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二人分の答え

「縁談を断るなら、今の企画から俺を外せ、と」


 雨音が急に遠くなった気がした。


 握られた手は温かいのに、胸の内側だけがすうっと冷えていく。黒い傘の下は肩が触れそうなほど狭く、湊さんの体温も、濡れたスーツの匂いも近い。それなのに、今聞いた言葉だけが私たちの間に冷たい壁を立てていた。


「それは……誰が言ったんですか」


「桐谷社長だ」


「美桜さんのお父さまが?」


「ああ。食事の誘いを受けると返したときに、直接言われた」


 つまり、週末の席は最初からただの食事ではない。


 縁談を受けるか、仕事から退くか。


 人の人生を二択にするには、ずいぶん乱暴な献立だ。前菜として出されても到底のみ込めそうにない。


「湊さんは、なんて答えたんですか」


「まだ何も」


 息が少し戻る。


 けれど、その安堵は次の言葉で簡単に止められた。


「ただ、企画から外れることは検討している」


「どうしてですか」


 思ったより強い声が出た。


 湊さんの眉がわずかに動く。けれど、私の手は離さなかった。傘を打つ雨よりも、自分の鼓動のほうがうるさい。


「先方が俺を責任者として信用できないと言うなら、無理に残ることで企画そのものを止めるわけにはいかない」


「今日の会議では、企画と交際は切り分けるって確認しました」


「桐谷さんは、そう判断した。だが、最終的な決定権を持つのは社長だ」


「だからって」


「君たちが積み上げてきた仕事まで失わせる必要はない」


 君たち。


 その中には私も入っている。


 私の仕事を守ろうとしてくれている。そのことはわかる。わかるからこそ、素直にうなずけなかった。


 七年前も、この人はきっと同じ顔で決めたのだ。


 私を自分の事情に巻き込まないために。私のこれからを守るために。


 私に何も聞かないまま、一人で正しい答えを選んだ。


 正しい答えは、ときどき鍵のかかった扉に似ている。中にいる人は守れても、その人自身が外へ出たいと思っていることには気づけない。


「私のためですか」


「君のためだけじゃない。企画部全体のためだ」


 冷静な答えだった。


 正しい。いかにも部長らしくて、反論の隙がない。


 なのに、胸の奥が痛んだ。


「それ、ずるいです」


「……何がだ」


「部長として正しいことを言われたら、私が何も言えなくなるのを知ってるくせに」


 湊さんが黙った。


 傘の縁から落ちた雫が、二人の靴の間で弾ける。


 私は握られた手に力を返した。逃げないためというより、逃がさないためだった。


「仕事として必要なら、担当を替える判断はあると思います。私だって企画職です。それくらいはわかります」


「ああ」


「でも、その条件が縁談と引き換えに出されたなら、仕事だけの話じゃありません」


 喉が震えそうになる。


 怖い。


 湊さんが私を選ばないことより、私を選んだ結果として、また自分の大切なものを手放そうとすることが怖かった。


 恋人になることは、片方が犠牲になる許可証を渡すことではないはずだ。少なくとも私は、そんな形で守られたいわけではない。


「私と付き合ったせいで外れる、なんて決め方をしないでください」


「君のせいじゃない」


「湊さんがそう言っても、私はそう思います」


「結城」


 雨の中で名前を呼ばれる。


 会社では禁じられた呼び方が、近すぎる距離で胸に落ちた。


「俺が外れれば、企画は続けられる」


「続けば、それでいいんですか」


「少なくとも、君の仕事は残る」


「また、私が望んでいない守り方をするんですか」


 言った瞬間、湊さんの指が止まった。


 傷つけたかもしれない。


 それでも、今は引き返したくなかった。


「七年前も、湊さんは私に何も聞かなかった」


「……ああ」


「私のためだと思って、一人で答えを出した。今度も同じことをするなら、私はまた、決められた結果だけを受け取ることになります」


「同じにはしない」


「じゃあ、相談してください」


 今度は迷わず言えた。


「決めてから説明するんじゃなくて、決める前に話してください。私にも一緒に困らせてください」


「一緒に、困る?」


「はい」


 自分で言っておいて、妙な頼みだと思う。


 普通は幸せにしてほしいとか、守ってほしいとか、もっと恋人らしいお願いをするものではないだろうか。一緒に困らせてほしいなんて、色気が迷子にもほどがある。


 でも、私が欲しいのは、きれいに片づけられた結果ではなかった。


 守られているだけなら、私はいつまでも湊さんの背中しか見られない。隣に立つと決めたのだから、面倒も迷いも同じ場所から見たかった。


「二人に関係することなら、困るところから二人分にしたいんです」


 湊さんは何も言わなかった。


 黒い傘に雨粒が絶え間なく当たる。その音を数えるような長い沈黙のあと、彼は小さく息を吐いた。


「また、先に決めかけた」


「はい」


「君を守るつもりで」


「はい」


「同じことをするところだった」


 認める声は低く、苦かった。


 私は少しだけ指の力を緩めた。


「気づいたなら、まだ罰金一杯で済みます」


「今回は高くないか」


「企画一本に比べたら格安です」


 湊さんの口元が、ほんのわずかに緩む。


 つられて笑いそうになって、けれど、まだ安心しきってはいけないと心臓が注意してくる。私の心臓は最近、上司より細かい。


「土曜日、縁談は断る」


「はい」


「だが、企画から外れるという条件には、その場で返事をしない。会社同士の話として正式に持ち帰る」


 私は顔を上げた。


「一人で決めませんか」


「決めない。白石部長代理と三上にも共有する。必要なら、企画部で対応を協議する」


「私にも?」


 一瞬だけ間があった。


 その一瞬に、湊さんの長年の癖が抵抗したのだとわかった。


「ああ。君にも話す」


 ようやく、胸の中で固まっていたものがほどけた。


 企画から外れなくて済むと決まったわけではない。桐谷社長が条件を撤回する保証もない。


 それでも、結果だけを知らされることはない。


 私たちは今、同じ問題の前に立っている。


「ありがとうございます」


「礼を言われることじゃない」


「じゃあ、遅いです」


「……それは否定できない」


 湊さんの親指が、私の冷えた指の節を一度だけなぞった。


 あまりに小さな動きだったのに、そこだけ熱が集まったみたいに感じる。雨の夜に手を握って深刻な話をしているのに、ときめく余地を見つける自分がたくましい。


 駅へ向かう角で、私たちは手を離した。


 会社から十分以上離れていても、誰に見られるかわからない。隠すためではなく、決めたルールを守るための距離だ。


 離れた指先が急に寒い。さっきまで分けてもらっていた温度が、そこに形を残しているようだった。


「帰ったら連絡する」


「待ってます」


 その一言を交わせることが、今夜は何より心強かった。


     *


 翌朝、出社してメールを開くと、見慣れない件名が一番上にあった。


『私的な面談のお願い』


 差出人は、桐谷美桜さん。


 仕事の連絡先しか知らないはずの彼女から、私個人へ宛てられている。


 始業前のオフィスでは、複合機の動く音やキーボードを叩く音がいつもどおり重なっていた。けれど、その件名を見た瞬間、私の周囲だけが不自然に静かになった。


 本文は短かった。


『突然のご連絡をお許しください。明日の食事の前に、結城さんと二人でお話しする時間をいただけませんか』


 指定されていたのは、土曜日の午後六時半。


 湊さんが桐谷社長と食事をする、その三十分前だった。


 相談してください、と私は昨夜言った。


 だから、まず湊さんへ知らせるべきなのだろう。


 けれど、これは美桜さんが私に求めた時間だ。


 私は返信欄を開き、震えそうになる指で一文を打った。


『承知しました。私一人で伺います』


 読み返してから、送信ボタンを押した。


(第84話へ続く)

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