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私の意見

 結城ひなた。


 打ち込んだ自分の名前の隣で、カーソルが点滅している。


 静まり返った部屋には、ノートパソコンの低い駆動音だけが残っていた。白い画面に向かっていると、まるで返事を急かされているようで落ち着かない。


 反対する、と決めた勢いのまま書けば、たぶん一行で済む。


 行かないでください。


 それが本音だった。


 けれど、配置転換申出に対する意見書の一行目に書ける言葉ではない。そんな文書を人事へ出したら、意見書ではなく恋文だ。しかも、かなり切羽詰まった部類の。


 私は息を吐き、いったん白紙へ戻した。


 感情だけで止められないなら、事実を並べる。


 現在の企画部では、私に関する人員配置権限を三上さんへ移している。予算承認からも湊さんは外れ、案件の担当決定と進捗は会議記録に残す。試行運用はまだ始まったばかりで、手順違反は確認されていない。


 一つずつ文章へ落とし込むたび、胸の中で暴れていたものが、少しずつ輪郭を持っていく。


 その状態で企画部長を異動させれば、匿名メールが指摘した問題を是正するためではなく、匿名メールに押されて配置を変えたように見える。


 桐谷側との企画だけではない。湊さんが関わっている部内案件の引き継ぎ、承認経路の変更、取引先への説明。三上さんが責任者を引き受ければ、負担は確実に増える。


 そして何より——。


 私はキーボードの上で指を止めた。


『霧島部長の異動によって、結城の就業環境が安定する』


 そんな前提で話を進められるのは嫌だった。


 安定なんてしない。


 私のせいで一人が職場を去ったと感じながら、平気な顔で仕事を続けられるほど、私は器用ではない。彼の席が空くたびに、会議で低い声が聞こえないたびに、自分を責めるに決まっている。


 でも、それをそのまま書けば、恋人としての感情だと退けられる。


 考えて、削って、また書く。書いては読み返し、熱を持ちすぎた言葉を仕事の言葉へ置き換える。


『本申出が結城の保護を理由の一部とする場合、本人の意向を確認せず、配置変更の合理性を判断することは適切ではないと考えます』


 読み返すと、ずいぶん固い。


 私の気持ちが社内文書の服を着ると、こんなにも肩幅が広くなるらしい。


 それでも、消さなかった。


 最後にもう一度、自分の名前を見る。


 私は、彼が守る対象である前に、ここで働く一人の社員だ。


 心配されるだけの存在でも、決断を黙って受け入れるだけの恋人でもない。その意思を、申請書の余白に追いやらせたくなかった。


     *


 翌朝、三上さんは私の意見書を最初から最後まで黙って読んだ。


 紙をめくる乾いた音が、妙に大きく聞こえる。表情が変わらないので、待っている一分がものすごく長い。昨夜の私なら、あの沈黙だけで三回くらい文章を直していたと思う。


「業務影響は整理できてる」


「ありがとうございます」


「ただ、最後の段落」


 心臓が縮む。


「はい」


「これは残すのね」


 三上さんの指が、本人の意向を確認せず、という一文の下で止まった。


「残したいです」


「霧島部長の異動を決めるのは会社よ。結城さんに同意権はない」


「わかっています」


「それでも?」


「私を理由にするなら、私の意見をないことにはさせません」


 声は震えなかった。


 机の下の指先は冷たかったけれど、目だけはそらさない。昨夜、何度も書き直したのは、この一文を言い切るためだったのかもしれない。


 三上さんはしばらく私を見たあと、書類を閉じた。


「じゃあ、出しましょう」


「直さなくていいんですか」


「直したら、結城さんの意見書じゃなくなる」


 その淡々とした声が、今はありがたかった。胸の奥に、少しだけ熱が戻った。


 提出から二時間後、白石部長代理に呼ばれた。


 小会議室には、すでに湊さんと三上さんが座っていた。


 湊さんは私を見た。けれど、何も言わない。


 目の下に、わずかな疲れが残っている。いつも隙なく整っているネクタイも、今日はほんの少しだけ結び目が緩く見えた。昨夜、ちゃんと眠れなかったのだろうか。


 そんなことを気にする自分へ、今だけは仕事に集中、と心の中で注意する。恋人として心配するのは、この部屋を出てからだ。


 白石部長代理は、私の意見書を机の中央へ置いた。


「結城さん。これは、配置転換への正式な異議という理解でいいですか」


「はい。ただし、私に異動を拒否する権限があるとは考えていません」


「では、何を求めますか」


「申出の必要性を、現在の管理措置と業務影響に基づいて検討することです。私を守るためという理由だけで受理しないでください」


 自分の声が、会議室の壁にぶつかって返ってくる。


 隣で、湊さんの手がわずかに動いた。机の上に置かれた長い指が、何かを押しとどめるように一度だけ握られる。


「俺は、結城を理由に申請したわけではありません」


 短い声が割って入る。


 その言葉は、昨日よりずっと冷たく聞こえた。氷の部長と呼ばれる声を、こんなに近くで聞く日が来るなんて思わなかった。それも、その氷を私へ向けられるなんて。


「企画部長として、外部との信頼関係に影響を出した。体制を立て直すための判断です」


「桐谷側との企画は、三上さんを責任者にして継続しています」


「今後、別の取引先へ波及しない保証はない」


「それは異動すればなくなる問題ですか」


「少なくとも、同じ部署にいるより説明はしやすい」


 やっぱり、私を切り離す話だった。


 名前を出さなければ、私を理由にしていないことになるとでも思っているのだろうか。普段は言葉に厳密な人なのに、自分の気持ちにだけは、どうしてこんなに不器用なのだろう。


「説明しやすいことと、正しいことは同じですか」


「結城さん」


 会社での呼び方に、線を引かれる。


 たった四文字なのに、さっきまでより距離が遠くなる。胸が痛んだ。でも、引かなかった。


「現在の試行運用は、問題が起きないように権限を分け、記録を残すためのものです。始めた直後に責任者が去ったら、その仕組みが有効だったかどうかも検証できません」


「検証のために、君を危険にさらすつもりはない」


「今、君って言いました」


 湊さんが黙った。


 三上さんが小さく息をつき、白石部長代理は眉間を押さえた。


 こんな場面で言葉尻を拾うつもりはなかった。自分でも、そこを指摘するの、と一瞬思った。でも、その一文字だけでわかってしまった。


 企画部長としてではなく、恋人として私を遠ざけようとしている。


「やっぱり、私を守るためなんですよね」


「それだけではない」


「それだけじゃなくても、私のためが入っているなら、私に選ばせてください」


「何かあってからでは遅い」


「何か起きる前に、あなたがいなくなるのは、私にとって何も起きていないことにはなりません」


 言い終えた瞬間、喉の奥が熱くなった。


 泣きたくはない。ここで涙を見せたら、また彼は私を守らなければならない人として見る気がした。


 これは、かわいそうな恋人の訴えではない。


 彼の判断を奪いたいわけでもない。ただ、その判断の中から、私の意思だけを勝手に抜き取らないでほしい。


「湊さんが自分のために企画部を離れたいなら、私は止められません」


 名前を呼んでも、今度は誰も遮らなかった。


「でも、私のために離れるのなら、それを私の望みだったことにはしないでください。私は、あなたに出ていってほしいなんて、一度も言ってません」


 湊さんの視線が、初めてまっすぐ私に向いた。


 冷たく見える瞳の奥が、わずかに揺れている。その目に浮かんだものを、私は答えだと思わないことにした。


 言葉にされないものを都合よく拾って、待ち続けるのはもうやめる。


 長い沈黙のあと、白石部長代理が書類をそろえた。紙の端が重なる音で、張り詰めていた空気が少しだけ動く。


「結城さんの意見書は、業務影響に関する正式資料として受理します」


 小さく息を吐く。


「ただし、霧島部長本人が配置転換を希望している以上、反対意見だけで申出を退けることはできません」


「はい」


「霧島部長」


「はい」


「申出の理由から、結城さんの保護という要素を除いてください。そのうえで、なお企画部外への異動を希望するのか、明日十七時までに回答を」


 湊さんは、すぐには返事をしなかった。


 いつもの、動揺したときの一瞬より長い。


 私は机の下で手を握った。爪が手のひらへ食い込む感覚が、かろうじて私をその場につなぎ留める。


 ここまで言えば、届くかもしれない。


 今度こそ、一人で決めるのをやめてくれるかもしれない。


 けれど、やがて湊さんは私から目をそらし、低い声で答えた。


「承知しました。異動の意思は、変わりません」


(第90話へ続く)

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