もう一度の、その先へ
返事は、決まっていた。
それなのに、声が出るまでに一秒かかった。
七年前の私なら、この一秒で笑ってごまかしていたと思う。「冗談ですよね」と明るく言って、傷つく前に自分から退いていた。気持ちは重荷になる。そう信じていたから。
でも今、私の手は彼の手の中にある。
少し乾いた、大きな手。指先が冷たいのは、坂道の風のせいだけではないと知っている。この人も、緊張しているのだ。
逃げる場所なんて、最初から探していない。
「はい」
自分でも驚くほど、まっすぐな声だった。
「結婚します。湊さんと」
湊さんの目が、わずかに見開かれる。
それから彼は、一度だけ目を伏せた。動揺したときの癖。けれど、その口元はほんの少しゆるんでいた。
「……早いな」
「七年、待ちました」
「俺も、待たせた」
「もう数えません」
私はつながれた手に力を込めた。
「七年前の私は、気持ちを渡すことが人の重荷になると思っていました。だから今度は、ちゃんと言います。私の気持ちは、湊さんの人生に置いてもらっていいものです。そして、湊さんの気持ちも、私が持ちます」
言い終えると、耳が熱くなった。きっと真っ赤だ。午前の風が頬を撫でていくのに、顔の熱だけが引かない。
湊さんは何も言わずに、私の手を見つめた。
「余白がない、と昔言ったな」
「言いました。誰かの人生を背負う余白がないって」
「あれは間違いだった」
彼は坂の上の空を仰いだ。晴れた空の端に、薄い雲が流れている。
「余白は、空いたところに人を入れるものじゃない。二人で作るものだった」
私は頷くことしかできなかった。
喉の奥が熱くて、言葉にすると泣いてしまいそうだったから。
坂道を下り、駅が見えてくる。彼の鞄には紺色の傘。私の鞄にも、同じ紺色の傘。七年間、私が返せなかったもの。七年間、彼が捨てられなかったもの。同じ傘が二本、並んで揺れながら坂を下りていく。
「名字のことは、まだ決めていませんよ」
「ああ」
「住む場所も、時期も」
「考える途中から話す。葵の言葉だ」
「今日は返事だけ、ですね」
「返事だけで、十分だ」
ホームに立つと、風が私の髪を揺らした。
答えを出してから人に話す癖のある人と、答えを出す前に逃げていた私。その二人が、答えの途中を一緒に歩くと決めた。それだけのことが、こんなにも心強い。
電車が来るまでの数分、私たちは何も話さなかった。でも、その沈黙はもう、埋めなければならない空白ではなかった。
*
月が替わって一日の朝、八時半。
企画部のフロアの奥、部長席に、久しぶりに湊さんの背中があった。
試行運用の初日。湊さんが企画部長として戻る日。
「承認印、お返しします」
三上さんが小さな箱を部長席の机に置いた。
「助かった」
「あなたの席を温めるのは、思ったより骨が折れました。二度目はごめんです」
「二度目はない」
「その言葉、記録しておきます」
三上さんは私に目配せをして、自分の席へ戻っていった。戦友の距離。それはもう、誰にも誤解しようがないものになっていた。
湊さんはフロアの隅のコーヒーメーカーの前に立ち、ゆっくりと豆を量った。
淹れ直すのは動揺したときの癖。でも今朝は、動揺ではないと思う。ただ、この席に戻ってきたことを確かめるように、丁寧に湯を注いでいる。苦い香りが、何か月ぶりかでフロアの空気に混じった。この匂いがしない朝が、こんなに長く続いていたことに、今さら気づく。
「結城さん」
「はい」
「午後の桐谷企画の定例。三上さんから、君が出ると聞いた」
「私が、ですか」
「担当者だからだろう」
当たり前の顔で言われて、私は背筋を伸ばした。特別扱いではない。信頼だ。その違いを、この人はいつも言葉にしない。だから私が、ちゃんと受け取る。
桐谷企画は無事に走り出している。美桜さんから届いたメッセージは短かった。「あなたが担当でよかった。次も、結城さんに」。文末に、招待状は必ず送ってください、とだけ添えてあった。強敵だった人が、いちばん早く祝ってくれるなんて、あの頃の私には想像もできなかった。
白石さんの処分は、懲戒審査を経て正式に決まった。社内通知は数行で、私はそれを一度だけ読んで閉じた。もう、あの人の書いた文章に自分の名前を探さなくていい。それで十分だった。
自分の席に戻ると、あかねが待ち構えていた。
「で? 左手はまだ何もないの?」
「まだです。考える途中なので」
「途中が長いのよ、あんたたちは」
「だって、決めることが多くて」
「幸せそうな顔で言うな」
あかねは私の肩を叩いて、自分の席に戻った。叩かれた肩が、少しだけ誇らしかった。
少し離れた席で、羽田くんが電話を切り、スマートフォンの画面を見て小さく笑っている。彼が私に向けていたまっすぐな視線は、いつの間にか別の人のところに落ち着いていた。よかった、と心から思える。それも、私が少しは変わった証拠だ。
昼休み、スマートフォンが二度震えた。
一度目は父。
『魚は三切れ用意する。いつ来る』
挨拶も前置きもない文面に、思わず笑った。父はもう、湊さんの年齢の話をしない。代わりに、客間の片づけの進み具合を報告してくる。三切れ、という数字に、父なりの答えが全部入っている気がした。
二度目は葵さん。
『今度は私の話も、途中から聞いてください』
私は、もちろんです、と返した。
家族になるというのは、こういうやり取りが増えていくことなのかもしれない。答えの出ていない話を、出る前から分け合うこと。
*
夕方、窓の外が暗くなり、雨が降り始めた。
再会した日のような蒸れた雨ではなく、冷たく澄んだ雨。ガラスを伝う雫が、フロアの明かりを細く引き延ばしている。
定時を過ぎた頃、湊さんが部長席から立ち上がった。
「結城さん。今日はもう上がるか」
「はい」
周りの目はある。でも、隠すべきものはもうない。
私は鞄を持ち、彼と一緒にエレベーターに乗った。会社を出るまで、私たちは上司と部下の距離を保つ。それが、私たちで決めた線だ。狭い箱の中で、半歩の距離を守ったまま、階数の表示が減っていくのを二人で眺めた。
玄関を出ると、雨がガラスの向こうで音を立てていた。
湊さんが紺色の傘を取り出す。
私も、鞄から紺色の傘を取り出した。
同じ形の傘が二本、並んで開こうとしている。七年前、雨の中で彼から借りた傘と、その翌日、彼が買い直した傘。
「湊さん」
「なんだ」
「これ、返さなくていいんですよね」
相合傘の日と、同じ質問。
彼は少しだけ笑った。
「返さなくていい」
あの日と同じ答え。
でも、あの日とは違う意味で聞こえた。
「じゃあ、今日は一本で帰りませんか」
私が言うと、湊さんは自分の傘をたたんで鞄に戻した。
そして、私の傘を受け取り、大きく開く。
紺色の下に、二人分の肩が収まった。
雨の音が、少し遠くなる。彼の腕が触れる距離。私の左側だけがほんのり温かい。会社ではつなげない手を、雨の下で、彼がそっと取った。冷たい指先が、歩くうちに同じ温度になっていく。
七年前、この傘の下で私は一人だった。返せない気持ちを抱えて、返せない傘を持ち帰った。
今は、二人でいる。
傘は返さない。気持ちも返さない。
もう一度、好きになってもいいですか。
あの秋の日、私はそう尋ねた。
今なら、尋ねなくても知っている。もう一度なんて数えなくていい。何度でも、この人を好きになる。明日も、五年後も、十年後も。
雨の街を、私たちは同じ速さで歩いた。
(完)




