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離れるための理由

「承知しました。異動の意思は、変わりません」


 その声は、会議室の冷房よりも冷たく響いた。


 私は返事を忘れた。


 白石部長代理に言われたのは、私を守るという理由を取り除いて、もう一度考えることだった。


 考え直せ、ではない。


 だから、同じ答えが返ってくる可能性だってわかっていた。それでも心のどこかで、私の言葉が彼を踏みとどまらせると期待していたのだ。


 また一人で決めないで、と。


 私にも選ばせて、と。


 あれだけ言えば、今度こそ届くのではないかと。


「では、申出理由を整理した回答書を、明日十七時までに提出してください」


「承知しました」


「現時点では申出の受理も却下もしません。三上さんは、引き続き異動した場合の業務影響を整理してください」


「はい」


 三上さんの返事にも、いつもの迷いのなさがなかった。


 会議はそれで終わった。


 椅子を引く音が重なり、資料が閉じられていく。私も立たなければならないのに、膝から下だけが自分のものではないみたいに動かなかった。


 湊さんは先に立ち、私の前を通った。


 手を伸ばせば、スーツの袖くらいはつかめる距離だった。


 けれど、ここは会議室だ。


 私は恋人である前に、彼の異動によって影響を受ける社員として座っている。そうやって自分に言い聞かせ、机の下で握った手をほどいた。


 扉が閉まる直前まで、湊さんは振り返らなかった。


「結城さん」


 白石部長代理に呼ばれ、顔を上げる。


「意見書を出したことは間違いではありません」


「……はい」


「ただ、他人の意思と、自分の望む結果は分けて考えてください」


 厳しいけれど、突き放す言い方ではなかった。


 わかっている。


 湊さんには、異動を望む権利がある。私が恋人だからといって、その権利を奪っていいわけではない。


 それでも、私のためだと言って差し出された犠牲まで、本人の自由として受け取ることはできなかった。


「本人の理由を、聞きます」


 私が答えると、白石部長代理は一度だけうなずいた。


 席へ戻ってからの私は、ひどかった。


 メールの宛先を二度確認し、添付ファイルを三度確認し、それでも送信ボタンを押す直前に不安になってもう一度確認した。


 慎重というより、完全に動揺している人の挙動である。


「ひなた」


 隣から、あかねが小声で呼んだ。


「今、同じセルを五分くらい見てる」


「考えてるの」


「そのセル、先月の日付だけど」


 言われて初めて気づいた。考えているふりをして、何も考えられていなかったらしい。


「話、だめだった?」


「私の意見は受理された。でも、異動の意思は変わらないって」


 あかねは眉間にしわを寄せたものの、すぐに何かを言うことはしなかった。


 その沈黙がありがたかった。


 今、「大丈夫」と励まされたら大丈夫なふりをしてしまうし、「ひどい」と怒られたら彼をかばってしまう。


 私はパソコンの時計を見た。


 十八時を過ぎても、湊さんは部長席にいた。


 以前なら、残業中の彼のそばへ行く理由をいくつも探した。資料の確認。進捗の報告。ついでを装った缶コーヒー。


 今は、そのどれも使えない。


 仕事を口実にしないと決めたからだ。


 十八時二十分、湊さんがパソコンを閉じた。


 私は立ち上がった。


「霧島部長」


 周囲にまだ人がいる。だから、きちんと役職で呼ぶ。


「十分だけ、お時間をいただけますか」


「今日の業務報告なら、明日でいい」


「業務ではありません」


 湊さんの手が、鞄の持ち手の上で止まった。


 断られるかもしれない。


 怖くなって早口で言葉を足しそうになるのを、唇を結んでこらえた。ここで余白を埋めたら、また彼に逃げ道を渡してしまう。


「……下で待つ」


 短い返事のあと、彼は先にエレベーターへ向かった。


 会社を出ると、雨が降り始めていた。


 昼間は晴れていたのに、舗道にはもう黒い点がいくつも広がっている。私は鞄から折り畳みの紺色の傘を出した。


 湊さんは黒い傘を開かず、軒下に立っていた。


 駅へ急ぐ人たちが、私たちの前を次々と通り過ぎる。会社の外なのに、彼との間には会議机よりも固いものが置かれている気がした。


「理由を聞かせてください」


 私から切り出した。


「私を守るためではない理由です。それでも異動したいと言った、その理由を」


 湊さんは雨の向こうへ目を向けた。


「今の俺は、企画部長として適切な判断ができない」


「桐谷企画から外れたことですか」


「それだけじゃない」


 雨粒が傘を細かく叩く。


「問題が起きたとき、最初に考えたのは、君を守る方法だった」


「上司として部下を守るのは、おかしくありません」


「他の部下と同じように、ではなかった」


 否定したかった。


 けれど彼が自分を責めているものを、私が簡単に問題ないと言い切るのも違う気がした。


「だから、監査や権限移管が決まったんですよね。個人の判断だけにしないために」


「ああ」


「制度を使って、それでも一緒に働くことを選んだはずです」


「選んだ。だが、また問題が起きたら、俺は同じことを考える」


「自分がいなくなればいい、って?」


 湊さんは答えなかった。


 その沈黙が、肯定よりはっきりしていた。


「それは異動の理由じゃありません。結局、私を守るためじゃないですか」


「違う」


 珍しく、強い声だった。


「自分の判断を信用できないからだ」


 胸の奥が、鈍く痛んだ。


 私がいると、公平でいられない。


 私を好きでいる自分を、彼は管理職として不適格だと判断したのだ。


「上司でいることと、恋人でいることは、分けられませんか」


「今は分けられていない」


「だから、上司をやめるんですよね」


「ああ」


「異動したら、恋人のほうは残りますか」


 彼が黙った。


 雨音が急に大きく聞こえた。


 答えが出るまで待つと決めたはずなのに、その沈黙の長さに耐えられず、私は傘の柄を握り直した。


「そこまで一緒に手放さないと、自分を信用できませんか」


「ひなた」


 会社の外で、ようやく名前を呼ばれた。


 たったそれだけで胸が熱くなる自分が、悔しい。


「君が残れと言うことは、わかっていた」


「だったら、それを私の答えとして受け取ってください」


「その答えを選ばせること自体が、君に負担をかける」


「また、それです」


 声が震えた。


「私の気持ちは重荷じゃないって、七年前と同じことをしないでって、何度言えば信じてくれるんですか」


「わかってる」


 息が止まった。


 わかっていなかったのなら、まだ伝え続けられた。


 けれど彼は、わかったうえで離れようとしている。


「わかっていて、行くんですか」


「ああ」


 短い一音が、雨の中でもはっきり聞こえた。


 湊さんは黒い傘を開いた。


「回答書は明日出す」


「私には見せてくれませんか」


「正式に提出したものは共有される」


 どこまでも仕事の言葉だった。


 彼は雨の中へ踏み出す。追いかけようとした私の足は、紺色の傘の下から出られなかった。


 翌日、十六時五十八分。


 白石部長代理から回答書が共有された。


 申出理由には、私の名前は一度も書かれていない。


 管理職としての公正性に疑義を生じさせた責任。現在の体制における職責継続への懸念。組織への影響を最小限にするための配置転換希望。


 彼は約束どおり、私を守るためという言葉を消していた。


 その代わり、全部を自分の不適格さとして引き受けていた。


 画面を見つめていると、机の上のスマートフォンが震えた。


 湊さんからの個人的なメッセージだった。


 今夜十九時半。二人の今後について話したい、と書かれていた。


 逃げたい気持ちを、私は一度だけ飲み込んだ。


 そして彼に結論を先に決めさせないため、「行きます」と打って送信した。


(第91話へ続く)

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