信じるための保留
相沢さん。
名前が告げられた瞬間、記録の中にあった小さな機器が、急に知っている人の顔を持った。
低い位置で結んだ髪。数字の根拠が甘いと、穏やかな声で容赦なく指摘する人。羽田くんに向けるときだけ、ほんの少し柔らかくなる横顔。
頭の中に浮かぶものは、証拠ではない。
わかっているのに、胸の奥がざわついた。
「相沢さんが、匿名メールを送ったということですか」
羽田くんの声が硬い。
「まだ違います」
情報システム部の担当者が、すぐに否定した。
「わかったのは、同じ識別番号のUSBメモリが相沢さんの業務用パソコンにも接続されていた、という事実だけです。所有者と、問題の操作をした人物が同じとは限りません」
私のアカウントを使った人が、私ではなかったように。
その説明に安心しかけて、私は自分を止めた。
相沢さんだけは違うと思いたい。それもまた、事実より先に答えを決めることだ。
「本人を呼びます」
三上さんが席を立つ。
「僕も残っていいですか」
羽田くんが言った。
「あなたの聴取は終わりよ」
「でも、USBを使ったところを見たのは僕です」
「だから、先に証言してもらったの。相沢さんには、あなたの反応を気にせず答えてもらう」
羽田くんの唇が引き結ばれる。
かばいたいのだと思う。疑われている席へ、一人で座らせたくないのだ。
その気持ちは、痛いほどわかった。
少し前の湊さんも、きっと同じだった。私の代わりに傷を引き受け、私が答える前に線を引こうとした。
でも昨日、彼は私の言葉を奪わなかった。
「羽田くん」
私が呼ぶと、彼はこちらを見た。
「相沢さんにも、自分で話してもらおう」
「結城先輩は、怖くないんですか」
「怖いよ」
即答すると、声が少し震えた。
「だから、今は私たちの怖さで相沢さんの答えを変えさせたくない」
羽田くんは何か言いかけて、やめた。
退室するとき、振り返らなかった。けれど扉を閉める手は、ひどくゆっくりだった。
*
十分後、相沢さんが入ってきた。
いつものように髪を低い位置で結んでいる。けれど、頬からはきれいに色が消えていた。
「失礼します」
私と湊さんを見ても、何も尋ねなかった。三上さんに示された席へ座り、膝の上で両手を重ねる。
情報システム部の担当者が、識別番号を画面に表示した。
「このUSBメモリに心当たりはありますか」
「あります。私のものです」
迷いのない返事だった。
胸の奥が、ひやりと冷える。
「会社の貸出品ではありませんね」
「はい。自分で購入しました。申告せずに業務資料を入れたことは、私の手続き違反です」
「三週間前、あなたの業務用パソコンへ接続されています」
「共同企画の修正資料を移しました」
「匿名メールの送信日にも、第一会議室の端末へ接続されています」
「羽田さんと資料を確認したときです」
「メールを送信したのは、その日の朝です。あなたが端末を使ったのは午後五時四十六分。送信時刻とは一致しません」
その一言で、止めていた息がわずかに漏れた。
相沢さんは、匿名メールが送られたあとにUSBを使った。
それだけなら、送信者とは結びつかない。
「二日後の午後六時十三分、同じUSBメモリが再び第一会議室の端末へ接続されています。結城さんのアカウントで印刷が実行される一分前です」
「その時間、私は第一会議室にいません」
「証明できますか」
「営業企画部の打ち合わせに出ていました。議事録と入退室記録が残っているはずです」
三上さんが担当者を見る。すぐに別の画面が開かれた。
「確認できました。相沢さんは午後五時五十八分から六時四十二分まで、十一階の会議区画に入っています」
相沢さんの肩が、ほんの少し下がった。
けれど、疑問は残る。
「では、USBメモリは誰が持っていたんですか」
私が尋ねると、相沢さんの指が膝の上で動いた。
「最初に第一会議室で使ったあと、置き忘れました」
「置き忘れた?」
「羽田さんが出たあと、一人で修正箇所を確認しました。翌朝、自分の鞄にないことに気づいて」
相沢さんは一度唇を湿らせた。
「探しに戻る前に、社内チャットが届きました。第一会議室の端末に挿したままだったから預かっている、と」
「誰からですか」
相沢さんは、今度はすぐに答えなかった。
短い沈黙が、やけに長く感じられる。
「白石部長代理です」
胸の奥で、何かが重く沈んだ。
「返却されたのは?」
「三日後の朝です。中の資料が開けることは確認しました。でも、ほかに何か保存されていたかまでは見ていません」
情報システム部の担当者が、相沢さんの社内チャット履歴を確認する。ほどなく、画面に二つの吹き出しが表示された。
『第一会議室の端末に残っていました。こちらで預かります』
『ありがとうございます。明日受け取りに伺います』
その下には、白石部長代理からの返信があった。
『確認事項があります。返却まで数日待ってください』
印刷が実行されたのは、その「数日」の中だった。
手のひらが冷たくなる。
相沢さんが私を見た。
「私は、匿名メールを送っていません。結城さんのアカウントも使っていません」
まっすぐな声だった。
信じたい。
そう言えば、この場は少しだけ楽になる。相沢さんも、廊下で待っている羽田くんも安心するだろう。
でも、私は自分を安心させるために、誰かを無実とも犯人とも決めたくなかった。
「今は、信じるとは言えません」
声にすると、胸が痛んだ。
相沢さんの顔が強張る。
「でも、疑っているとも言いません」
私は冷えた指を、膝の上でゆっくり開いた。
「あなたが話してくれたことも、残っている記録も、同じように調べてもらいます。好意があるから正しいことにもしないし、履歴があるから嘘だとも決めません」
相沢さんはしばらく私を見ていた。
「そのほうが、助かります」
小さいけれど、はっきりした返事だった。
*
聴取を終えた相沢さんが退室すると、入れ替わるように羽田くんが扉の外から立ち上がった。
何も聞かなかった。ただ、相沢さんの隣に並び、そのまま一緒に廊下を歩いていく。
答えを急がず隣にいることも、たぶん支えるということなのだ。
私たちも会議室を出た。
廊下の窓には細い雨粒が当たり始めていた。さっきまで明るかった空が、いつの間にか灰色に沈んでいる。
「結城」
湊さんが私を呼ぶ。
振り向くと、彼は触れない距離で立っていた。
「強くなったな」
「強くはないです。相沢さんの顔を見たら、全部信じたくなりました」
「それでも待った」
「怖いまま、保留にしただけです」
「それを強いと言う」
低い声が、冷えた胸の奥へ届く。
褒められたことより、彼が私の判断を見ていてくれたことが嬉しかった。
私が手を伸ばさなくても守られる関係ではなく、自分で立ったあとに、隣へ来てくれる関係。
まだ元どおりではない。それでも私たちは、少しずつ同じ側へ戻ろうとしている。
三上さんが追加の書類を持って追いついてきた。
「白石部長代理への聴取を、役員同席で行うことになったわ。二人は被害を受けた当事者として、同席を希望できる」
書類の下には、同席者の署名欄があった。
湊さんが私を見る。
「一人で行くか」
決めるのは私だと、その目が待っている。
「いいえ」
私はペンを取った。
「一緒に来てください」
「ああ」
短い答えを聞いてから、署名欄へ自分の名前を書く。
誰かに使われた名前を、今度は私自身の意思で記した。
(第99話へ続く)




