譲らない人
土曜日の夕方、昨夜の雨は上がっていた。
けれど、歩道にはまだ濡れた色が残っている。曇り空まで映した水たまりを避けながら、私は待ち合わせの場所へ向かった。
美桜さんからの面談を受けると決めたあと、湊さんにはきちんと連絡した。
『桐谷さんから、食事の前に二人で話したいと連絡がありました。私一人で行ってきます』
返事は、少し間を置いて届いた。
『わかった。君の判断を尊重する』
それからもう一通。
『答えたくないことには、答えなくていい。終わったら連絡してくれ』
行くなとも、何を話すのか聞き出そうともしなかった。
昨夜までの湊さんなら、「俺が対応する」と言っていたかもしれない。私を守るために、私の出番まで奪って。
尊重する、という文字がうれしかった。
それでも、画面を閉じたあとの緊張まで消してくれるほど、恋人のメッセージは万能ではない。残念ながら、心臓に既読機能はついていないらしい。
待ち合わせは、夕食の場所と同じ建物にあるラウンジだった。
約束の十分前に着いたのに、美桜さんはすでに窓際の席に座っていた。淡い色のジャケットに、膝の上へ重ねた手。休日でも隙がない。
「お時間をいただき、ありがとうございます」
「こちらこそ、お声がけいただいてありがとうございます」
向かいに座ると、すぐに店員が来た。私はコーヒーを頼んだものの、飲める気はあまりしない。こういうときに限って平然と注文できる人間でありたいけれど、口の中は緊張で砂漠だった。
美桜さんは、テーブルの上に置いていたスマートフォンを伏せた。
「霧島さんには、今日のことを?」
「伝えました」
「止められませんでしたか」
「私の判断を尊重すると言われました」
美桜さんの眉が、ほんの少し動いた。
「そうですか。やはり、以前とは違うんですね」
また、「以前」だ。
胸の奥に小さな棘が触れる。でも、今日はそこから目を逸らさない。
「二人で話したいとおっしゃった理由を、聞いてもいいですか」
「霧島さんの答えを通さず、あなた自身の考えを知りたかったからです」
運ばれてきたコーヒーから、細い湯気が立つ。
美桜さんはカップには触れず、私を見た。
「先に、曖昧にしないでおきます。私は霧島さんに好意があります」
覚悟していたはずの言葉が、胸の真ん中へ落ちた。
会議室で縁談を受けると言われたときとは違う。家同士の都合でも、仕事上の条件でもない。彼女自身の気持ちだ。
指先が冷えそうになり、私はカップを包んだ。
「いつからですか、と聞いても?」
「明確にいつからかは、私にもわかりません。仕事でご一緒する中で、信頼できる方だと思うようになりました。感情だけで判断せず、責任から逃げない。あの方となら、人生を並んで歩けると考えています」
恋に浮かされた言葉ではなかった。
だからこそ、強い。
私が知っている湊さんの長所を、美桜さんも知っている。冷たいように見えて、誰より細かなところを見ていることも。自分のことを後回しにしてしまうほど、責任を引き受ける人だということも。
好きな人の魅力を恋敵の口から正確に説明されるなんて、できれば一生受けたくない研修だった。
「結城さんは、霧島さんに何を望んでいますか」
問いは静かだった。
けれど、答えを選ぶための逃げ道は用意されていない。
「自分を犠牲にして、問題を片づけないでほしいです」
「それは今回、企画から外れないでほしいという意味ですか」
「それだけではありません」
私はカップから手を離した。
「企画に残ることも、外れることも、縁談を受けることも、断ることも。誰かのために先回りして一人で決めないでほしいんです。私と話して、自分がどうしたいのかを選んでほしい」
「その結果、あなたの企画に不利益が出ても?」
喉が詰まった。
簡単に「はい」と言えば、きれいに聞こえる。でも、不利益を受けるのは私だけではない。三上さんも、あかねも、羽田くんも、企画に関わってきた人たちもいる。
「不利益が出ないように、仕事としてできることは全部します。企画の価値は、資料と実績で説明します」
「それでも、避けられなかった場合は」
「その責任まで、湊さん一人に背負わせません」
声が震えそうになる。
それでも、言葉を途中で引っ込めなかった。
「縁談を受ければ企画に残れる、断れば外される。そんな条件で選ばせること自体が違うと思っています」
「父のやり方を批判しているんですね」
「はい」
言ってしまった。
取引先の社長令嬢を前に、父親のやり方を批判する。月曜日の私が知ったら、机の下へ潜り込むかもしれない。
けれど、美桜さんは怒らなかった。
「私も、あの条件を利用して縁談を受けてもらうつもりはありません」
「え……」
「父には、条件を撤回するよう伝えました。聞き入れてはもらえませんでしたが」
思わず息を止める。
「では、どうして縁談を受けると?」
「父の条件がなくても、私は望んでいるからです」
まったく揺れない声だった。
「霧島さんに交際相手がいると知っても、その気持ちは変わりませんでした。今すぐ同じだけの好意を返してもらえるとは考えていません。ただ、あなたがいるという理由だけで、私から可能性を手放すつもりもありません」
胸が痛んだ。
でも、不思議と彼女を嫌いにはなれなかった。
美桜さんは、父親の条件の後ろに隠れてはいない。家の力を使って湊さんを奪うとも言わない。ただ、自分の気持ちをなかったことにしないと宣言している。
それは、七年前の傷を言い訳にして何度も逃げかけた私より、ずっと強い姿だった。
「私も、手放しません」
口にした瞬間、心臓が大きく鳴った。
美桜さんの視線を受け止める。
「湊さんが自分で私を選ばないなら、受け入れます。でも、私のほうから身を引いて、選択肢を減らすことはしません」
「企画を守るためでも?」
「それをしたら、湊さんと同じ間違いをします」
相手のためだと言いながら、勝手に答えを決める。
七年前、湊さんが私にしたこと。
そして私も、傷つくのが怖くて何度もやりかけたこと。
「私の気持ちは、私が引き受けます。重荷になるかどうかまで、先回りして決めません」
言い終えると、肩に入っていた力が少し抜けた。
美桜さんは、そこで初めてコーヒーへ手を伸ばした。
「あなたが、ただ守られている人ではないことはわかりました」
「守ってもらってもいます」
反射的に付け加えると、美桜さんが一度まばたきをした。
「一人で強くなれたわけではないので。私も守りたいし、守られたいです」
言ってから、耳が熱くなる。
格好よく言い切った直後に恋人への惚気を混ぜる必要があっただろうか。私の口は、ときどき脳内会議を通さずに発言する。
けれど、美桜さんは笑わなかった。
「それができるなら、霧島さんにとっては必要な相手なのかもしれません」
胸がわずかに緩む。
「ただし、私はまだ退きません」
ですよね。
現実は、都合よく一杯のコーヒーで和解してはくれない。
「はい。私も、そのつもりで来ました」
テーブルの上の空気が、ようやく少しだけ動いた。
勝ち負けが決まったわけではない。むしろ、美桜さんが父親の条件とは関係なく湊さんを望んでいると知って、怖さは増した。
それでも、顔の見えない縁談という言葉に怯えていたときよりはいい。
私は今、自分の気持ちでここに座っている一人の女性と向き合っている。
そのとき、美桜さんのスマートフォンが震えた。
画面を確認した彼女の表情が引き締まる。
「父です。失礼します」
短く断ってから、通話に出た。
「はい。今、結城さんと一緒です」
いきなり名前を出され、背筋が伸びた。
美桜さんは数秒、相手の話を聞いていた。
「……わかりました。本人に確認します」
通話が切れる。
壁の時計は、十八時五十五分を指していた。湊さんとの食事が始まるまで、あと五分。
「父が、食事の席を一つ増やしたそうです」
美桜さんは伏せていたスマートフォンをテーブルへ置いた。
「結城さんにも来てもらう、と」
心臓が跳ねる。
予定になかった当事者を突然呼びつけ、同じ席で答えを迫る。それが桐谷社長のやり方なのだろう。
怖い。
それでも、私が行かなければ、私のいないところで私たちの未来が条件にされる。
私は鞄を持ち、椅子から立ち上がった。
「行きます」
(第85話へ続く)




