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十二歳上の初恋の人が、転職先の鬼上司でした ~もう一度、好きになってもいいですか?~  作者: ろくさんだ


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109/110

名前を告げる場所

 日曜日の朝は、昨夜までの雨が嘘のように晴れていた。


 駅前で待っていた葵さんは、私と湊さんを見比べるなり、開口一番に言った。


「兄、顔が固い」


「いつもだ」


「今日はいつもの三割増し」


 私には判別できない三割だった。


 でも、湊さんがさっきから腕時計を二度確認し、必要もないのに鞄の持ち手を直していることには気づいていた。


 緊張しているのだ。


 ご両親のお墓へ、結婚を考えている相手を連れていく。その意味を、たぶん私より重く受け止めている。


 そう考えたら、私の緊張も三割ほど増した。


「ひなたさんまで固くならなくて大丈夫ですよ」


 葵さんが笑う。


「両親は面接官じゃありませんから」


「先日は面談続きだったので、つい」


「墓前で志望動機を聞かれても答えるな」


 湊さんが真顔で言った。


「聞こえたら答えますよ。御子息との将来を希望しております、って」


 反射的に返してから、自分の言葉に耳が熱くなった。


 御子息との将来。


 なんて威力のある日本語だろう。


 葵さんは楽しそうに笑い、湊さんは一瞬黙ったあと、私の歩幅に合わせて歩き始めた。


 墓地へ向かう途中、三人で花を買った。白を中心にした小さな束を二つ。湊さんが会計をしようとすると、葵さんが止めた。


「今日は三人で出しましょう」


 私も財布を出して頷く。


「私もいいんですか」


「だから三人です」


 その一言が、くすぐったいほど嬉しかった。


 まだ家族ではない。けれど、家族になるかもしれない人として、私はここにいる。


 墓地は駅から少し歩いた高台にあった。雨上がりの石畳には薄い光が反射し、風が濡れた土と草の匂いを運んでくる。


 湊さんは迷わず歩いていた。


 何度も一人で、あるいは葵さんと二人で通った道なのだろう。その背中を見ながら、私は七年前の彼を思った。


 両親を亡くし、病気の妹を支え、働きながら、誰にも余白がないと言えなかった人。


 私の告白を断った人。


 そして今、私と未来を話そうとしている人。


「ここです」


 葵さんの声で足を止めた。


 二人は慣れた手つきで水を汲み、墓石を清め始めた。私も手伝おうとしたけれど、どこまで踏み込んでいいのかわからず、一瞬動けなかった。


 その迷いを見た湊さんが、濡らした布を私に差し出す。


「上のほうを頼めるか」


「はい」


 許可ではなく、役割をくれた。


 それだけで肩の力が抜けた。


 三人で墓石を拭き、花を供え、線香に火をつけた。細い煙が、風の中へほどけていく。


 葵さんが先に手を合わせた。


 湊さんも目を閉じる。


 私は二人の少し後ろで手を合わせたものの、何を言えばいいのかわからなかった。


 初めまして。


 結城ひなたと申します。


 湊さんの部下で、恋人で、十二歳年下です。


 情報だけ並べると、やっぱり面接みたいになってしまう。


 もっと大切なことを伝えたいのに、言葉がまとまらない。


 私は、あなたたちの息子さんを好きです。


 冷たく見えて、本当は誰より不器用に人を守ろうとするところも。一人で決めて、一人で背負って、ときどき大事な人まで置き去りにしそうになるところも。


 全部を理解したなんて言えない。


 これから意見がぶつかることも、傷つくこともあると思う。


 それでも、隣にいたいです。


 彼に守られるだけではなく、彼が一人で背負おうとしたときに、違うと言える人でいたいです。


 心の中でそこまで告げて、私は目を開けた。


 隣にいた湊さんは、まだ手を合わせていた。


 長い沈黙だった。


 やがて彼が目を開けると、葵さんが小さく息を吐いた。


「兄がこんなに長く報告するの、初めてかも」


「数えていたのか」


「だいたい。いつもは近況を三行くらいで終わらせるから」


「業務報告ではない」


「内容が業務報告なの。異動した、葵は元気だ、また来る、で終わり」


 想像できすぎて、笑っていいのか迷う。


「今日は、何を報告したんですか」


 つい聞いてから、立ち入りすぎたかもしれないと思った。


 けれど湊さんは目を逸らさなかった。


「君のことだ」


 風が吹き、線香の煙が私たちの間を横切った。


「それは……何行くらいで?」


「長い」


「そこを具体的に」


「言わない」


 氷の部長は、墓前でも機密管理が厳しい。


 けれど耳がわずかに赤い。見つけてしまった私は、追及する代わりにもう一度墓前へ頭を下げた。


 帰る前に、葵さんは墓石を見つめたまま言った。


「私が入院していた頃、兄はここでも謝ってばかりだったんです」


 湊さんの表情が固まる。


「葵」


「これくらいは話していいでしょ」


 葵さんの声は明るかったけれど、その奥には静かな痛みがあった。


「もっと早く病気に気づけなくてごめん。仕事でそばにいられなくてごめん。治療を代われなくてごめん。自分だけ元気でごめん、って」


 胸の奥が締めつけられた。


 謝る必要のないことまで、自分の責任にしてしまう。


 それは七年前だけの話ではない。つい最近も彼は、私を守るためだと言って、自分だけ異動しようとした。


「でも今日は、謝らなかった」


 葵さんが続けた。


「そうだよね、お兄ちゃん」


 湊さんはすぐには答えなかった。


 濡れた石に落ちる木漏れ日を見つめ、それから低い声で言った。


「ああ」


「何も?」


「一つも」


 短い答えだった。


 それなのに、泣きそうになった。


 過去が消えたわけではない。七年前の彼が背負った痛みも、私が傷ついた事実も、なかったことにはならない。


 でも彼は今日、幸せになろうとすることを誰かに謝らなかった。


 それはたぶん、私が思う以上に大きな前進だった。


「ひなたさん」


 葵さんが私に向き直る。


「兄がまた勝手に責任を背負ったら、止めてください」


「はい」


「葵、お前は——」


「もちろん、ひなたさんが一人で我慢しそうになったら、兄が止めるの」


 私は言い返しかけて、口を閉じた。


 否定できない。私は私で、傷つく前に明るく笑って引く癖がある。


「……善処します」


「そこは約束してください」


「約束します」


「俺にも言ったな」


「聞いていたんですか」


「隣にいる」


 当たり前のように返されて、胸が熱くなる。


 隣にいる。


 それは距離の話ではないのだろう。


 墓地を出ると、分かれ道で葵さんが足を止めた。


「私、寄るところがあるので、ここで」


「送る」


「反対方向でしょ。二人で帰って」


 兄の申し出を一秒で退け、葵さんは私に手を振った。


「また、考える途中から話してくださいね」


「はい。ありがとうございます」


 遠ざかる背中を見送ってから、私たちは駅へ歩き始めた。


 午前の光は明るく、傘の出番はない。それでも湊さんの鞄には、あの紺色の傘が入っている。


「今日は、連れてきてくださってありがとうございました」


「俺が誘ったわけではない」


「でも、一緒に来てくれました」


「当然だ」


 少し先で、雨水の残った石畳が光っていた。


 足を取られないよう避けようとした瞬間、湊さんの手が私の手首に触れた。


 すぐに離れると思った手は、そのまま下りて、私の指を包んだ。


 会社ではつなげない手。


 家族の前ではまだ少し照れる手。


 今は誰もいない坂道で、彼の体温がまっすぐ伝わってくる。


「墓前で、君のことを報告したと言いましたよね」


「ああ」


「本当は、何を話したんですか」


 湊さんは歩みを止めた。


 つながれた手に、わずかに力がこもる。


「七年前、守るという言葉を言い訳にして、君から逃げたこと」


 私は黙って彼を見上げた。


「今も同じ過ちをしかけたこと。それを君に止められたこと」


 風が、彼の前髪を揺らす。


「もう、君の未来を勝手に決めないこと」


 ひとつずつ、静かな声で告げられる。


「それから?」


 私が尋ねると、彼は一瞬だけ目を伏せた。


 動揺したときの癖。


 けれど今度は沈黙の中へ逃げず、もう一度私を見た。


「次に来るときは、君を恋人としてではなく、妻として紹介したいと伝えた」


 心臓が、大きく鳴った。


 湊さんは私の手を離さないまま、はっきりと言った。


「ひなた。俺と結婚してください」


(第110話へ続く)

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