持ち主のいない記録
見つかったのは、道具の足跡だ。
まだ、人の名前ではない。
「同じ識別番号でも、同じ人物が使ったとは限らないわ」
三上さんはそう言って、私たちの表情を順に見た。
「誰かから借りた可能性も、置き忘れたものを別の人間が使った可能性もある。結城さん、勝手に心当たりを聞いて回らないで」
「はい」
先回りされた。
べつに今すぐ企画部全員を壁際に並べて、USBメモリを持っていますかと尋問するつもりはなかった。なかったけれど、ほんの少しだけ、誰が持っていたか思い出そうとはしていた。
それも立派な独自捜査らしい。
「情報システム部が接続履歴を照合している。会社が管理する機器なら登録先がわかるし、私物でも過去に社内端末へ接続されていれば記録が残っている可能性がある」
「結果はいつ出ますか」
「早ければ明日。それまでは通常どおり勤務して」
通常どおり。
機密資料へのアクセスを止められ、私の名前で誰かが社内メールを開いた状態を、通常と呼んでいいものかは議論の余地がある。
それでも、帰宅を命じられなかっただけありがたかった。
湊さんが隣で口を開く。
「結城への説明は、調査結果と同時に行ってください」
「そのつもりよ」
「結果だけではなく、判断の根拠も」
三上さんが片方の眉を上げた。
「今のあなたは、企画部の日常的な指揮命令から外れているはずだけど」
「ああ。だから上司としてではなく、聴取対象者として要求している」
声音は冷静だった。いつもの氷の部長の声だ。
けれど、彼が守ろうとしているのは私ではなく、手続きだった。
私だけを特別扱いして調査を歪めるのでも、自分が代わりに責任をかぶるのでもない。私が事実を知り、自分で答えられる場所を残そうとしている。
それがわかると、胸の奥が小さく熱を持った。
「結城さんも、それでいい?」
「はい。私からもお願いします」
湊さんの後ろに隠れず、自分の声で言った。
彼は私を見なかった。ただ、肩からわずかに力が抜けた。
翌朝、企画部の自席に着くと、最初にあかねが無言で紙の束を差し出してきた。
「これ、今日お願いできる作業。機密区分に引っかからないものだけ抜いた」
「ありがとう」
「お礼禁止。三上さんの指示だから」
「昨日から、みんなそれ言うね」
「じゃあ私からは追加で、勝手に犯人の気持ちを想像するの禁止」
椅子へ座る前に、二つ目の禁止事項を課された。
「まだ何も言ってないけど」
「ひなた、顔に出るから。『何か事情があったのかも』って、もう半分くらい考えてるでしょ」
図星だった。
誰かが私のアカウントを使った。それは怖いし、許せない。
なのに相手が同じ職場の誰かかもしれないと思った途端、私は理由を探そうとしていた。追い詰められていたのかもしれない。誰かに命じられたのかもしれない。ほんの出来心だったのかもしれない。
そうやって事情を並べれば、自分が傷ついたことを小さくできる気がする。
七年前から変わらない、私の悪い癖だ。
「事情があることと、ひなたの名前を使っていいことは別だからね」
「あかねって、ときどき私の頭の中に入ってる?」
「入らなくてもわかる。付き合い長いもの」
あかねは私の机を指先で軽く叩いた。
「今は仕事。考えるのは、事実が来てから」
「はい」
返事をした直後、社内チャットに三上さんから通知が届いた。
午前十時、追加確認。
第一会議室ではなく、十二階の小会議室が指定されている。
九階という数字を見るだけで胸が詰まるようになっていたから、少しだけ息をつけた。会議室に罪はない。端末にも罪はない。わかっているのに、感情というものは備品管理規程ほど整然とはしてくれない。
午前十時、部屋に入ると、三上さんと情報システム部の担当者が待っていた。少し離れた席には湊さんもいる。
彼の姿を見つけた瞬間、安心した。
その安心に寄りかかりそうになって、私は自分で椅子を引いた。
「羽田にも、同席してもらうわ」
三上さんの言葉に、心臓が一度強く鳴った。
すぐに扉が開き、羽田くんが入ってくる。いつもの素直な顔から、今日はきれいに色が消えていた。
「失礼します」
彼は私を見ると、何か言いかけた。けれど、三上さんに促されるまで黙って席に着いた。
情報システム部の担当者が画面に記録を表示する。
「同一の外部記憶媒体が、匿名メール送信日の共用端末と、二日後の印刷時に第一会議室の端末へ接続されています。羽田さんは、送信日に共用端末を利用したと証言していますね」
「はい。相沢さんと資料を確認しました」
「外部記憶媒体を接続しましたか」
羽田くんの喉が動いた。
「僕は、接続していません」
短い沈黙が落ちる。
「では、接続したところを見ましたか」
「……はい」
膝の上で、彼の手が強く組まれる。
「相沢さんが持ってきた資料がUSBメモリに入っていました。共用端末で開いて、一緒に確認しました」
「その後、取り外したところは?」
「見ていません。僕は修正前の紙資料を取りに、先に会議室を出たので」
羽田くんは一度息を吸い、私へ顔を向けた。
「前の聴取では、そこまで重要だと思わなかったんです。共用端末を使った人を聞かれたから、自分と相沢さんの名前は答えました。でも、USBのことは聞かれなくて」
「羽田くん」
「すみません」
反射的に、大丈夫、と言いそうになった。
羽田くんは知らなかった。責められない。私だって同じ立場なら、端末へ挿された小さな機器のことまで思い出せたかわからない。
けれど、大丈夫ではない。
私の名前は使われた。仕事を止められ、疑いを向けられた。怖くなかったことにはできない。
「謝らなくていい、とは言えない」
自分の口から出た言葉に、私自身がいちばん驚いた。
羽田くんが目を見開く。
「でも、今話してくれたことはありがたい。私をかばうために話を変えず、見たことだけを記録に残してほしい」
「……はい」
「私も、自分をかばうために誰かを犯人だとは決めないから」
声は少し震えた。
優しくすることと、自分の痛みをなかったことにするのは違う。
その境目に立つのは、思っていたより怖い。逃げずに立っているだけで、足元が細くなるようだった。
机の下で握った指を、そっと開く。
そのとき、斜め向かいから低い声が届いた。
「それでいい」
湊さんだった。
たった四文字なのに、開いた指先へ体温が戻る。
彼が私の代わりに答えを出さなかったことが、嬉しかった。私が自分で選んだ言葉を、あとから支えてくれたことが、もっと嬉しかった。
三上さんが情報システム部の担当者へ目を向ける。
「識別番号の照合結果は?」
「会社管理の貸出品ではありません。ただし、過去の接続履歴が一件見つかりました」
画面が切り替わる。
機器の識別番号。その下に、接続日時と端末番号が表示された。
「三週間前、このUSBメモリは社員個人に貸与された業務用パソコンへ接続されています」
私の心臓が、嫌な音を立てた。
三上さんが尋ねる。
「そのパソコンの使用者は?」
担当者は記録から目を上げず、はっきりと答えた。
「相沢さんです。本日、本人の聴取を行います」
(第98話へ続く)




