家族として会う夜
人事面談の結果を聞いた日の夜に、結婚を考えている相手の妹に会う。
情報量が多い。
朝から何度も心臓を働かせすぎて、そろそろ労働基準法に訴えられそうだった。
「そんなに緊張する必要はない」
駅前の小さなレストランへ向かいながら、湊さんが言った。
「人事面談より緊張しています」
「葵とは初対面ではないだろう」
「今日は肩書きが違います」
以前会ったときの私は、湊さんの部下で、過去を知る人で、葵さんにとっては兄の不器用さに巻き込まれている女性だった。
今夜は違う。
結婚を考えている人。
口に出していないのに、頭の中でその言葉が響くだけで耳が熱くなる。
「そもそも、どうして今日なんですか」
「先延ばしにする理由がない」
「あります。私の心の準備とか」
「今朝伝えた」
「数時間を準備期間と呼ばないでください」
抗議すると、湊さんは少し黙った。
あ、今、自分でも急だったと気づいた顔をした。
「……悪かった」
「本当に悪いと思っています?」
「思っている」
「では、今日は私が困ったら助けてください」
「ああ」
「黙って一人で引き受けるのも禁止です」
「わかった」
即答されたせいで、それ以上文句が続かなかった。
以前なら、湊さんは自分が説明すれば済むと思ったかもしれない。私を守るという名目で、私が答える機会まで奪って。
でも今日は、私も同じ席につく。
それを確かめるために、私は彼と並んで店の扉をくぐった。
「遅い」
窓際の席で待っていた葵さんは、私たちを見るなり言った。
「約束の十五分前だ」
「結婚を考えてる相手を突然呼び出しておいて、時間だけは正確なの、お兄ちゃんらしいよね」
いきなり核心を投げられ、私は入口で足を止めかけた。
葵さんは立ち上がると、私の前まで来る。
「ひなたさん、お久しぶりです」
「お久しぶりです」
「兄から聞きました。結婚を考えてるって」
「はい」
自分の声なのに、少し遠く聞こえた。
葵さんは私の返事を聞くと、湊さんへ顔を向けた。
「で、プロポーズは?」
「まだだ」
「してないのに妹へ紹介?」
「その前に話しておきたかった」
「順番が堅い」
容赦がない。
氷の部長を三言で追い詰められる人は、社内にもそういないだろう。
「座りましょうか」
私が間に入ると、葵さんは笑って席へ戻った。
向かいに葵さん、隣に湊さん。会社の打ち合わせなら資料を広げる配置なのに、今夜テーブルにあるのはメニューと水のグラスだけだ。
注文を済ませたあと、最初に口を開いたのは湊さんだった。
「人事の審査結果も出た。六か月の試行運用になる」
「ひなたさんの直属の上司から外れるんだよね」
「ああ」
「仕事を辞めたり、勝手に異動したりしない?」
「しない」
「本当に?」
「俺だけでは決めない」
その答えに、私は隣を見た。
今日、廊下で交わしたばかりの約束だ。
けれど、葵さんはすぐには頷かなかった。
「ひなたさん」
「はい」
「兄に、また何かを勝手に諦められたら、ちゃんと怒れますか」
思っていたのと違う質問だった。
仕事は続けたいか。十二歳の差をどう考えているか。父が反対したことをどう受け止めたか。そんな問いなら、帰りの電車で何度も答えを考えた。
でも、これは用意していなかった。
「葵」
「お兄ちゃんは黙ってて」
ぴしゃりと言われて、湊さんが本当に黙る。
少しだけおかしくなったけれど、笑って逃げる質問ではない。
「怒ります」
私はグラスから手を離した。
「実際、怒りました。私のためだと言って、一人で離れようとしたとき」
「怖くなかったですか」
「怖かったです」
あのときは、追いかけて説得することさえ違うと思った。私がどれだけ手を伸ばしても、湊さん自身が戻ると決めなければ、同じことを繰り返す。
だから、待たないと言った。
別れにも同意しなかった。
「私は湊さんに守ってもらうためだけに一緒にいるんじゃありません」
隣の気配が、静かにこちらへ向く。
「助けてもらいたいときもあります。でも、私だって助けたい。意見が違えば話したいし、勝手に決められたら怒りたいです。結婚を考えるなら、なおさら」
結婚。
今度はきちんと声にした。
胸の奥が大きく鳴ったけれど、言葉は揺れなかった。
「十二歳離れていることを、どちらかが上で、どちらかが従う理由にはしたくありません。私の父が心配していたのも、そこでした」
「お父さん、反対したんですよね」
「はい。最初は、すぐには認めないって」
「それでも会いに行ったんだ」
「二人で決めるために。今は、湊さんを私が選んだ人として迎えてくれています」
葵さんが視線を伏せた。
テーブルの下で、私の小指に温かいものが触れる。湊さんの指だった。
会社では触れられなかった距離。
けれど今は、隠す必要がない。
彼の手が私の手の甲を包むのではなく、答えを確かめるように指先だけを重ねている。私が望めば離せる触れ方だった。
だから私は、自分から指を絡めた。
「お兄ちゃん」
葵さんの声に、湊さんの手がわずかに強張る。
「はい、離さなくていいから」
見つかってしまった。
いや、テーブルの下なら見えないはずなのに、どうしてわかるのだろう。妹の勘、恐ろしい。
「私ね、兄が誰かと将来の話をする日なんて、ずっと来ないと思ってました」
葵さんは水のグラスを両手で包んだ。
「私が病気だった頃、兄は自分のことを全部あと回しにしてたから。私が元気になっても、その癖だけ残っちゃって」
「葵のせいではない」
「知ってる。でも、私の前ではそう言うくせに、ひなたさんには自分が負担になるって言ったんでしょ」
七年前の雨の日が、胸をよぎる。
あの頃の私は、断られた理由を知らなかった。
湊さんの気持ちも、葵さんの病気も、自分の未来を奪いたくないと彼が考えていたことも。
知った今なら、その選択が優しさだけではなかったとわかる。
「もう言わない」
湊さんが低く答えた。
「言いそうになったら?」
「ひなたに止めてもらう」
「自分でも止まって」
「努力する」
あまりにも真面目な返事に、今度こそ私たちは笑った。
張りつめていたものがほどけ、運ばれてきた料理の湯気が三人の間に広がる。
食事が始まると、葵さんは遠慮なく質問した。休日の過ごし方。家事の分担。食事の好み。結婚しても仕事を続けるのか。
最後の問いに私が頷くと、湊さんが先に答えた。
「ひなたが仕事を諦める前提にはしない」
「合格」
「審査だったのか」
「家族面談です」
やっぱり面談だった。
しかも人事より厳しい。
「でも、まだ決めていないことのほうが多いんです」
私は正直に言った。
「住む場所も、時期も、名字のことも。今日から話し始めるつもりで」
「それでいいと思います」
葵さんは即座に言った。
「兄は答えを出してから人に話す癖があるけど、家族って、たぶん答えが出る前から一緒に考える人だから」
その言葉が、ゆっくり胸の中へ沈んでいく。
家族。
父と食卓を囲んだときとは違う響きだった。これまでの家族だけではなく、これから作るかもしれない家族。
私はまだ、その言葉に自分を重ねると緊張する。
けれど、怖いからと明るく笑って遠ざけたくはなかった。
「葵さんにも、考える途中から話していいですか」
「もちろん」
「迷惑ではありませんか」
「そういう確認をするところ、二人とも似てますね」
隣で湊さんが黙った。
否定できないらしい。
食事を終えて店を出ると、細かな雨が降り始めていた。
湊さんが鞄から紺色の傘を取り出す。
葵さんは自分の折り畳み傘を開きかけて、ふと手を止めた。
「ひなたさん」
「はい」
「今度の日曜、空いてますか」
「日曜ですか?」
「葵、急に予定を決めるな」
「今日いきなり呼び出した人が言わないで」
正論だった。
葵さんは折り畳み傘を開き、雨の向こうからまっすぐ私に告げた。
「結婚を考えているなら、今度は兄と一緒に、両親のお墓へ来てください」
(第109話へ続く)




