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一人で空けない席

 私の言葉が落ちた直後、エレベーターが小さく揺れた。


 閉じた扉に映る湊さんは、何も言わない。


 言ってしまった私だって、意味をきれいに説明できる自信はなかった。


 席を取り戻すって何。人事権でも奪還するつもりなの、私。


 今さら自分の言葉の大きさに気づいて、心臓だけが逃げ出そうとする。けれど、もう下の階へ戻るボタンは押せない。


「それは、異動申請を撤回しろという意味か」


 低い声が、狭い箱の中に響いた。


「違います」


「では、どういう意味だ」


「一人で空けないでください、という意味です」


 そこで扉が開いた。


 湊さんの今の勤務階は、企画部よりずっと静かだった。退勤時刻を過ぎた廊下には人影がなく、白い照明だけがよそよそしく光っている。


「ここでは話せない。来て」


 湊さんは先に降りた。


 ついていくべきか、一瞬だけ迷う。


 追いかけないと決めたのに。


 でも今の私は、彼の背中に答えをもらいに来たわけではない。自分の答えを置きに来たのだ。


 そう言い聞かせて、同じ階へ足を踏み出した。


 通されたのは、四人掛けの小さな打ち合わせ室だった。ガラス張りの壁の向こうに、湊さんが借りているらしい机が見える。


 ノートパソコンと薄い書類の束。私物らしいものはなく、隅に置かれた紙コップのコーヒーは、いつ淹れたのかわからないほど黒く沈んでいた。


 仮の席。


 いつでも立ち去れるように整えられた机は、彼そのものに見えた。


「座って」


「はい」


 向かい合って座る。ここまで来た勢いが消えると、テーブル一枚の距離が急に遠くなった。


 湊さんはコートを隣の椅子に置き、黒い傘を壁に立てかけた。


「俺の席を取り戻すと言ったな」


「言いました」


「俺が企画部を離れれば、少なくとも君の評価に俺の影響があるとは言われなくなる」


「匿名メールを送った人も、社外へ流した人も、そのままなのに?」


 彼の眉がわずかに動く。


「あなたがいなくなっても、起きたことは消えません。私の過去の評価が正しかったかを疑う人だって、急に納得はしません」


「それでも、今後の疑念は減らせる」


「あなた一人を原因にすれば、ですか」


 言葉が少し強くなった。


 湊さんが黙る。いつもの沈黙だ。でも今日は、その中に私の答えを飲み込ませたくなかった。


「湊さんは、自分がいなくなれば全部丸く収まると思ってるんですか」


「全部とは思っていない」


「じゃあ、何が収まるんですか」


「君がこれ以上、俺との関係で傷つく可能性だ」


 胸の奥が、鈍く痛んだ。


 やっぱり、この人はわかっていない。


 雨の夜、私の手首をつかんだ温度も。翌朝には何事もなかった顔で、仕事まで手放したことが、私をどれほど傷つけたのかも。


「私は今、傷ついていないように見えますか」


 湊さんの喉がわずかに動いた。


「見えない」


「だったら、失敗してます」


 思ったより子どもっぽい言い方になった。けれど取り消さない。


「守るつもりだった」


「私は、守られるために外へ出されたくありません」


「ひなた」


「あなたが責任を取るなとは言ってません。交際が仕事に影響していないか、審査を受けることも必要です。私の配置権限を三上さんに移したことも、予算承認から外れたことも、間違いだとは思ってません」


 鞄から、折り目のついた書類を取り出した。


 私が提出した意見書の控えだ。担当企画への影響、指揮体制を分けた場合の継続案、記録を残すための手順。感情を一行も書けなかった紙に、今日は言葉を足しに来た。


「私は、あなたを無条件で元の立場に戻してほしいわけじゃありません。審査の結果と、企画部への影響を見て決めてほしい。必要なら今の権限分離も続ければいい。でも、私と付き合ったことだけを理由に、あなたが仕事を捨てるのは違うと思います」


 書類をテーブルの中央へ押し出す。


「私のためだと言って、私の意見を数に入れないのも」


 湊さんはすぐには手を伸ばさなかった。


「君の意見を読めば、俺は迷う」


「迷ってください」


「君を選びたいと思う」


 息が止まりそうになった。


 そんな言葉を、今ここで言うのはずるい。耳が熱くなるのを感じるのに、喜んでいい場面ではないこともわかっている。


「それも、ちゃんと数に入れてください」


「会社の判断に私情を入れろと?」


「違います。私情がないふりをして、自分を罰するのをやめてと言ってるんです」


 湊さんが目を伏せた。


 短い沈黙のあと、ようやく彼の手が書類へ伸びる。


 紙の端を押さえていた私の指に、彼の指先が触れた。


 ほんの一瞬だった。


 離れていた三日間を埋めるには短すぎる。なのに、そこから伝わった体温に胸が苦しくなる。


 湊さんは書類を引き寄せず、私の指のすぐそばで手を止めた。


「七年前も、同じだった」


 かすれた声だった。


「君のためだと決めて、君には何も聞かなかった」


「はい」


「今度はわかっていた。わかっていて、それでも離れるほうを選んだ」


 責める言葉はいくつも浮かんだ。


 知っているなら、どうして。私がどれだけ怖かったと思っているの。好きなまま置いていかれるほうの気持ちを、少しくらい考えて。


 けれど、彼が初めて自分の臆病さを言葉にしたこともわかった。


 だから私は、許す代わりに首を横へ振った。


「気づいたことと、直したことは同じじゃありません」


「ああ」


「私はまだ怒ってます」


「ああ」


「別れにも同意してません」


 今度の沈黙は長かった。


 湊さんの指先が、書類の上でゆっくり握られる。


「俺は、君を待たせる資格がないと思った」


「資格を決めるのは湊さんじゃありません。少なくとも、湊さん一人じゃない」


 彼がようやく顔を上げた。


 疲れた目だった。氷の部長の顔ではない。正しい答えを選び続けて、そのたびに大切なものから遠ざかってしまう、不器用な人の顔だった。


「申請を今すぐ撤回してとは言いません」


 言えば、彼は私に押し切られたと思うかもしれない。それではまた、二人で選んだことにならない。


「でも、人事の結論が出る前に、もう一度話してください。私の意見書も読んで、三上さんの影響整理も見て、それから二人で話す。勝手に最後の答えを出さないでください」


「約束すれば、待つのか」


「待ちません」


 湊さんが目を見開く。


「私は私の仕事をします。必要なら意見も出します。あなたが遠ざかるたびに追いかけはしません。でも、同じ問題の当事者として隣に立ちます」


 声は震えなかった。


「それが嫌なら、今ここで言ってください」


 彼の手が、意見書をつかんだ。


「嫌じゃない」


 短い答えだった。


 それだけで元に戻れるわけではない。明日からも彼の席は空いたままだし、私たちの間にある距離も消えない。


 けれど、彼が一人で扉を閉めるのを、初めて止められた気がした。


「読む。人事にも、結論を出す前に補足面談を申し入れる」


「はい」


「その前に、君と話す」


 ようやく息を吐いた、そのときだった。


 テーブルの上で、湊さんのスマートフォンが震えた。


 表示された三上さんの名前を見て、彼はすぐに通話へ出る。


「霧島です」


 数秒後、湊さんの表情が変わった。


「画像が、印刷物だった?」


 私は思わず顔を上げた。


 彼は黙って話を聞いたあと、低い声で聞き返す。


「出力履歴は」


 電話の向こうの答えを聞いた湊さんが、私を見る。


 そして、スマートフォンを握ったまま告げた。


「社外メールに添付された画像の印刷物は、君の社員アカウントで出力されている」


(第95話へ続く)

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