名前を告げる場所
日曜日の朝は、昨夜までの雨が嘘のように晴れていた。
駅前で待っていた葵さんは、私と湊さんを見比べるなり、開口一番に言った。
「兄、顔が固い」
「いつもだ」
「今日はいつもの三割増し」
私には判別できない三割だった。
でも、湊さんがさっきから腕時計を二度確認し、必要もないのに鞄の持ち手を直していることには気づいていた。
緊張しているのだ。
ご両親のお墓へ、結婚を考えている相手を連れていく。その意味を、たぶん私より重く受け止めている。
そう考えたら、私の緊張も三割ほど増した。
「ひなたさんまで固くならなくて大丈夫ですよ」
葵さんが笑う。
「両親は面接官じゃありませんから」
「先日は面談続きだったので、つい」
「墓前で志望動機を聞かれても答えるな」
湊さんが真顔で言った。
「聞こえたら答えますよ。御子息との将来を希望しております、って」
反射的に返してから、自分の言葉に耳が熱くなった。
御子息との将来。
なんて威力のある日本語だろう。
葵さんは楽しそうに笑い、湊さんは一瞬黙ったあと、私の歩幅に合わせて歩き始めた。
墓地へ向かう途中、三人で花を買った。白を中心にした小さな束を二つ。湊さんが会計をしようとすると、葵さんが止めた。
「今日は三人で出しましょう」
私も財布を出して頷く。
「私もいいんですか」
「だから三人です」
その一言が、くすぐったいほど嬉しかった。
まだ家族ではない。けれど、家族になるかもしれない人として、私はここにいる。
墓地は駅から少し歩いた高台にあった。雨上がりの石畳には薄い光が反射し、風が濡れた土と草の匂いを運んでくる。
湊さんは迷わず歩いていた。
何度も一人で、あるいは葵さんと二人で通った道なのだろう。その背中を見ながら、私は七年前の彼を思った。
両親を亡くし、病気の妹を支え、働きながら、誰にも余白がないと言えなかった人。
私の告白を断った人。
そして今、私と未来を話そうとしている人。
「ここです」
葵さんの声で足を止めた。
二人は慣れた手つきで水を汲み、墓石を清め始めた。私も手伝おうとしたけれど、どこまで踏み込んでいいのかわからず、一瞬動けなかった。
その迷いを見た湊さんが、濡らした布を私に差し出す。
「上のほうを頼めるか」
「はい」
許可ではなく、役割をくれた。
それだけで肩の力が抜けた。
三人で墓石を拭き、花を供え、線香に火をつけた。細い煙が、風の中へほどけていく。
葵さんが先に手を合わせた。
湊さんも目を閉じる。
私は二人の少し後ろで手を合わせたものの、何を言えばいいのかわからなかった。
初めまして。
結城ひなたと申します。
湊さんの部下で、恋人で、十二歳年下です。
情報だけ並べると、やっぱり面接みたいになってしまう。
もっと大切なことを伝えたいのに、言葉がまとまらない。
私は、あなたたちの息子さんを好きです。
冷たく見えて、本当は誰より不器用に人を守ろうとするところも。一人で決めて、一人で背負って、ときどき大事な人まで置き去りにしそうになるところも。
全部を理解したなんて言えない。
これから意見がぶつかることも、傷つくこともあると思う。
それでも、隣にいたいです。
彼に守られるだけではなく、彼が一人で背負おうとしたときに、違うと言える人でいたいです。
心の中でそこまで告げて、私は目を開けた。
隣にいた湊さんは、まだ手を合わせていた。
長い沈黙だった。
やがて彼が目を開けると、葵さんが小さく息を吐いた。
「兄がこんなに長く報告するの、初めてかも」
「数えていたのか」
「だいたい。いつもは近況を三行くらいで終わらせるから」
「業務報告ではない」
「内容が業務報告なの。異動した、葵は元気だ、また来る、で終わり」
想像できすぎて、笑っていいのか迷う。
「今日は、何を報告したんですか」
つい聞いてから、立ち入りすぎたかもしれないと思った。
けれど湊さんは目を逸らさなかった。
「君のことだ」
風が吹き、線香の煙が私たちの間を横切った。
「それは……何行くらいで?」
「長い」
「そこを具体的に」
「言わない」
氷の部長は、墓前でも機密管理が厳しい。
けれど耳がわずかに赤い。見つけてしまった私は、追及する代わりにもう一度墓前へ頭を下げた。
帰る前に、葵さんは墓石を見つめたまま言った。
「私が入院していた頃、兄はここでも謝ってばかりだったんです」
湊さんの表情が固まる。
「葵」
「これくらいは話していいでしょ」
葵さんの声は明るかったけれど、その奥には静かな痛みがあった。
「もっと早く病気に気づけなくてごめん。仕事でそばにいられなくてごめん。治療を代われなくてごめん。自分だけ元気でごめん、って」
胸の奥が締めつけられた。
謝る必要のないことまで、自分の責任にしてしまう。
それは七年前だけの話ではない。つい最近も彼は、私を守るためだと言って、自分だけ異動しようとした。
「でも今日は、謝らなかった」
葵さんが続けた。
「そうだよね、お兄ちゃん」
湊さんはすぐには答えなかった。
濡れた石に落ちる木漏れ日を見つめ、それから低い声で言った。
「ああ」
「何も?」
「一つも」
短い答えだった。
それなのに、泣きそうになった。
過去が消えたわけではない。七年前の彼が背負った痛みも、私が傷ついた事実も、なかったことにはならない。
でも彼は今日、幸せになろうとすることを誰かに謝らなかった。
それはたぶん、私が思う以上に大きな前進だった。
「ひなたさん」
葵さんが私に向き直る。
「兄がまた勝手に責任を背負ったら、止めてください」
「はい」
「葵、お前は——」
「もちろん、ひなたさんが一人で我慢しそうになったら、兄が止めるの」
私は言い返しかけて、口を閉じた。
否定できない。私は私で、傷つく前に明るく笑って引く癖がある。
「……善処します」
「そこは約束してください」
「約束します」
「俺にも言ったな」
「聞いていたんですか」
「隣にいる」
当たり前のように返されて、胸が熱くなる。
隣にいる。
それは距離の話ではないのだろう。
墓地を出ると、分かれ道で葵さんが足を止めた。
「私、寄るところがあるので、ここで」
「送る」
「反対方向でしょ。二人で帰って」
兄の申し出を一秒で退け、葵さんは私に手を振った。
「また、考える途中から話してくださいね」
「はい。ありがとうございます」
遠ざかる背中を見送ってから、私たちは駅へ歩き始めた。
午前の光は明るく、傘の出番はない。それでも湊さんの鞄には、あの紺色の傘が入っている。
「今日は、連れてきてくださってありがとうございました」
「俺が誘ったわけではない」
「でも、一緒に来てくれました」
「当然だ」
少し先で、雨水の残った石畳が光っていた。
足を取られないよう避けようとした瞬間、湊さんの手が私の手首に触れた。
すぐに離れると思った手は、そのまま下りて、私の指を包んだ。
会社ではつなげない手。
家族の前ではまだ少し照れる手。
今は誰もいない坂道で、彼の体温がまっすぐ伝わってくる。
「墓前で、君のことを報告したと言いましたよね」
「ああ」
「本当は、何を話したんですか」
湊さんは歩みを止めた。
つながれた手に、わずかに力がこもる。
「七年前、守るという言葉を言い訳にして、君から逃げたこと」
私は黙って彼を見上げた。
「今も同じ過ちをしかけたこと。それを君に止められたこと」
風が、彼の前髪を揺らす。
「もう、君の未来を勝手に決めないこと」
ひとつずつ、静かな声で告げられる。
「それから?」
私が尋ねると、彼は一瞬だけ目を伏せた。
動揺したときの癖。
けれど今度は沈黙の中へ逃げず、もう一度私を見た。
「次に来るときは、君を恋人としてではなく、妻として紹介したいと伝えた」
心臓が、大きく鳴った。
湊さんは私の手を離さないまま、はっきりと言った。
「ひなた。俺と結婚してください」
(第110話へ続く)




