申請書の外にいる私
提出日時、昨夜二十一時十三分。
その数字を何度見ても、文字は別の意味にはならなかった。
湊さんが「帰りを待たなくていい」と言ったのは、それよりあとだ。
つまり彼は、私に距離を置こうと告げる前に、企画部から出ていくことを決めていた。
相談ではなかった。
たぶん、最初から。
「ひなた」
あかねの声で、ようやく息をしていなかったことに気づいた。
「大丈夫?」
「……大丈夫って言ったら、信じる?」
「一文字も」
即答だった。
あかねは私の手からマウスをそっと外すと、机の端に置いた缶コーヒーを押し戻してきた。さっきまで温かかったはずなのに、もう指先より少しまし、くらいの温度しかない。
「面談、午後三時だよね」
「うん」
「それまでに泣く?」
「泣かない」
「怒る?」
「怒ってる」
口にした瞬間、胸の奥で何かがはっきりした。
悲しい。怖い。置いていかれる気がする。
でも、それより腹が立っていた。
また一人で決めたことに。
私なら黙って守られると思われていることに。
「じゃあ、怒ったまま行ってきな」
あかねは私の肩を軽く叩いた。
「ただし、会社で出すのは社会人の怒りね」
「社会人の怒りって?」
「資料と根拠がついてるやつ」
なるほど。大声より怖い。
私は配置変更申出書を閉じ、代わりに今回の企画体制と六か月の試行運用条件を開いた。
感情を消すためではない。
私の感情を、なかったことにさせないためだ。
*
午後三時。
会議室には白石部長代理、三上さん、湊さん、そして私が向かい合って座った。
湊さんはいつもと同じ紺のネクタイで、いつもと同じように背筋を伸ばしている。
ただ、それが今日はひどく遠い。
「まず確認します」
白石部長代理が申出書を机に置いた。
「これはまだ受理を決定したものではありません。人事との協議も必要です。霧島部長、配置転換を希望する理由を説明してください」
「企画部の試行運用に対する社内外の懸念を、早期に解消するためです」
低く、迷いのない声だった。
「私が企画部を外れれば、結城さんの評価や配置に影響を与えているという疑念は成立しにくくなります。桐谷側が求めている責任者の変更にも対応できる。企画自体を継続するための負担が最も少ない方法だと判断しました」
負担が最も少ない。
その計算の中に、彼自身は入っているのだろうか。
私たちのことは。
「三上さんはどう見ますか」
「時期尚早です」
三上さんは即座に答えた。
「試行運用は始まったばかりです。霧島部長の権限はすでに制限され、結城さんに関する判断は記録されています。現行制度の有効性を検証する前に部長を異動させれば、制度が機能しなかったから人を動かした、と受け取られる可能性があります」
「引き継ぎへの影響は」
「大きいです。桐谷側の企画だけではありません。少なくとも来月一日という希望時期には賛成できません」
淡々とした援護に、少しだけ呼吸が楽になる。
白石部長代理の視線が私へ移った。
「結城さんは?」
心臓が強く鳴った。
ここで恋人の顔をしてはいけない。
でも、部下だから黙らなければならないわけでもない。
「反対です」
自分でも驚くほど、声はまっすぐ出た。
湊さんの視線が動く。
「理由を説明してください」
「今回の試行運用は、個人を排除するのではなく、権限と手続きを明確にすることで公平性を担保するために承認されたはずです。霧島部長が異動すれば、目の前の批判は弱まるかもしれません。でも、匿名メールの送信者も、情報が社外へ流出した経路も未解明のままです」
一度、息を吸う。
「関係者の一人が異動することで問題が解決したように見せれば、同じことが起きたとき、また誰かが職場を去るしかなくなります」
「去るつもりはない」
湊さんが口を挟んだ。
「企画部外への配置転換だ」
「言い方の問題ではありません」
思ったより強く返してしまった。
白石部長代理の眉がわずかに上がる。私は膝の上で指を握り、声の速さを落とした。
「それに、部門責任者の変更は、部員や進行中の案件へ影響します。その判断を、関係者への事前確認なしに申請するのは適切なのでしょうか」
湊さんと目が合った。
冷たく見える目の奥で、ほんの一瞬だけ何かが揺れた。
けれど、彼は目を逸らさなかった。
「必要な引き継ぎは行う」
やっぱり、行くことを前提にしている。
「結論を出す前に、追加の影響確認を行います」
白石部長代理が会話を切った。
「霧島部長の申出は保留。三上さんは引き継ぎが発生した場合の業務影響を整理してください。結城さんも、現在担当している企画への影響を文書で提出するように」
「承知しました」
返事が三つ重なる。
保留。
却下ではない。
けれど、今日この場で彼の席が消えることだけは避けられた。
*
白石部長代理と三上さんが退室したあと、私は資料を鞄へ入れる湊さんを呼び止めた。
「五分ください」
「結城」
「業務時間内です。配置変更について、確認したいことがあります」
恋人としてなら避けるつもりでも、部下からの業務確認までは拒めないはずだ。
我ながら、あまりかわいくない方法である。
でも今は、かわいさで勝負している場合ではない。
湊さんは時計を見てから、椅子へ座り直した。
「昨夜、私に話す前に申出書を出したんですか」
「そうだ」
「どうして相談しなかったんですか」
「相談すれば、君は反対する」
「します」
「だからだ」
あまりに迷いなく言われて、息が詰まった。
「それ、相談って言わないですよね。賛成してもらえるときだけ話すなら、ただの報告です」
「君の仕事を守るために必要だった」
「私の仕事だけ守れば、私は傷つかないと思ってますか」
湊さんが黙る。
まただ。
都合の悪い問いに答えられないときの、長い一瞬。
「桐谷側との企画が止まれば、君の実績にも影響する」
「今は企画の話をしてません」
「会社でする話は、企画の話だ」
線を引くような声だった。
胸が痛い。
それでも、私は椅子から立たなかった。
「じゃあ、会社の外なら答えてくれるんですか」
「しばらく二人では会わないと言った」
「それも一人で決めました」
机の上に置かれた申出書へ手を伸ばす。同時に湊さんも紙を取ろうとして、指先が触れた。
ほんの一瞬。
なのに、忘れかけていた体温がそこから流れ込んでくる。
彼はすぐに手を引いた。
その動きのほうが、冷たい言葉より痛かった。
「俺が外れれば、君は企画部に残れる」
「私が残りたいと言ったのは、あなたに代わりに出ていってもらうためじゃありません」
「全員が望む場所に残れるとは限らない」
「だから、自分が諦めればいいんですか」
「それが最も現実的なら」
七年前と同じだ。
私のためだと言って、本当の気持ちを見せない。
私が選ぶ前に、私の答えまで決めてしまう。
「湊さん」
会社でその名前を呼ぶのは怖かった。
それでも今だけは、部長ではなく、この人に届いてほしかった。
「守るために離れるって、残された側には、ただ離れていかれるのと同じなんです」
湊さんの喉が小さく動いた。
返事はなかった。
五分が過ぎる。
私は申出書を机へ戻し、立ち上がった。
「明日の午前中までに、業務影響を提出します」
「ああ」
「でも、それだけじゃありません」
自分の席へ戻ると、私はすぐに新しい文書を開いた。
表題は、配置変更申出に対する意見書。
感情だけで彼を止めることはできない。
恋人としての話から逃げるなら、まず仕事の場で、逃げられない形にする。
待たない。
黙って従わない。
彼が自分の名前だけで提出した申出書の隣に、私は反対する当事者として、結城ひなたの名前を打ち込んだ。
(第89話へ続く)




