私の席で答える
美桜さんに案内されたのは、同じ店の奥にある個室だった。
廊下には出汁の香りと、控えめな琴の音が漂っている。わずか数メートル歩いただけなのに、足の裏がやけに床へ張りついた。
こういうとき、人はもっと堂々と歩けないものだろうか。少なくとも私は無理だ。鞄の持ち手を握りすぎて、指まで痛い。
美桜さんが引き戸を開ける。
先に席へ着いていた湊さんが、私を見て立ち上がった。
「結城?」
驚いたときでも声の温度がほとんど変わらないのは、さすが氷の部長である。
けれど、椅子の背に置かれた手だけが、わずかに強く握られていた。眉間のしわも、いつもよりほんの少し深い。
他人には誤差でも、私にはわかる。
「父が呼びました」
美桜さんが説明すると、奥に座っていた桐谷社長が私を見た。
「急に呼び立てて申し訳ない。だが、本人がいないところで話を決められたとは思われたくなくてね」
穏やかな口調だった。
だからこそ、背筋が冷える。
呼ばれて五分で来た人間へ向けるには、あまりにも整った言葉だ。ここは会食の席なのに、テーブルが面接会場か交渉の場にしか見えない。
「お招きいただき、ありがとうございます」
仕事用の声で答え、一礼する。声だけなら、たぶん平静を装えている。長年の会社員生活は、こういうときに役立つらしい。
湊さんの隣が空いていた。
けれど、そこへ座っていいのか一瞬迷う。部下としてなら上司の隣。恋人としてなら、それ以上の意味を持つ席だ。
迷っていると、湊さんが椅子をわずかに引いた。
「座って」
短い声に押され、私は隣へ腰を下ろした。
近い。
会社では意識して空けている距離より、ずっと近い。スーツの袖が触れそうなのに、テーブルの上には四人分の冷たい緊張が並んでいる。
せめてお茶くらい飲みたい。でも湯呑みを持つ手が震えたら、私の平静が一口目で終了する。
「結城さんには、娘から事情を?」
「縁談のお話と、企画に関する条件は伺っています」
「なら、話は早い」
桐谷社長は湊さんへ向き直った。
「私は君を高く評価している。仕事だけではない。責任感も、判断力もだ。娘の相手として申し分ないと思っている」
取引先の社長から寄せられる、最大級の評価。普通なら光栄な言葉のはずなのに、その一つ一つが逃げ道を塞ぐ石のように感じられた。
「評価はありがたく受け取ります。ただ、縁談はお断りします」
迷いのない返事だった。
わかっていたのに、胸の奥が熱くなる。
同時に、申し訳なさにも似た痛みが刺さった。私が隣にいるせいで、彼は取引先の社長を前に、これを言わなければならない。
まただ。
私はすぐ、自分を原因にしたがる。たぶん、自分を責めるほうが、誰かの選択をそのまま受け止めるより簡単なのだ。
湊さんが今ここで断っているのは、私が彼に無理をさせているからではない。彼自身が考え、彼自身が選んだ答えだ。
「理由は、彼女か」
「彼女がいなくても、望まない縁談は受けません」
その言葉に、私は息を止めた。
嬉しいのに、少しだけ寂しい。恋人という生き物は面倒だ。私のためだと言われれば重荷を心配し、私のためではないと言われれば勝手にしょんぼりする。
自分でも手に負えない。社内規程にも取扱説明書にも、恋心の管理方法は書いていなかった。
けれど、続いた声は静かだった。
「そのうえで、俺が共にいたいと望んでいるのは結城です」
耳が一気に熱くなった。
今、取引先の社長と縁談相手の前ですけど。
心の中で慌てても、言葉はもう私の胸へ落ちている。触れそうな袖の向こうから、体温まで伝わった気がした。
こちらを見ずに言うのが、いかにも湊さんらしい。堂々としているように見えて、こういうときだけ不器用なのだ。
桐谷社長は表情を変えなかった。
「その交際が原因で、御社では騒ぎが起きている。外部へ情報まで流出した。それでも仕事に影響はないと言えるのかね」
「社内調査と再発防止は、当社が責任を持って進めています」
「質問に答えていない」
一拍、沈黙が落ちる。
空調の風がかすかに障子を鳴らした。その小さな音まで、やけに大きく聞こえる。
湊さんが答えるより先に、私は口を開いていた。
「影響は、ありました」
三人の視線が集まる。
逃げたい。今すぐ障子の隙間から薄くなって消えたい。私の心臓は、注目を浴びるとすぐ退職届を出したがる。
それでも、膝の上で手を握り、顔を上げた。
「調査中は業務上の連絡が制限されましたし、社内には監査の負担もかけています。取引先の皆様にも、ご心配をおかけしました」
「では、交際を続けることが最善だと?」
鋭い問いだった。恋人を守りたいだけの部下と思われれば、ここで終わる。
「交際をやめれば、起きた問題が解決するとは思いません」
声が震えないよう、ゆっくり言葉を選ぶ。
「共用端末の管理や外部流出の経路は、誰と誰が交際しているかとは別に検証すべき問題です。私たちの関係については、評価や決裁から霧島部長を外し、記録と監査を入れる運用が始まっています」
「制度を整えれば、周囲の疑念まで消えるかな」
「すぐには消えないと思います」
認めると、隣で湊さんがわずかに動いた。スーツの布がかすかに擦れる。
きっと、私を庇おうとしたのだ。
でも、ここは私にも答えさせてほしい。
湊さんに守られるだけの私では、対等に隣へ座っているとは言えないから。
「だから、仕事で示します。企画から外されないために交際を隠すのでも、交際を守るために仕事を譲るのでもなく、決められた条件の中で結果を出します」
「ずいぶん理想的な答えだ」
「はい。まだ、理想です」
喉が乾く。それでも目は逸らさなかった。
「でも、試す前から無理だと決められたくありません」
言い切った瞬間、胸の中で張りつめていたものがほどけた。
勝ったわけではない。納得させた手応えもない。膝の上の手はまだ冷たいままだ。
それでも、私は私の席で答えた。
誰かに守られて与えられた席でも、誰かから奪った席でもない。自分の仕事と、自分の気持ちに責任を持つための席だ。
テーブルの下で、湊さんの指先が私の手の甲へ一瞬だけ触れた。
握るのではなく、そこにいると確かめるような接触だった。
たったそれだけで、心臓が仕事を忘れる。今は真剣な場面です、と注意したいのに、私の心臓は上司の指示すら聞かない。
指先が離れたあとにも、そこだけ熱が残っていた。
「父さん」
美桜さんが口を開いた。
「私も、企画を条件に縁談を迫ることには賛成していません」
桐谷社長の眉がわずかに動く。
「お前のためでもある」
「私のためなら、私に選ばせてください」
美桜さんは背筋を伸ばしたまま、はっきりと言った。
「私は霧島さんとの縁談を望んでいます。でも、仕事を人質にして選ばれたいわけではありません」
胸の奥が複雑に揺れた。
味方になってくれた、と単純に喜ぶことはできない。美桜さんは退かないと言った。その気持ちは今も変わっていない。
けれど、その率直さを嫌うこともできなかった。
彼女もまた、父親の条件で動かされる人ではないのだ。私と立場は違っても、自分で選びたいという気持ちは同じだった。
桐谷社長はしばらく黙ったあと、湯呑みへ手を伸ばした。蓋が陶器に触れ、硬い音を立てる。
「条件という言い方は撤回しよう」
安堵しかけた私に、すぐ次の言葉が落ちる。
「だが、責任者の適格性を判断するのは取引先の権利だ。霧島君がこの企画を続けることに、私は懸念を表明する」
「承知しました。業務上の申し入れとして、当社で検討します」
湊さんは淡々と受け止めた。
その横顔からは何も読み取れない。けれど、さっき一瞬触れた指先の温度を知っている私は、彼の内側まで冷たいわけではないと知っていた。
食事はほとんど味がしなかった。
上品に盛りつけられた料理を口へ運んだ記憶はあるのに、何を食べたかと聞かれたら答えられない。緊張は最高級の味覚破壊調味料らしい。
個室を出るころには、午後の雨が窓を細く濡らしていた。
美桜さん親子と別れ、湊さんと二人で店の軒下に立つ。雨粒が石畳を濃く染め、湿った風が火照った頬を冷ましていく。
「来るなら、先に連絡してほしかった」
「連絡する時間がありませんでした」
「それでも」
低い声に、叱られているような、心配されているような響きが混じる。
「来ないほうがよかったですか」
聞くと、湊さんは黙った。
動揺すると、一瞬黙る。七年前から変わらない癖だ。
雨音の間に落ちた沈黙は、個室でのものよりずっと柔らかかった。
「……いや」
やがて、低い声が返る。
「隣にいてくれて、助かった」
雨で冷えた空気の中、その言葉だけが温かかった。
守るでも、守られるでもなく、隣にいる。
さっき私が欲しいと思った関係を、湊さんも同じ言葉で受け止めてくれた気がした。
「私もです」
笑って答えると、湊さんは傘を開いた。
大きな黒い傘が頭上に広がる。いつものように私の側へ少し傾けられたそれを見て、胸の奥がくすぐったくなった。
けれど、歩き出す前にスマートフォンが震える。
画面を見た彼の横顔から、わずかに温度が消えた。
「会社からですか」
「ああ」
湊さんは短く答え、私に画面を向けた。
三上さんから転送された、桐谷社長名義の正式な申し入れだった。
つい先ほどまで同じ部屋にいた人の名前が、雨に滲む景色よりも冷たく画面に浮かんでいる。
そこには、企画の継続条件として、霧島湊を責任者から外すことに加え、もう一つの要望が記されていた。
——結城ひなたを、桐谷側との全協議から外すこと。
(第86話へ続く)




