同じ端末を渡ったもの
同じ時刻に二つの階にはいられない。
当たり前の事実なのに、それを示す入退室記録が目の前に置かれた瞬間、膝から力が抜けそうになった。
廊下の白い照明も、窓の向こうで朝の光を帯びている空も、さっきまでと同じだ。それなのに、私を取り囲んでいた見えない壁に、細い亀裂が入った気がした。
「では、結城さんが操作した可能性は除外されるんですね」
湊さんの声が、私より先に廊下へ落ちる。
低く抑えられているのに、いつもの業務上の確認よりわずかに速い。その違いに気づいてしまう自分が、こんなときまで彼のことを見ているようで困る。
三上さんはすぐには頷かなかった。
「印刷時刻に第一会議室にいなかったことは証明できる。ただし、アカウントが使われた経緯は別よ」
喜ぶには早い。
わかっていたはずなのに、胸の奥に浮かびかけた安堵が、行き場を失ってしぼんだ。
潔白かもしれない、という希望と、まだ疑いは消えていない、という現実。両方を同時に抱えるには、私の心は少し狭すぎる。
「情報システム部が、認証履歴を詳しく確認したいそうよ。結城さん、もう一度いい?」
「はい」
返事をしてから、手の中の缶コーヒーを握り直す。
まだ温かい。
掌に触れる丸い缶の熱は、湊さんから受け取ったときより少し弱くなっていた。それでも、指先の震えを隠すには十分だった。
その温度にすがりたくなる自分が、少し悔しかった。
会議室へ戻ろうとすると、湊さんも一歩動いた。けれど三上さんが静かに手を上げる。
「霧島部長は同席できません。今回は結城さんの個人アカウントに関する確認です」
「ああ」
短く答えた湊さんの眉間に、薄く皺が寄る。
それは部下を案じる上司の顔だ。そう言い聞かせても、私にはもう、それだけには見えなかった。
以前の私なら、その顔を見ただけで言っていたかもしれない。
大丈夫です。心配しないでください。私一人で平気です。
先回りして笑って、相手を安心させるふりをして、自分の怖さまでなかったことにする。
でも今は、平気ではない。
「終わったら、話します」
私がそう言うと、湊さんは一瞬黙った。
視線が重なる。ほんの一秒なのに、言葉より多くのものを渡された気がした。待っている。逃げない。だから戻ってこい。そんな都合のいい意味まで読み取るのは、さすがに期待しすぎだろうか。
「わかった」
「それまで、勝手に最悪の結論を出さないでくださいね」
ほんの少しだけ強く言う。
彼は叱られたような顔をしたあと、低く答えた。
「努力する」
努力なんだ。
心の中でつっこめたことで、ようやく息が通った。
会議室では、情報システム部の担当者が端末を開いて待っていた。画面には時刻と英数字が何列も並んでいる。私にはほとんど暗号だけれど、その中に自分の社員番号があることだけはわかった。
空調の音が妙に大きい。椅子を引く音まで、尋問の開始を告げる合図のように聞こえた。もちろん、彼らは事実を確認しているだけだ。怖がる相手を間違えてはいけない。
「まず、当日の行動を確認します。結城さんは午後五時三十二分から、第一会議室の共用端末を使用していますね」
「はい。三上さんへ提出する企画資料の修正確認です」
「社内メールも開きましたか」
記憶をたどる。
あの日は、修正版を送った時刻を確かめるために送信済みメールを開いた。添付ファイルの版が正しいか確認して、それから――。
机の上に広げた資料。画面右下の時刻。十二階へ戻らなければと急いた気持ち。記憶はあるのに、肝心な部分だけが白く抜けている。
「開きました」
口の中が乾く。
「端末からログアウトした記憶はありますか」
胸が嫌な音を立てた。
画面を閉じた。資料を片づけた。急いで十二階へ上がった。
ログアウトの表示を、私は見ただろうか。
「……したと思います」
自信のない言葉は、ひどく頼りなく聞こえた。
「思います、では記録になりませんね。すみません。はっきり覚えていません」
もしかして、私が残した画面を誰かに使われたのだろうか。
だったらこれは、私の不注意だ。
匿名メールも、社外流出も、湊さんの審査も。全部のきっかけに、自分が手を貸したことになる。
胃の奥が縮む。謝らなくては、という言葉が反射のように喉元までせり上がってきた。まだ何も決まっていないのに、私はもう頭の中で謝罪文を作り始めていた。
「私がログアウトし忘れたせいなら――」
「結城さん」
三上さんが遮った。
「まだ記録を聞いている途中よ。先に自分の責任を作らないで」
厳しい口調だった。
けれど、その言葉はまっすぐ私を支えた。
先に自分を悪者にしておけば、誰かに責められたときの傷は浅くなる。
それも、私の逃げ方だったのかもしれない。
責任を引き受けることと、根拠もなく罪をかぶることは違う。社会人になって何年も経つのに、その区別を私は、自分のことになると簡単に見失う。
「……はい」
情報システム部の担当者が画面を切り替えた。
「午後五時四十九分、この端末から正常にログアウトされています。結城さんが画面上で操作したか、自動処理かは断定できません。ただ、少なくとも印刷時までセッションが残っていたわけではありません」
「では、六時十四分の印刷は」
「その三分前、午後六時十一分に新しい認証記録があります」
背中が冷たくなった。
置き忘れた画面を使われたのではない。
一度閉じた私の名前を、誰かがもう一度開いた。
その事実を理解した瞬間、さっきまで救いに見えていた記録が、別の怖さを連れてきた。偶然やうっかりでは届かない場所に、誰かの手がある。
「パスワードが知られていたということですか」
「パスワード入力か、保存された認証情報の再利用かは解析中です。現時点では断定できません」
「私は誰にも教えていません。付箋に書いたことも、共有したこともありません」
自分でも驚くほど、声ははっきりしていた。
「最近、社内端末以外でアカウントを使いましたか」
「いいえ」
「不審な認証画面を開いた覚えは」
「ありません」
質問に答えるたび、怖さの形が変わっていく。
私の失敗だったらどうしよう、という怖さではない。
誰かが私の名前を選び、私のせいにするために使った。
その意志が、履歴の向こうにある。
怖い。
でも同時に、腹が立った。
私が積み重ねてきた仕事も、湊さんとの関係も、社員番号ひとつに押し込めて汚していいはずがない。
疑われたくないから黙るのではなく、疑いを晴らすために声を上げる。怒りは、私を壊すだけの感情ではなかった。俯きかけた顔を上げる力にもなる。
「調べてください」
私は画面の中の自分の番号を見た。
「私の認証がどう使われたのか。消さずに、全部残してください」
三上さんがわずかに息を止める。
「もちろん、そのつもりよ」
「私から正式に依頼した記録も残してほしいです」
守ってもらうだけではなく、私自身が当事者として求める。
それが今の私にできる、席を立たない方法だった。
確認が終わると、会社指定の手順でパスワードを変更した。機密資料へのアクセス停止は継続。ただし、私が印刷操作をした可能性は低いという追記が、調査記録に入ることになった。
会議室を出ると、湊さんはさっきと同じ窓際にいた。
待っていたのだ。
腕時計を確かめるでも、端末を見るでもなく、こちらへ顔を向ける。その動きがあまりに早くて、扉の開く音をずっと待っていたのだとわかってしまった。
それを認めるだけで胸が熱くなる自分に、今は呆れている場合ではない。
「終わりました」
「ああ」
近づくと、彼の視線が私の顔を確かめるように動いた。大丈夫か、と口にはしない。その代わり、私が話し出すまで急かさずに待っている。そういう不器用さを、私はもう知っている。
「ログアウト後に、もう一度認証されていました」
湊さんの目が鋭くなる。
「故意か」
「まだ断定はできません。でも、私は自分の不注意だったことにして謝るのをやめました」
彼は何も言わず、私を見た。
「調査を待ちます。仕事も続けます。湊さんも、その結果を私から離れる理由に使わないでください」
「使わない」
今度の返事には、間がなかった。
胸の奥に、その二文字がまっすぐ落ちる。疑う余地を与えない短さは、氷の部長らしい。なのに私には、どんな慰めより温かかった。
それだけで疑いが晴れるわけでも、離れていた時間が戻るわけでもない。
けれど彼の答えを、今はそのまま受け取ってみたかった。
三上さんが遅れて会議室から出てくる。その手には、追加の解析結果が印刷されていた。
「二人とも、まだここを離れないで」
紙面を確認する彼女の声は硬い。
「第一会議室の端末には、印刷直前に外部記憶媒体が接続されている」
「外部記憶媒体?」
「USBメモリよ。接続された機器には固有の識別番号が残る」
三上さんは一枚目をめくり、その下の記録を示した。
乾いた紙の擦れる音が、静かな廊下にやけに鋭く響いた。湊さんが半歩だけ私の側へ寄る。肩が触れるほどではない。けれど、その気配がすぐ隣にあるだけで、私は目を逸らさずにいられた。
「同じ識別番号が、匿名メールの送信時にも、第一会議室の同じ共用端末から見つかった」
廊下の空気が、張りつめる。
匿名メールが送られたときと、私の名前で印刷されたとき。
同じ一台の端末で二つの時点を渡ったものが、初めて一つにつながった。
(第97話へ続く)




