手を伸ばす番
右手首に、湊さんの指の熱が食い込んだ。
痛いほど強くはない。それでも、離すまいとする意思だけは、雨よりもはっきり伝わってくる。
紺色の傘が傾き、肩に冷たい雫が落ちた。店先の明かりが濡れた歩道ににじみ、私たちの影を頼りなく揺らしている。
「……湊さん」
呼ぶと、彼は自分が何をしたのか、ようやく気づいたように息を止めた。
指の力が緩む。
けれど、手は離れなかった。
「すまない」
「謝るなら、離してください」
言葉にした途端、胸の奥が痛んだ。
本当は、離してほしくない。
追いかけてきてほしかった。名前を呼んでほしかった。触れてほしかった。
全部叶ったのに、どうしてこんなに苦しいんだろう。
きっと私は、その先にある都合のいい続きを期待している。
やっぱり離れたくない、と。
さっきまでの話を全部撤回して、恋人として私を引き留めてくれることを。
「待ってくれ」
低い声が雨音に重なった。
心臓が、期待してはいけない速さで跳ねる。たった四文字でこんなにも浮かれてしまう自分が、悔しい。
「何を、ですか」
湊さんの唇が動き、止まった。
いつもの沈黙だった。
言えない言葉を胸の内側へ押し戻し、自分にとっていちばん苦しい答えを選ぼうとするときの沈黙。
以前の私なら、急かさずに待っただろう。彼が口にしない気持ちまで勝手に読み取って、それをやさしさだと信じようとした。
でも、私はもう、それをやさしさだと勘違いしない。
「何を待てばいいんですか」
「……今のまま帰らせたくない」
「泣いているから?」
「泣いてない」
「泣きそうだから?」
彼は答えなかった。
雨に濡れた前髪から、雫が頬へ落ちている。私よりずっとひどい姿なのに、彼は自分のことには気づいていない。スーツの肩は色が変わり、白いシャツまで雨を吸っていた。
この人はいつもそうだ。
私が少しでも傷つけば手を伸ばすくせに、自分が傷つくことにはひどく鈍い。
そんな不器用さを好きになった。だからこそ今は、それを理由に許してしまいたくなかった。
「一人で帰れます」
「送る」
「それは、部長としてですか」
「違う」
即答だった。
それだけで胸が熱くなってしまう。私の心は、もう少し空気を読むべきだ。今はときめいている場合ではない。
「じゃあ、恋人として?」
今度は、答えがなかった。
期待が、雨に濡れた紙みたいに頼りなく崩れていく。
「名前をなくしたのは、湊さんですよ」
「わかってる」
「わかってる、ばかりですね」
声を荒らげるつもりはなかった。それなのに最後の一音が震えた。傘の柄を握る指先まで震えそうで、私はひそかに力を込める。
「私の気持ちも、自分が同じ間違いをしていることも、全部わかっていて、それでも変えない。だったら、私にはもう何も言えません」
「だから、追いかけないと?」
その問いに、私は目を上げた。
湊さんの表情は、雨の向こうでもわかるほど強張っていた。いつも冷静な人の瞳が、行き場をなくしたように揺れている。
自分から離れると決めたくせに。
私には待たなくていいと言うつもりだったくせに。
私が本当に追いかけないと知ったら、そんな顔をするなんてずるい。
「はい」
喉の奥が痛んだ。それでも、目はそらさなかった。ここでそらしたら、また彼の決断に従うだけの私へ戻ってしまう気がした。
「追いかけません」
手首をつかむ指が、かすかに動く。
「嫌いになったからじゃないです。諦めたからでもありません」
「なら——」
「でも、手を伸ばす番が、いつも私だけなのは嫌です」
湊さんの言葉が途切れた。
「七年前も、今も、私は自分の気持ちを伝えました。好きだって、一緒にいたいって、離れてほしくないって。湊さんが決めた線を、何度も越えようとしました」
手首に残る体温が、皮膚からもっと深いところへ染み込んでくる。
怖くなかったわけではない。十二歳の年の差も、上司と部下という関係も、彼が抱える責任も、私なりに考えた。それでも私は、自分で選んで彼の隣へ行ったのだ。
だから、彼にも選んでほしかった。
「次は、湊さんの番です」
「俺は——」
「私を守るためじゃなくて」
言葉を重ねた。
そうしなければ、また彼は責任や立場の話をする。正しさを盾にして、自分の望みを最後に回してしまう。
「私が泣きそうだからでも、一人で帰らせるのが心配だからでもなくて。湊さん自身が離したくないなら、そう言ってください」
雨が傘を叩いている。
通り過ぎる車のタイヤが水をはね、遠くで信号機の音が鳴った。冷たい風が傘の隙間から吹き込み、濡れた髪を頬へ貼りつかせる。
世界はこんなにも騒がしいのに、私たちの間だけが息を止めたように静かだった。
彼の指先が一度、私の手首を包み直した。
心臓が跳ねる。
言って。たった一言でいい。
命令でも謝罪でもない、湊さん自身の気持ちを聞かせて。
けれど、その唇から言葉は出なかった。
やがて、ひとつずつ指が離れていく。
温度を失った手首に雨が触れた。さっきまでは冷たいだけだった雫が、今は針のように感じられた。
「……すまない」
今度の謝罪は、さっきよりもずっと小さかった。
私は濡れた手首を左手で覆った。
痛くはない。
痛いのは、そこではなかった。
「謝らないでください。選んだのは、湊さんです」
「ああ」
短い返事が胸に刺さる。こんなときまで、彼は私の言葉を否定しない。
「傘、店に置いたままですよ」
「君を駅まで送ってから戻る」
「送らなくていいです」
「だが」
「今の私に必要なのは、無事に帰るための付き添いじゃありません」
彼が黙る。
私は傘の柄を握り直し、今度こそ彼に背を向けた。
三歩進んだところで、後ろから足音がした。
追いついてきたのかと思い、反射的に振り返る。
期待するなと自分に言い聞かせた直後なのに、体は正直だった。
けれど湊さんは店の入口に立ち、ドアを開けたところだった。
黒い傘を取りに戻るだけ。
わかっていたはずなのに、落胆した自分が情けない。
私は前を向いた。
駅までの道を、今度は本当に一人で歩いた。
電車の窓に映る顔は、自分で思っていたより平静だった。泣きもしなかったし、スマートフォンを取り出して彼からの連絡を確認することもしなかった。
ただ、つかまれた右手首だけが、いつまでも熱かった。
翌朝。
湊さんの席は空いていた。
普段なら始業の三十分前には整っている机に、ノートパソコンも書類もない。椅子だけがきちんと収められている。見慣れたはずの執務室が、その一角だけ不自然に広く見えた。
昨夜の雨で体調を崩したのかもしれない。
そう思った瞬間には、社内連絡を開いていた。
何をしているんだ、私は。追いかけないと決めたのに、欠勤ひとつでこの有り様だ。
けれど、休暇の予定は入っていない。
聞く資格があるのか迷っているうちに、三上さんが企画部全員を会議室へ集めた。
「急で申し訳ないけれど、暫定的な指揮体制について共有します」
配られた資料の一行目で、息が止まった。
配置転換申出の審査が終わるまで、湊さんは企画部の日常的な指揮命令から外れる。案件の承認と進捗管理は、すべて三上さんが引き継ぐ。
私に関する権限だけではない。
企画部そのものから、彼の仕事が切り離されていた。
「霧島部長は、今日は人事との面談です。午後、引き継ぎのために戻ります」
資料を持つ指に力が入った。紙の端が小さく鳴り、慌てて力を緩める。
昨夜、私が追いかけないと告げた翌朝に、仕事でも姿が見えなくなる。
偶然だ。私たちの会話で決まったことではない。これは彼が前から進めていた手続きの結果だ。
そう言い聞かせても、胸の空白は埋まらなかった。
午後三時過ぎ。
企画部の扉が開き、湊さんが入ってきた。
濃紺のスーツも、まっすぐ伸びた背筋も、いつもと何も変わらない。昨夜ずぶ濡れだった人とは思えないほど整っていて、その隙のなさがかえって遠く感じられた。
彼は三上さんに書類を渡したあと、私の机の前で足を止めた。
周囲の視線が集まる中、私も部下の顔で立ち上がる。
「結城さん」
「はい」
昨夜つかまれた手を、机の下で握った。
「業務上の連絡先変更について、確認をお願いします」
差し出された紙を受け取る。一瞬だけ近づいた指先は、触れ合うことなく離れた。
そこには、明日からの彼の勤務場所が記されていた。
同じ会社の、別の階。
エレベーターなら数十秒。階段でも、息が切れるほどではない。
けれど最後に、彼が事務的な声で告げた一言は、階数よりもずっと遠い距離を私に突きつけた。
「審査が終わるまで、俺はこの執務室には戻らない」
(第93話へ続く)




