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空いた席

 湊さんが企画部からいなくなって、三日が過ぎた。


 たった三日、と言うべきなのだろう。


 けれど朝、執務室に入るたび、視線がいちばん奥の席へ向かってしまう。


 きれいに片づいた机。黒い画面のままのモニター。書類の一枚も残っていないキャビネット。


 以前は冷たいと思っていた席だ。積み上がった資料も、隙のない横顔も、近寄りがたい空気の一部だった。


 今は、その冷たささえない。ただ、空白だけがある。


 異動が決まったわけではない。ただ審査の間、別の階で待機しているだけだ。


 それなのに彼の席だけ、ひと足先に結論を受け入れているように見えた。


「結城、十時から桐谷企画の進捗確認ね」


 三上さんの声に、私は慌ててパソコンへ向き直った。


「はい。更新版、共有フォルダに入れてあります」


「確認した。数字の根拠資料だけ、すぐ出せるようにしておいて」


「承知しました」


 会話はそれで終わる。


 三上さんの指示は明確で、判断も速い。湊さんから引き継いだ案件は滞っていなかった。


 企画部は、きちんと動いている。


 電話が鳴り、キーボードの音が重なり、プリンターから吐き出された紙を誰かが回収していく。昨日までと同じ、どこにでもある平日の朝だった。


 当然だ。部長が数日いないだけで止まる部署では困る。まして、彼自身が細かく引き継ぎを残したのだ。


 頭ではわかっている。


 なのに、何事もなく回る時計の針が、胸の内側を少しずつ削っていく。


 湊さんのしたことが、正しかったと証明されていく気がした。


 自分が抜けても仕事は回る。


 私も働ける。


 だから離れても問題はない、と。


 そんな答えのために働いているわけではないのに、私は今日も間違いのない資料を作る。


 なんだ、この罠。


 仕事を頑張るほど恋人に「ほら大丈夫だ」と安心されるなんて、理不尽にもほどがある。


 十時の会議は予定どおり始まった。


 桐谷企画の試行施策は、大きな問題なく進んでいる。数字を読み上げ、先方から届いた質問に答え、次月の検証項目を説明する。


 声は震えなかった。ページを送る手も止まらない。画面に映る参加者の表情を確かめながら、必要なところで補足を入れる。


 私はちゃんと、湊さんが評価してくれた結城ひなたでいられている。


 その事実が、今日は少しだけ寂しい。


 途中、条件設定について確認が入った。


「その場合は――」


 答えかけて、指が止まる。


 判断基準を最初に決めたのは湊さんだった。以前なら一度彼を見て、短くうなずかれるだけで先を話せた。


 ほんの一瞬だけ合う視線。任せる、という無言の許可。


 それだけで背筋が伸びたことを、いなくなってから思い知るなんて遅すぎる。


 けれど、今は見ても席がない。


「結城さん?」


 三上さんに呼ばれ、私は資料へ目を落とした。


「失礼しました。条件を二段階に分けます。第一段階では現行の対象に限定し、基準値を超えた場合のみ第二段階へ広げます」


 説明を終えると、三上さんが「それで進めましょう」と引き取った。


 誰も困らなかった。


 会議のあと、私は自席で小さく息を吐いた。指先が遅れて冷えていく。


「三秒」


 隣から、あかねが小声で言った。


「何が?」


「結城が固まってた時間。たぶん三秒。会議の人は気づいてない」


「来栖調べ、精度が高すぎない?」


「親友観測だからね」


 あかねは画面を見たまま、声だけをさらに落とした。


「連絡、ないの?」


「業務上は三上さん経由」


「そっちじゃなくて」


「ないよ」


 昨夜も、その前の夜も。


 私からも送っていない。


 追いかけて説得するのはやめると言ったのは私だ。だからといって、連絡を一切絶つ約束をしたわけではない。


 それでも湊さんは、私の言葉を正確すぎるほど守っていた。


 私が差し出さなければ、彼からは何も求めない。


 そういうところが、好きだった。


 そういうところが、今は嫌いになりそうだった。


 スマートフォンが振動するたび、胸が先に反応する。画面に別の名前が表示されるたび、そんな自分を見なかったことにする。


「平気?」


「平気じゃないけど、仕事はできる」


「その二つ、両立するんだよね。大人って面倒」


 あかねの言葉に、少しだけ笑った。


 笑えるなら大丈夫。そうやって私は、昔から自分を納得させてきた。


 けれど今回は、その明るさを逃げ道にはしたくなかった。


 午後、三上さんから引き継ぎ資料の確認を頼まれた。


 湊さんが残したファイルは、案件ごとに整理されていた。進行中の作業、想定される問題、判断が必要になる期限。誰が読んでも迷わない。


 簡潔で、正確で、隙がない。書いた本人の声が聞こえてきそうな文面だった。


 私の担当分を開く。


 そこにも、私情の入る余地のない文章が並んでいた。


 結城担当。対外説明は本人に任せる。数値変更時のみ三上承認。過去施策との比較資料は作成済み。


 淡々とした文字を追っていくうち、最後の備考で目が止まった。


 説明直前に資料を増やす傾向あり。追加する場合は、既存資料から同数を削ること。


 思わず唇をかむ。


 余計なお世話だ。


 しかも、正しい。


 今日の会議でも、開始十分前に補足を二枚増やそうとして、結局やめた。本人がいなくても見抜かれているのが腹立たしい。


 きっとこれを書いたときも、あの少し険しい顔をしていたのだろう。眉間に薄くしわを寄せて、私がまた資料を増やす未来まで想像して。


 その一行の下には、さらに短く書かれていた。


 判断に迷った場合も、まず本人の案を聞くこと。


 胸の奥が、急に痛くなった。


 私を仕事から外すつもりはない。能力を疑ってもいない。むしろ、自分がいなくなったあとも、私の意見が消されないように残している。


 やさしい。


 だから、残酷だ。


 これほど丁寧に私の席を守りながら、どうして自分だけ席を立てるのだろう。


 私にはここで働けと言うくせに、自分は私の隣からいなくなる準備をしている。


 それを愛情と呼んで受け取るほど、私は聞き分けのいい恋人ではない。


「その顔をすると思った」


 顔を上げると、三上さんが書類を抱えて立っていた。


「すみません」


「謝ることじゃないわ。霧島らしい引き継ぎでしょう」


「はい。何も困らないようにできています」


「困らないことと、いなくていいことは同じじゃない」


 私は瞬きをした。


 三上さんは空いた部長席に一度だけ目を向けた。


「組織は誰か一人が抜けても回るように作るものよ。それを、自分が必要ない証明に使う人もいるけれど」


「湊さんは、自分からいなくなろうとしています」


 会社でその呼び方をしてしまい、声を落とす。三上さんは注意しなかった。


「あなたは、どうするの」


「追いかけません」


 答えてから、引き継ぎ資料を閉じた。薄い音が、やけに大きく響いた。


「でも、彼が私の気持ちまで引き継ぎ資料にして、勝手に処理するのは認めません」


 三上さんがわずかに息を吐いた。


「明日の午後、配置転換申出の最終面談があるわ。人事と白石部長代理、それから霧島で話す」


「私の意見書は?」


「提出済みの資料として扱われる。追加の聴取は予定されていない」


 つまり、私はもう言うべきことを言った人として、会議の外に置かれる。


 彼はそこで、また一人で自分の責任を数えるのだろう。


 私の名前を書かなかった回答書を前に、私のためではないと言い続ける。


 その頑固さを知っている。自分を罰する方向へだけ迷わず進む、不器用な人だということも。


 だから待っているだけでは、明日には何かが決まってしまう。


 退勤時刻を過ぎても、しばらく席を立てなかった。


 窓の外では細い雨が降り始めていた。街の灯りが濡れたガラスににじみ、室内の私の顔と重なる。


 スマートフォンを開けば、湊さんとのやり取りは三日前で止まっている。


 送ろうと思えば送れる。


 会いたい。話したい。勝手に決めないで。


 どれも本音だった。


 文字にして送りつければ、たぶん彼は返事をする。けれど、それではまた彼を追いかけ、振り向くのを待つことになる。


 私は画面を閉じた。


 欲しいのは、離れていく背中からもらう返事ではない。


 鞄を持ち、企画部を出る。いつもの下向きのボタンではなく、上向きのボタンを押した。


 指先は震えていなかった。代わりに心臓が、私の決意を疑うみたいに速く鳴っている。


 別の階まで、エレベーターなら数十秒。


 扉が開く。


 中には、ちょうど退勤するところらしい湊さんが一人で立っていた。


 濃い色のコートを腕に掛け、もう片方の手には黒い傘を持っている。三日ぶりに見る顔は、記憶より少し疲れて見えた。


 私を見て、彼の指が「閉」のボタンの手前で止まる。


 目が合う。


 たったそれだけで、会えなかった三日間が一気に胸へ押し寄せた。


 胸が痛い。逃げたい。今すぐ下を押して、偶然会っただけの顔をしたい。


 それでも湊さんは、私を拒むように扉を閉めなかった。


 私はその全部を抱えたまま乗り込み、彼の勤務階のボタンを押した。


 閉じた扉に、並んだ二人の姿が映る。触れていない肩の間が、三日前よりずっと遠い。


「ひなた」


 低い声で名前を呼ばれた瞬間、張りつめていたものが揺れた。


 それでも私は、彼を見上げなかった。


「追いかけに来たんじゃありません」


 正面を向いたまま、震えそうな息を吸う。


 追いかけるのではない。置いていかれるのでもない。


 私は私の足で、彼と同じ場所に立ちに来たのだ。


「あなたが置いていった私の席から、あなたの席を取り戻しに来ました」


(第94話へ続く)

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