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傘の下から出る人

 ——結城ひなたを、桐谷側との全協議から外すこと。


 読み直しても、文字は変わらなかった。


 雨粒が黒い傘を細かく叩いている。すぐ隣に湊さんがいるのに、頭上の音だけがやけに遠く聞こえた。


「私だけじゃなくて、二人とも外すんですね」


「ああ」


 湊さんはスマートフォンを伏せた。


「ここで話すことじゃない。三上さんに連絡する」


 二人の直接業務連絡は禁止されたままだ。湊さんが三上さんへ電話をかけ、申し入れが届いたことだけを伝える。ほどなく、三上さんが窓口兼進行役として参加し、発言を記録する臨時のオンライン協議が設定された。


 店から少し離れた喫茶店に入り、奥の二人席へ座った。テーブルの端にスマートフォンを置く。さっきまで食事をしていたのに、何かを注文しないと落ち着かなくて、私は紅茶を頼んだ。


 湊さんはコーヒーを頼んだ。


 こんなときでも迷わない。メニューを三往復して結局いつもと同じものを選ぶ私とは、決断にかかる時間の単位が違う。


「桐谷社長の申し入れは、企画の中止ではありません」


 仕事の話をする声に切り替えると、少しだけ呼吸が楽になった。


「三上さんを責任者と窓口にして、私たちは担当から外す。その形なら企画を続ける、と」


「正確には、俺は責任者から外れる。君は桐谷側との協議から外れる、だ」


「違いがありますか」


「ある。先方が君の社内業務まで指定することはできない」


 つまり、資料作成や分析には関われる余地がある。ただし、それを桐谷側へ説明する席には座れない。


 私の作った企画を、私ではない誰かが届ける。


 前の会社で何度も味わったことだった。名前のない資料だけが会議室へ運ばれ、評価も反論も、私には返ってこなかった。


 この会社へ転職して、ようやく自分の言葉で企画を説明できるようになったのに。


「私が食事の席で意見を言ったからでしょうか」


「可能性はある」


「だったら、これは仕事上の判断じゃありません」


「だとしても、私情によるものだと証明できなければ、会社は取引条件として扱う」


 湊さんの声は静かだった。


 静かすぎて、もう答えを決めている人の声に聞こえた。


「受け入れるつもりですか」


「月曜に改めて白石部長代理も交えて検討する」


「湊さんの考えを聞いています」


 一瞬、沈黙が落ちた。


「企画を守るなら、俺が外れることには異論はない」


 ああ、やっぱり。


 胸の奥で、小さく何かが冷えた。


「私を守るためですか」


「管理職としての判断だ」


「そう言えば、何でも一人で背負えると思ってませんか」


 少し強い言い方になった。けれど、引っ込める気にはなれなかった。


「七年前も、そうでした。私のためだと決めて、自分だけで線を引いた」


 湊さんの指が、コーヒーカップの取っ手に触れたまま止まる。


「今は仕事の話をしている」


「仕事の話に隠れて、同じことをしようとしているように見えます」


 言葉にしたら、怖くなった。


 私は湊さんを責めたいわけではない。ただ、彼が自分を差し出すことで全部を収めようとするのを、隣で見ていたくなかった。


「お願いです。月曜の話し合いまでは、一人で結論を出さないでください」


「……わかった」


「本当に?」


「信用がないな」


「前科がありますから」


 七年前の、とまでは言わなかった。


 湊さんも否定しなかった。


     *


 月曜の朝、第一会議室には湊さん、三上さん、白石部長代理、そして私が集められた。


 共用端末は回収されたままで、いつも置かれていた場所だけが四角く空いている。匿名メールの調査はまだ終わっていない。そこへ桐谷社長の申し入れが重なり、テーブルの上には問題ばかりが行儀よく並んでいた。


「先方は今日中の回答を求めています」


 白石部長代理が資料を閉じる。


「企画の中止は避けたい。ただし、取引先が当社の人員配置へ恒常的に介入する前例も作れません」


「責任者と窓口を私に一本化します」


 三上さんが言った。


「霧島部長は引き継ぎ後、決裁と対外協議から外れる。結城さんは企画チームに残し、分析と資料作成を続ける。ただし、先方との直接協議には一時的に出席しない。妥協点はそこでしょう」


 一時的に。


 その言葉に、私は顔を上げた。


「期限を決めてください」


 三人の視線が集まる。緊張すると早口になる癖が、喉のあたりで出番を待っていた。


「外部流出の調査が続いている間だけ、など、見直しの条件を明文化してほしいです。無期限に外されるなら、事実上の担当変更と同じです」


「先方が応じると思うか?」


 白石部長代理に問われ、膝の上で指を握った。


「応じるかどうかと、こちらが何も求めないことは別です。私が外れることで企画を守れるなら、一時的には受け入れます。でも、戻るための条件まで手放したくありません」


 三上さんが頷いた。


「一か月後に見直す。継続する場合は、先方から具体的な理由を書面で示してもらう。これを対案に入れましょう」


「異論は?」


 白石部長代理の問いに、湊さんが答えた。


「ありません」


 短い声だった。


 私の条件には反対しなかった。それでも、自分が外れることについては、期限も見直しも求めていない。


「霧島部長の扱いも同じにしてください」


 思わず口を挟んだ。


「結城」


「責任者から外れる理由が企画上の能力ではなく、今回の交際と外部流出への懸念なら、調査後に見直すべきです」


「俺は管理職だ。君とは責任が違う」


「違うから、自分だけは戻らなくていいんですか」


 会議室の空気が張った。


 しまった。仕事の顔をしている湊さんに、恋人としてぶつかってしまった。


 けれど、三上さんは私を止めなかった。


「結城さんの指摘には合理性があります」


 淡々とした援護射撃が飛んでくる。


「霧島部長についても、調査終了後に体制を再検討する文言を入れます。戻すと約束するのではなく、検討する機会を残す。それなら会社としても不自然ではありません」


 白石部長代理は数秒考え、資料へ書き込んだ。


「その内容で先方へ回答します。三上さん、文案を。霧島部長と結城さんは、返答があるまで現行の体制を維持してください」


 会議は終わった。


 自分の席は、ひとまず消えなかった。


 湊さんの席にも、戻るための細い道だけは残せた。


 それなのに、安心できなかった。


     *


 終業後、会社から離れた駅前で湊さんと会った。


 雨は上がっていたが、歩道にはまだ濡れた光が残っている。


「今朝はすみませんでした。会議中に、感情的になって」


「間違ったことは言っていない」


「でも、湊さんは嫌だったでしょう」


「嫌ではない」


「じゃあ、どうしてそんなに難しい顔をしてるんですか」


「元からだ」


 そこを真顔で押し切られると、少しだけ笑いそうになる。氷の部長は、自分の仏頂面を先天性のものとして処理するらしい。


 けれど、湊さんは笑わなかった。


「ひなた」


 会社の外で呼ばれる名前に、胸が反応する。


「企画の体制が決まるまで、二人で会うのは控えたい」


 反応した胸が、そのまま固まった。


「どうしてですか」


「匿名メールの送信者はまだ見つかっていない。俺たちの行動が、また君を攻撃する材料に使われる可能性がある」


「交際は会社にも伝えました。決められたルールも守っています」


「正しいかどうかと、傷つかないかどうかは別だ」


「だから、先に離れるんですか」


 湊さんは答えなかった。


 動揺すると黙る。知っているはずの癖が、今はひどく遠く感じる。


「これは相談ですか。それとも、もう決めたことですか」


「頼んでいる」


「私が嫌だと言ったら?」


 濡れた歩道を、車のライトが横切った。


 湊さんはいつもなら私へ伸ばすはずの手を、コートのポケットに入れた。


「なら、明日からの距離を、二人で決めたい」


(第87話へ続く)

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