、直ちに以前と同じ体制へ戻すわけではありません」
やはり、と肩に力が入る。
担当者が一枚目をめくった。紙の擦れる音が、静かな部屋に大きく響いた。
「来月一日から六か月間を試行運用期間とします。霧島部長は企画部長として復帰しますが、結城さんへの日常的な指揮、承認、人事評価には関与しません。桐谷企画を含め、あなたの直属の管理者は三上さんです」
「六か月……」
思わずこぼれた声に、二人が頷く。
「その間、案件の成果、意思決定の透明性、部署内への負担を月ごとに確認します。評価に問題がなければ、この体制を正式運用へ移します」
書類の文字を目で追う。項目は事務的で、数字と役職名が整然と並んでいる。けれど、その一行一行が、私たちのこれからの働き方を決めるものだった。
湊さんは残る。
私は異動しない。
けれど、私の上司は三上さんになる。
同じ企画部で働きながら、仕事上は一本の線を引く。それはたぶん、今までのように気持ちを隠して息を詰めることとは違う。誰が何を決めるのかを、最初から明らかにするための線だ。
私たちを引き離す線ではなく、同じ場所で働き続けるための線。
そう考えると、胸に絡んでいた不安が少しだけ形を変えた。
「私が提出した意見書は、判断に影響しましたか」
聞くのは怖かった。恋人を残したいだけの文章だと思われていたら、私が仕事として積み上げたものまで軽く見られる気がしたからだ。
「しました。ただし、交際相手を残してほしいという要望としてではありません」
担当者の声は淡々としていた。
「配置転換による案件への損失、引き継ぎ期間、代替体制について、根拠が整理されていました。三上さんの資料とも一致しています」
胸の奥に張っていたものが、少しだけほどけた。呼吸がようやく肺の底まで届く。
私の言葉は、恋人の嘆願として片づけられなかった。
仕事をしてきた一人の社員の意見として、読まれたのだ。
湊さんの隣に立ちたいと思う気持ちと、自分の仕事を認めてほしい気持ち。その二つは、どちらかを隠さなければ成立しないものではなかった。
「なお、今回の匿名メール事件に関する結城さんへの疑義は、すべて解消されています。機密資料へのアクセス制限解除も正式決定です」
「はい」
返事が少し震えた。泣くほどではない。泣く場面でもない。それなのに、まぶたの裏が熱くなる。
「白石部長代理の処分は、懲戒審査の決定後、別途社内へ通知されます」
その名前を聞くと、今でも指先がわずかに冷たくなる。
私の名前で印刷された資料。知らない場所へ送られた写真。疑われて、湊さんと離されて、何度も自分の言葉を試された時間。
終わったことにはならない。記憶は都合よく消えてくれないし、明日から何もなかった顔で働けるわけでもない。
けれど、私の名前は私の手元へ戻ってきた。
その感覚だけは、確かだった。
「一つ、確認してもいいですか」
「どうぞ」
「六か月後、問題があった場合は、またどちらかが異動するのでしょうか」
質問を口にした途端、胃のあたりが縮む。未来の悪い可能性を自分から聞くのは怖い。それでも、曖昧なまま安心するより、知ったうえで選びたかった。
「結果を決めるのはこれからです。少なくとも、交際しているという事実だけを理由に、自動的に異動させることはありません」
未来を先に決めない。
父が言った言葉と、不思議なくらい重なった。
六か月後の結論は、まだ白紙だ。白紙だから怖い。でも同時に、私たちの働き方で書いていける余地がある。
面談が終わって廊下へ出ると、第二面談室の扉はまだ閉まっていた。
私は壁際の窓の前で待った。窓ガラスに映る自分の顔は、安心したようにも、まだ緊張しているようにも見える。
一分。二分。三分。
秒針の代わりに、廊下を通り過ぎる社員の足音を数える。
待っているだけなのに、悪い想像は律儀に増えていく。私には同じ部署に残ると伝え、湊さんには別の条件を告げているのではないか。管理職を外れるのか。減給か。あるいは——。
だめだ。
一人で最悪の答えを完成させないと、昨日決めたばかりだ。
私は小さく息を吐いた。本人の言葉を聞くまで、勝手に傷つかない。勝手に彼を諦めさせない。
四分後、扉が開いた。
出てきた湊さんの顔は、いつも通り静かだった。
静かすぎて、何も読めない。こういうときだけは、その完璧な無表情が少し恨めしい。
「湊さん」
名前を呼んでから、ここが会社の廊下だと思い出す。近くに人影はない。それでも頬へ一気に熱が集まった。
「あ……霧島部長」
「今さら遅い」
小さな声で言われて、耳まで熱くなる。こんな状況でもそこを拾うなんて、氷の部長は無駄に冷静だ。
けれど、声がいつもより少し柔らかい。それだけで、張りつめていた心がほどけそうになる。
「結果は」
「配置転換は不承認。来月から企画部長に戻る。ただし、六か月の試行運用だ」
「私も同じ説明を受けました」
「そうか」
安堵したはずなのに、彼の返事は硬い。視線は私から逸れないのに、口元だけがわずかに強張っている。
「何か別の条件があったんですか」
「俺には、試行運用中に問題が起きた場合、管理職としての適格性を再審査すると伝えられた」
それは軽い条件ではない。
六か月のあいだ、判断の一つ一つを見られる。恋人が同じ部署にいる管理職として、これまで以上の透明性を求められる。湊さんがその重さを理解していないはずがない。
けれど、彼は目を逸らさなかった。
「受ける。異動して責任から離れるより、この体制で結果を出す」
迷いを削り落としたような声だった。
以前の彼なら、私への影響を理由に、自分からすべて手放していただろう。私を守るという名目で、私の選ぶ余地まで奪っていたかもしれない。
その口から残るという言葉を聞けたことが、嬉しかった。
「私も結果を出します」
「結城」
「私のせいで再審査になる、とか言わないでくださいね」
先に釘を刺すと、湊さんは黙った。
まさか、言うつもりだったのか。
「今、一瞬考えましたね?」
「……言葉を選んでいた」
「便利な言い訳です」
思わず笑いそうになり、それでも笑ってごまかすのはやめた。ここは大切なところだ。冗談に包んで曖昧にしたら、彼はまた一人で背負おうとする。
「私は、守ってもらうために同じ部署へ残るんじゃありません。三上さんの下で成果を出して、この体制で問題がないと証明します」
「ああ」
「湊さんも、一人で責任を背負わないでください。六か月後に出るのは、あなた一人の成績表じゃないです。私たちの仕事の結果です」
言い切ると、胸の奥が震えた。強がりではない。私はもう、彼の庇護の中に隠れていたいわけではない。同じ現実を見て、自分の足で隣に立ちたい。
彼はしばらく黙っていた。
廊下の窓に、朝の薄い光が差し込んでいる。触れられる距離なのに、会社では手を取れない。伸ばせば届くはずの指先を、私はスカートの脇でそっと握った。
その代わり、湊さんはまっすぐ私を見た。
「わかった。残るためではなく、続けるために働く」
胸が熱くなった。
同じ場所にいることだけが答えではない。
どちらかが消えて問題をなくすのでもない。
線を引き、その線が何を守るのかを二人で確かめながら働く。それは面倒で、遅くて、きっと何度も息苦しい。
でも、未来を持つというのは、こういう現実を一つずつ選ぶことなのかもしれない。
曖昧な約束ではなく、今日の仕事を積み重ねた先にある未来。そう思うと、六か月という時間が試験期間ではなく、二人で答えを作る時間に見えてきた。
「では、今夜」
湊さんが言った。
「はい。仕事と、五年後と、十年後の話ですね」
口にするだけで鼓動が速くなる。五年後も十年後も、昨日までの私には遠すぎる言葉だった。それを今夜、彼と同じテーブルで話す。
「その前に、一つ増えた」
「まだ増えるんですか?」
私の心の会議室は、すでに議題が渋滞している。仕事、暮らし、家族、結婚。そのうえ何を追加するつもりだろう。
湊さんはスマートフォンを取り出し、その場で短い通話を始めた。
「ああ、葵。今夜、時間を空けてくれ」
突然出てきた名前に、私は瞬きをする。
妹さん? 今夜?
頭の中で二つの単語を並べた瞬間、さっきとは別の緊張が背中を駆け上がった。人事面談を終えたばかりなのに、今日の私にはまだ次の面談が用意されているらしい。
通話を終えた湊さんは、私へ向き直った。
「今夜、葵に会ってほしい」
「どうして急に……」
声が裏返らなかっただけ、自分を褒めたい。
湊さんは一拍置いた。いつもの無表情なのに、その目だけは驚くほど真剣だった。
「結婚を考えている人として、君を妹に紹介する」
(第108話へ続く)




