私の名前で残った履歴
私の社員アカウントで出力されている。
その言葉だけが、会議室の空気から切り離されたみたいに、何度も頭の中で響いた。
「……私、ですか」
聞き返した声は、自分でも驚くほど平らだった。
湊さんは通話を切らず、三上さんに確認する。
「出力日時と端末は」
短い沈黙のあと、彼の眉間に深い線が刻まれた。
「わかりました。明朝、本人を同席させてください。俺は――」
そこで言葉が止まる。
自分が今、企画部の日常的な指揮命令から外れていることを思い出したのだろう。
その一瞬の間が、胸に刺さった。
「俺は別に聴取を受けます」
湊さんはそう言い直し、通話を終えた。
テーブルの上に沈黙が落ちる。
「私、あの画像を印刷した覚えはありません」
「わかっている」
返事があまりに早くて、息が詰まった。
「まだ、何も確認していません」
「君がやっていないと言った。それは信じる」
胸の奥が熱くなる。
嬉しい、と思ってしまった。こんな状況で。自分の名前が流出の証拠に残っているのに、好きな人に信じてもらえたことを喜ぶなんて、危機感の置き場所がおかしい。
でも、七年前も、再会してからも、私は彼の言葉のない部分を勝手に怖がってきた。
だからこそ、今の短い言葉は、痛いほど嬉しかった。
「ただし、俺が信じることと、会社が事実を確認することは別だ」
「はい」
「明日は覚えていることだけを話せ。推測で誰かを庇うな。自分も疑うな」
氷の部長らしい指示だった。
なのに最後の一言だけが、上司の声ではなかった。
「ひなた。今夜、一人で結論を出すな」
その言葉に、さっき私が彼へ突きつけたものが返ってきた気がした。
「湊さんもです」
彼が黙る。
「この件を理由に、配置転換が必要だと決めないでください。私を守るために離れたほうがいい、とかも禁止です」
「まだ何も言っていない」
「言う前に止めています」
ほんの少しだけ、湊さんの目元から険しさが抜けた。
それは笑顔には遠かったけれど、三日前から閉ざされていた扉に、指一本ぶんの隙間ができたように見えた。
翌朝、私は情報システム部の会議室にいた。
机の上には、問題の画像を拡大した印刷物と、出力履歴をまとめた資料が並んでいる。隣には三上さん。湊さんの席はなかった。
関係者を分けて聴取するためだと説明された。正しい。正しいけれど、廊下の向こうにいるはずの人との距離が、今日はやけに厚い壁に感じられる。
「この画像は、社内メールの画面を直接撮影したものではありません」
三上さんが資料の一部を指で押さえた。
「一度紙に出力し、その紙を撮影したものだと判明しました。端の影と、折り目が残っています」
言われて見れば、画像の右下には薄い灰色の線が走っていた。メール画面なら存在しないはずのものだ。
「印刷データが送られたのは、匿名メール送信日の二日後、午後六時十四分。第一会議室の共用端末からです」
第一会議室。
匿名メールが送信された端末と同じだ。
「共用端末は共通アカウントだったはずですよね」
「端末へのログインはそう。ただ、社内メールを開く際には個人認証が必要になる」
背中が冷えた。
誰でも使える端末で、私の社員アカウントから社内メールを開き、印刷した人がいる。
あるいは――本当に私が開いた。
「その日、第一会議室を使いました」
喉が乾く。それでも、言葉を止めなかった。
「午後四時から、桐谷企画の資料確認で。会議が終わったあと、修正版を共有フォルダに入れるために、十分くらい残りました」
「メールは開いた?」
「開きました。追加の修正依頼が来ていないか確認して……」
記憶をたどる。
夕方の会議室。机に散らばった資料。鳴り続けていた内線。次の予定に遅れそうで、私は慌ててファイルを閉じた。
「ログアウトしたか、覚えていません」
口にした途端、胃のあたりが重くなった。
いつもなら必ずする。けれど、したはず、は事実ではない。
「すみません」
「今は謝らなくていい」
三上さんの声は冷静だった。
「認証が残っていた可能性も含めて調べている。結城さんのパスワードを誰かが知っていた可能性もある」
「パスワードは教えていません」
「入力しているところを見られた可能性は?」
すぐには否定できなかった。
第一会議室は施錠されていなかった。私が残っていた間にも、人の出入りはあった気がする。けれど、誰だったかまでは思い出せない。
曖昧な記憶は、潔白の証明にはならない。
「調査が終わるまで、私の社内メールと共有フォルダへのアクセスを止めますか」
自分から聞いた声が、少し震えた。
桐谷企画を続けると言ったばかりなのに、今度は私自身が情報管理上の危険になる。
結局、湊さんだけでなく、私も席を空けるのだろうか。
それが会社として必要なら従わなければならない。頭ではわかっているのに、胸の奥で七年前の私が囁く。
ほら、やっぱり。
私の気持ちも、私の存在も、誰かの重荷になる。
膝の上で握った指先に、爪が食い込んだ。
そのとき、昨夜の湊さんの声がよみがえった。
自分も疑うな。
私は息を吸い、顔を上げた。
「必要な制限には従います。ただ、私を担当から外すなら、流出させたと判断したからではなく、調査中の一時措置だと記録してください」
三上さんが私を見る。
「それから、閲覧権限がなくてもできる作業は続けたいです。公開済みの資料整理や、説明用の進行表ならできます」
「休むという選択もあるわよ」
「今休んだら、自分で自分を犯人の席に座らせてしまいそうなので」
怖い。疑われるのも、仕事を失うのも、湊さんがこれを理由にまた離れていくのも。
それでも、怖いから先に席を立つのは、もうやめたかった。
三上さんはしばらく私を見たあと、資料に一行書き加えた。
「わかった。一時的に機密資料へのアクセスだけを停止する。担当変更はしない」
「ありがとうございます」
「お礼を言うところじゃない。あなたの希望も、調査記録に残すだけ」
その事務的な言い方が、今はありがたかった。
聴取を終えて会議室を出ると、廊下の窓際に湊さんが立っていた。
別の聴取を待っているだけだ。私を待っていたわけではない。
そう思おうとしたのに、彼の手には温かい缶コーヒーが二本あった。
一本が差し出される。甘さ控えめの、昔から私が好きなもの。
「飲めるか」
「はい」
受け取るとき、指先がほんの一瞬触れた。
缶よりも、その体温のほうが熱く感じた。
「私は担当に残ります」
「そうか」
「湊さんも、私のせいで何かを決めないでください」
彼はすぐには答えなかった。
けれど、逃げるように目をそらすこともしなかった。
「君のせいにはしない」
低い声が、静かに落ちる。
「俺の申請は、俺の問題として話す」
元に戻ったわけではない。
それでも今度は、彼が私の隣に問題を置いた。私を向こう側へ押しやらずに。
缶の熱が手のひらからゆっくり広がっていく。
そのとき、会議室の扉が開いた。
三上さんが、追加で届いたばかりの記録を手に立っていた。
「結城さん、確認が一つ増えたわ」
私は振り返る。
「印刷が実行された午後六時十四分、あなたの社員証は十二階の会議区画に入るために使われている。私も、そこであなたと話していた」
第一会議室は、九階だ。
同じ時刻に、私は二つの階にはいられない。
三上さんは記録を私たちの前に置いた。
「あなたのアカウントを使った誰かが、第一会議室にいた」
(第96話へ続く)




