好きなまま、離れる
十九時二十五分、私は約束の店の前にいた。
雨は夕方には上がっていたのに、紺色の傘を持ってきてしまった。
七年前に借りたままの傘。
これを持っていれば逃げないでいられる気がした、なんて。我ながら、傘に背負わせる役目が重すぎる。
ガラス越しに、奥の席に座る湊さんが見えた。
会社から二駅離れた、駅前の小さな店。人目を避けるほど暗くもなく、仕事の打ち合わせに見える程度には明るい。
たぶん、それも彼が選んだ理由だ。
恋人同士の今後を話す場所まで、公正であろうとする。
そういうところを好きになった。
今は、その正しさが苦しい。
「早かったな」
「湊さんも」
「ああ」
向かいに座ると、彼の前のコーヒーはもう半分ほど減っていた。
こういうときだけ時間より早く来て、一人で結論を固めるのはやめてほしい。
注文した紅茶が届くまで、私たちは天気の話すらしなかった。
沈黙に耐えられないのは、いつも私のほうだ。けれど今日は、先に埋めたくなかった。
呼び出したのは彼だ。
話したいと言ったのも彼だ。
少しくらい、自分の言葉で困ればいい。
「回答書は見たか」
「見ました」
「白石部長代理には、今日提出した」
「それも見ればわかります」
思ったより尖った声が出た。
湊さんの指が、カップの取っ手から離れる。
「今夜は会社の説明を聞きに来たんじゃありません」
「わかってる」
「昨日も同じことを言いましたね」
「ああ」
また短い返事。
氷の部長は、言葉が少ない。それは知っている。少ない言葉の奥にある優しさも、不器用さも、私は知っているつもりだった。
でも、知っていることと、黙って待てることは同じじゃない。
「二人の今後って、何ですか」
湊さんはすぐには答えなかった。
店内に流れる静かな音楽と、食器の触れる音。隣の席では誰かが週末の予定を話している。
そんな普通の夜の中で、私たちの席だけが、薄いガラスで囲われているみたいだった。
「配置転換が決まるまで、私的に会うのをやめたい」
予想していた。
予想していたはずなのに、胸の内側を冷たい指でつかまれた。
「それは昨日も聞きました」
「連絡も、業務に必要なものだけにする」
「それも一人で決めたんですか」
「提案している」
「提案なら、断れますよね」
湊さんの眉がわずかに寄った。
私の言い方は子どもっぽいかもしれない。けれど、きれいな言葉に包んだ一方的な決定を、大人の話し合いと呼ぶ気はなかった。
「断ります」
「ひなた」
「異動の判断と、私たちが恋人でいることは別です」
「別にはできない」
「どうして」
「俺が、できない」
息をのむ。
初めて、主語が会社でも私でもなく、彼自身になった。
湊さんは目を伏せた。冷めたコーヒーの表面を見つめながら、言葉を選ぶように息を吐く。
「君の評価から外れた。配置にも、予算にも関与していない。それでも、会議で君が厳しい質問を受ければ、先に口を挟みたくなる」
「それは実際にはしてません」
「していないから問題がないとは思えない」
「思うだけでも駄目なんですか」
「判断が揺れる」
低い声だった。
「君の企画が通れば、他の誰のものより嬉しい。失敗すれば、自分の判断が間違っていたのか、それとも君を守りきれなかったのかと考える。上司として見るべきものと、恋人として感じることを、完全には分けられない」
好きだと言われたわけではない。
なのに、好きだと言われるより深く、その感情が伝わってきた。
嬉しくて、同じだけ痛い。
「私も分けられません」
湊さんが顔を上げる。
「会議で褒められたら、部下として評価されたって思います。でも、好きな人に認めてもらえたことも嬉しい。厳しくされたら腹が立つし、帰ってからまで引きずります」
「だから——」
「でも、分けられないことと、不正をすることは違います」
言葉を重ねた。
「迷ったら記録を残す。判断に自信がなければ三上さんや白石部長代理に確認する。そのための試行運用でしょう。最初から完璧に分けられないから、仕組みを作ったんじゃないんですか」
「仕組みですべては防げない」
「すべてを防げないなら、全部手放すんですか」
彼の口が閉じる。
七年前、余白がないからと私を遠ざけた人。
今度は公正でいられないかもしれないからと、仕事も恋も手放そうとしている。
いつも、失う可能性をゼロにするために、自分から先にゼロにしてしまう。
「湊さんは、私と別れたいんですか」
ようやく、いちばん怖い問いを口にした。
喉の奥がひどく乾く。紅茶はすぐそばにあるのに、手を伸ばせなかった。
「そういう話じゃない」
「私には、そういう話です」
「今のまま続けるべきではないと思ってる」
「べきかどうかじゃなくて、湊さんがどうしたいかを聞いてます」
彼の視線が私の手元へ落ちた。
私は膝の上で両手を握っていた。震えていることまで見抜かれたくなくて、さらに強く指を絡める。
「私と別れたいですか」
もう一度、聞いた。
湊さんは答えない。
その沈黙に、期待しそうになる自分が嫌だった。
別れたいとは言えない。なら、まだ好きでいてくれる。
そんなふうに、言葉にされなかったものを拾って、彼の代わりに都合のいい答えを作りたくない。
「好きじゃなくなったなら、そう言ってください」
「それは違う」
今度は、間がなかった。
胸が大きく鳴る。
湊さんは一度目を閉じ、苦しそうに息を吐いた。
「好きだから、離れたほうがいい」
その言葉は、七年前より残酷だった。
あの頃は、気持ちに応えられないと言われただけだった。今は、同じ気持ちだと知っている。知っているのに、彼はそれを離れる理由にする。
「私は、好きだから一緒にいたいです」
「君はそう言うと思った」
「わかっていたなら、どうして私を呼んだんですか」
「黙って距離を置くことはしたくなかった」
「話せば、同意したことになると思ったんですか」
「思ってない」
「じゃあ、私が嫌だと言っても、決めたことは変わらない?」
沈黙が答えだった。
私は紅茶に手を伸ばした。もう湯気は消えていた。ひと口飲んでも味がわからない。
泣くな、と自分に言い聞かせる。
ここで泣いたら、彼はきっと困った顔をする。手を伸ばしたくなって、その手を自分で止める。
そんな姿を見たら、私はまた、彼の苦しさまで引き受けてしまう。
「いつまでですか」
「異動と調査に結論が出るまで」
「一か月かもしれないし、半年かもしれない」
「ああ」
「その間、私たちは何ですか」
湊さんの指がわずかに動いた。
「会社では、部長と部下だ」
「会社の外では?」
答えがない。
私はようやく理解した。
彼は別れたいのではない。
けれど、恋人でいる責任を持ったまま離れることにも耐えられない。だから名前をなくして、私を待つ立場から解放したいのだ。
やさしさのつもりで、私だけを関係の外へ置く。
「待たなくていい、ですか」
彼の顔が強張った。
先に言われた言葉を返すと、思った以上に胸が痛んだ。
「そう言うつもりなら、聞きません」
鞄を持ち、椅子の横に立てかけていた紺色の傘を取る。
「私は今日、別れに同意しません。でも、追いかけて説得するのもやめます」
「ひなた」
「あなたが私を好きなまま一人になりたいなら、その寂しさまで私が救うことはできません」
立ち上がった私を、湊さんは止めなかった。
店を出ると、また雨が降り始めていた。
私は紺色の傘を開く。いつもなら振り返って、黒い傘が追いついてくるのを待った。
今夜は待たない。
駅へ向かって一人で歩き出した、その直後。
背後で椅子を引く音がして、湊さんが傘も差さずに店から出てきた。
「ひなた」
呼び止める声に足を止めると、雨に濡れた彼が、私の右手首をつかんだ。
(第92話へ続く)




