待たなくていい
「明日から、帰りを待たなくていい」
湊さんの言葉は、許可の形をしていた。
待つ必要はない。先に帰っていい。そう言われただけなら、気遣いにも聞こえる。
けれど、本当は違う。
冷たい雨の匂いが残る夜道で、彼は私を、自分の隣から遠ざけようとしている。
「それは、私を守るためですか」
「ああ」
迷いのない返事だった。だからこそ、胸の奥がひりついた。
「私の気持ちを置いていっても?」
湊さんの眉が、わずかに寄った。
「今は、距離を取るのが一番安全だ」
「安全なら、傷ついてもいいんですか」
返事はなかった。
また沈黙だ。
車が濡れた車道を通り過ぎ、水をはねる音が響く。街灯に照らされた湊さんの横顔は、会社で見る『氷の部長』そのものだった。
でも私は、その表情の下で彼が迷っていることを知っている。知っているから、黙って受け入れることなんてできなかった。
七年前にも、この人は私のためだと思って、自分だけで答えを決めた。今度は逃げずに話すと約束したのに、立場や責任が重くなると、彼は同じ場所へ戻ろうとする。
「大阪で約束しましたよね」
声が震えそうになって、いったん息を吸う。冷えた空気が喉に刺さった。
「傷つけたときは、逃げずに話すって」
「覚えている」
「じゃあ、話してください。私、今、傷ついてます」
濡れた歩道の上で、湊さんの指が動いた。
ポケットから出かけて、けれど結局、私へ伸びてはこなかった。そのためらいが、触れられないことより苦しかった。
「……すまない」
「謝ってほしいわけじゃありません」
「わかっている」
「わかってないです。湊さんは、私を守るためなら、私が何を望むかは後回しにしていいと思ってる」
言い切った瞬間、胸の奥が痛んだ。
こんなふうに責めたいわけではない。困らせたいわけでもない。ただ、恋人として同じ場所に立たせてほしいだけなのに。
「君が望むことを優先して、また写真を撮られたら?」
「それは怖いです」
「取引先への流出が続いたら」
「怖いです」
「君の仕事まで疑われたら」
「それも、怖いです。でも」
私は拳を握った。爪が手のひらに食い込む感覚が、逃げそうになる言葉をつなぎ止めてくれる。
「怖いからどうするかを、一緒に決めたいんです」
湊さんの喉が小さく動く。
「俺は、君がこれ以上傷つく可能性を選べない」
「それなら、私が選びます」
「ひなた」
低く呼ばれた名前に、心臓が揺れた。それでも、ここで甘えてしまったら、また彼一人の決断になってしまう。
「私は二十六歳です。自分がどこに立つかくらい、自分で決められます」
年齢を口にするのは、少しだけずるい気もした。
十二歳の差も、上司と部下という立場も、彼が慎重になる理由だとわかっている。わかっているからこそ、それを私から選ぶ権利を奪う理由にはしてほしくなかった。
守られるだけの存在になりたいわけじゃない。隣で悩み、怖がり、それでも同じ答えを選びたいのだ。
けれど、湊さんの表情は変わらなかった。
「今だけでいい」
「その今が、いつまでなのか決まっていますか」
「企画の体制と、外部流出の調査が落ち着くまでだ」
「一週間ですか。一か月ですか」
「わからない」
終わりの見えない距離を、今だけとは呼べない。
私たちの間を、駅へ急ぐ人たちが通り過ぎていく。誰かの傘から落ちた雫が、私の靴先に小さく跳ねた。
すぐそばにいるのに、湊さんがひどく遠い。
「今日は帰ります」
湊さんが目を上げる。
「あなたに言われたからじゃありません。これ以上ここで話しても、相談にならないからです」
「……ああ」
「明日は待ちません。でも、距離を置くことに同意したとは思わないでください」
彼の返事を待たず、私は改札へ向かった。
一歩ごとに、追いかけてきてほしい気持ちと、追いかけるだけでは何も解決しないという気持ちがぶつかった。
けれど、背後に聞こえるのは、見知らぬ誰かの足音だけだった。
*
部屋へ戻ると、玄関に立てた紺色の傘が最初に目に入った。
今日は使わなかったから、乾いたままだ。
七年前、湊さんは雨の中で私に傘を渡し、自分は濡れて帰った。
あのころから何も変わっていない。
この人は誰かを濡らさないためなら、自分が傘の外へ出る。そして、自分が濡れるだけで済むと思っている。
「済んでないんだけどなあ……」
誰もいない部屋で呟くと、情けないくらい声が弱かった。
傘を受け取った側だって、平気ではいられない。自分だけ乾いた場所に立たされて、雨の中に残った人を見送るなんて、優しさと呼ぶには寂しすぎる。
スマートフォンを開く。
帰宅したことだけでも伝えようとして、やめた。意地を張りたいわけではない。ただ、何事もなかったような短いメッセージで、今夜の話を薄めたくなかった。
向こうからも、連絡は来なかった。
画面を伏せても、通知のない静けさばかりが気になった。
*
翌朝、私はいつもより十分早く出社した。
待たない朝は、思ったより長い。
駅から会社までの道も、エレベーターの階数表示も、昨日よりゆっくり進んでいる気がした。隣に誰もいないだけで、こんなにも時間の流れは変わるらしい。
エレベーターを降りると、すでに部長席の照明がついていた。
「おはようございます」
できる限り普通の声を出す。
湊さんはパソコンから顔を上げた。一瞬だけ視線が重なり、先に逸らしたのは私だった。
「おはよう、結城さん」
会社では当然の呼び方だ。それなのに、昨夜の「ひなた」を知っている耳には、薄いガラスを一枚挟まれたように聞こえた。
午前中、湊さんから私への直接の連絡は一度もなかった。
そもそも私の指示系統は三上さんに移っている。規定どおり。何もおかしくない。
おかしくないことが、こんなに苦しいのは困る。
視界の端で彼が席を立つたび、反射的に顔を上げそうになる自分にも困る。仕事をしよう。私は恋人である前に会社員だ。そう言い聞かせるほど、キーを打つ指に余計な力が入った。
「結城さん、桐谷側から回答が来たわ」
十一時過ぎ、三上さんに呼ばれた。
先方は、湊さんを責任者と窓口から外す会社案を受け入れた。私については協議から外さず、三上さんの管理下で担当を継続する。当面の企画を止めないための暫定合意だった。
「残れたんですね」
「ええ。あなたが会議で譲らなかった結果よ」
うれしいはずなのに、素直に息ができなかった。
私の席は残った。
その代わり、湊さんは企画から離れる。
喜びと痛みが同じ場所に落ちてきて、どちらを先に受け止めればいいのかわからない。
「喜んでいいのよ」
三上さんが静かに言った。
「別の問題まで、一度に背負わなくていい」
「顔に出てましたか」
「かなり」
氷の部長の恋人として、表情管理能力が足りない。もっとも、本人の表情管理は完成度が高すぎて、恋人にも中身が伝わらないのだけれど。
昼休み、あかねは私の顔を見るなり、何も聞かずに温かい缶コーヒーを差し出した。
「甘さ控えめ。今日は糖分より苦味の顔してるから」
「どんな顔、それ」
「一人で平気なふりしてる顔」
図星に、缶を開ける指が止まる。小さな音と一緒に、ほろ苦い香りが立った。
「距離を置きたいって言われた」
小声で打ち明けると、あかねの眉が跳ね上がった。
「また一人で守ろうとしてるの?」
「たぶん」
「霧島部長って、仕事では相談しろって言うくせに、自分の人生だけ稟議を通さないよね」
あまりに的確で、笑いそうになった。けれど、笑う前に目の奥が熱くなる。
「私まで逃げたくない。でも追いかけたら、それがまた攻撃の材料になるかもしれない」
「追いかけることと、黙って従うことの間にも、選択肢はあるでしょ」
私は缶の温度を両手で包んだ。
その熱が、冷え切っていた指先から少しずつ戻ってくる。
今夜、もう一度話そう。
帰りを待つのではなく、時間を決めて、正面から話す。相談を相談の形に戻すまで、何度でも。
湊さんが自分だけ傘の外へ出るなら、私は私の意思で、その腕をつかめばいい。
そう決めた直後、社内メールの通知が鳴った。
件名は「企画部体制再検討に関する面談」。宛先には白石部長代理、三上さん、湊さん、そして私が並んでいた。
嫌な予感に、缶を置く。マウスを握る手が、急に冷たくなった。
添付資料を開く。
一枚目に表示されたのは、配置変更申出書だった。
申請者、霧島湊。
希望時期、来月一日。
希望内容、企画部外への配置転換。
文字を目で追うほど、周囲の音が遠くなる。
提出日時は、昨夜の二十一時十三分。
待たなくていいと言ったその夜、彼はもう、私のいる部署から去る書類を出していた。
(第88話へ続く)




