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選ぶ権利

 エレベーターの扉が、何事もなかったように閉まり始めた。


 三上さんが開ボタンを押す。銀色の扉は途中で止まり、もう一度左右へ開いた。無機質な電子音だけが、張りつめた廊下に場違いなくらい明るく響く。


 止まってほしいのは、そっちじゃない。


 私の頭の中で何度も反響している、縁談という言葉のほうだ。


「桐谷さん」


 湊さんの声は低かった。横顔はいつものように冷静で、表情から考えを読み取ることはできない。なのに、名前を呼ぶまでのわずかな間だけが、妙に長く感じられた。


「俺は、その話を受けると言ったことはない」


「承知しています」


 美桜さんは少しもひるまなかった。


「ですから、父は返事を聞くために食事の席を設けたがっています。私は自分の意向を、先にお伝えしただけです」


 受けるつもりです。


 あれは決定の報告ではなく、宣言だったらしい。


 よかった。まだ決まっていない。


 そう安心しかけて、すぐに自分へ突っ込みを入れる。待って。まだ、って何。決まる可能性を勝手に残さないで、私。


 胸の中で安心と不安が同時に椅子取りゲームを始めている。しかも、どちらも席を譲る気がないらしい。


「この場でする話ではありません」


 白石部長代理の硬い声が廊下を切った。


「先方との協議は終了しています。私事は業務から切り分けてください」


「失礼しました」


 美桜さんは素直に頭を下げた。それから、私にも同じように向き直る。


「結城さんにも、突然このようなことを申し上げて申し訳ありません」


 まっすぐな目だった。勝ち誇る色も、私を試すような色もない。ただ、自分の言葉に責任を持つ人の目。


 だからこそ、曖昧に笑って流すことができなかった。


 謝られて、はいそうですかと笑えるほど、私の心臓は高性能ではない。現在、過剰な情報を処理しきれず、盛大に熱暴走中だ。


 それでも、ここで黙ってエレベーターに乗ったら、七年前の私と同じだと思った。


 相手の言葉だけを抱えて、自分の疑問を飲み込んで。あとから一人で、いくつもの答えを想像して傷つく。あの頃は、それが相手を困らせないための優しさだと信じていた。


 でも、違った。


 聞かないことは、相手の答えを勝手に決めることでもある。


「あの」


 自分でも驚くほど、声は普通に出た。膝は少し頼りないのに、声だけが先に大人のふりをしてくれたらしい。


「一つだけ、確認してもいいですか」


 美桜さんがうなずく。


「その縁談に、霧島さん本人は同意しているんですか」


 隣で湊さんが息を止めた気配がした。


 本人がいるのに本人以外へ尋ねるなんて、少し変かもしれない。でも、美桜さんが私へ宣言したことなら、美桜さんの口から事実を確かめたかった。


 それに今、湊さんの顔を見たら、私はきっとそこに答えを探してしまう。欲しい答えだけを読み取るのも、怖い答えを想像するのも嫌だった。


「いいえ。現時点では」


 はっきりした返事だった。


「父が以前から望んでいる話です。霧島さんには、その都度断られています」


 その都度。


 一回ではないらしい。


 胸を締めつけていた紐が少し緩む。けれど、完全にはほどけない。


「それでも、受けるつもりだと?」


「はい」


 迷いのない声が、胸の奥へまっすぐ刺さる。


「断られていることと、私が望むことは別ですから。ただし、霧島さんの意思を無視して話を進めるつもりはありません」


 強い人だ。


 立場があるからでも、社長令嬢だからでもない。自分が望んでいることを、拒まれる可能性ごと口にできる人なのだ。


 七年前、たった一度断られただけで、自分の気持ちは誰かの重荷になるのだと思い込んだ私とは違う。


 比べる必要なんてないのに、心は勝手に点数をつけたがる。しかも採点基準は私にだけ厳しい。まったく公平性に欠ける審査員だ。今すぐ解任したいのに、残念ながら私の心の中で終身雇用されている。


「確認できました。ありがとうございます」


 私は頭を下げ、開いたままのエレベーターへ乗った。


 湊さんも続こうとしたけれど、美桜さんが呼び止める。


「霧島さん。土曜日の七時です。父には、出欠だけでも今日中に返事をください」


「わかった」


 その一言を最後に、扉が閉まった。


 閉じきる直前まで、湊さんの視線が私を追っていた。


 私は見返せなかった。階数表示の数字を見つめながら、土曜日、七時、と頭の中で繰り返す。たった五文字と一つの数字が、息苦しいほどの重さを持っていた。


     *


 帰社してからの私は、驚くほど仕事ができた。


 正確には、仕事しかできなかった。


 会議記録を整理し、先方への月次報告の項目案を作り、三上さんへ確認を依頼する。文字を打っている間だけは、土曜日の七時を考えずに済む。


 キーボードを叩く音、複合機の作動音、誰かが交わす短い会話。いつもと変わらない職場の音に紛れていれば、今朝のことまで通常業務の一部だったような気がした。


「結城さん、この数値の参照元だけ追記して」


「はい」


 三上さんは余計なことを聞かなかった。


 湊さんも、部長席からこちらへ来なかった。


 今の運用では、それが正しい。私の業務指示は三上さんが行い、湊さんは私に関係する決裁から外れている。


 私たちが選んだ、互いを守るための線引きだ。頭では理解している。理解しているのに、書類越しに見える湊さんの横顔が、今日はひどく遠い。


 正しい距離が、今日はやけに遠い。


 昼休み、あかねにメッセージで非常階段前へ呼び出された。


 扉を開けた瞬間、彼女は私の顔を見て眉を寄せた。手には買ったばかりらしい紙カップがあるのに、一口も飲んだ様子がない。


「何があったの」


「まだ何も決まってない」


「その前置き、何かあった人しか使わないやつ」


 さすが本音担当。逃がしてくれない。


「湊さんに、縁談があるみたい」


 あかねの口が開いたまま止まった。


「相手は、今朝来た取引先の人。桐谷美桜さん」


「ちょっと待って。情報量が昼休み向きじゃない」


「私も朝の廊下向きじゃないと思った」


「で、霧島部長は?」


「今までは断ってる。本人も、受けると言ったことはないって」


 あかねの肩が目に見えて下がる。


「じゃあ、大丈夫じゃない」


「でも、美桜さんは受けるつもりだって」


「縁談って一人で受けられるものだっけ」


 その言い方に、少しだけ笑いそうになった。固まっていた頬が緩み、ようやくまともに息を吐ける。


「そうなんだけど」


「ひなたが怖いのは、縁談そのもの?」


 すぐには答えられなかった。


 美桜さんは二十九歳で、冷静で、有能で、湊さんの過去を知っている。取引先社長の娘で、家族ぐるみらしい食事の席にも自然に名前が並ぶ。


 並べるほど、自分にないものばかりが目につく。私は十二歳も年下で、今も会社では守られる側に見られやすい。湊さんの隣に立ちたいと願いながら、隣にふさわしいかを気にしてしまう。


「私より、湊さんに似合う人に見えた」


 口にすると、情けないほど小さな声になった。


 あかねはすぐに否定しなかった。安っぽい慰めで塞がず、私の不安がそこにあることを、いったん受け止めてくれる。


「それ、ひなたが決めることじゃないよ」


「うん」


「桐谷さんが決めることでもない。決めるのは霧島部長」


 そして、と彼女は私の額を指で軽く突いた。


「霧島部長の答えを聞くのは、ひなたの権利」


「権利、かな」


「恋人なんでしょ」


 その一言が、縮こまっていた胸の真ん中へ落ちた。


 そうだ。


 私は、たまたま近くにいる部下ではない。隠すのをやめた今も、騒ぎの渦中にいる今も、湊さんの恋人だ。


 選ばれるかどうかを遠くで待って、勝手に身を引く役ではない。


 聞くのが怖くても、聞いていい。欲しい答えを押しつけるのではなく、彼の答えを受け止めるために。


     *


 終業後、ビルを出ると雨が降っていた。


 細かな雨粒が街灯の光を白くにじませ、朝にはなかった傘の群れが歩道を埋めている。湿ったアスファルトの匂いと、車が水を跳ねる音。冷たい風が頬を撫でた。


 私は鞄から折り畳み傘を出し、開く前にスマートフォンを握った。


 湊さんへ、短いメッセージを送る。


『今日、少しだけ話せますか』


 送信してから、心臓が遅れて暴れ始めた。少しだけ、なんて、我ながらずいぶん控えめだ。本当は安心できるまで話したいくせに。


 業務の話ではない。だから規則に反してはいない。それでも会社の前で待つのは避けて、駅とは反対側へ歩く。


 数分後、着信が震えた。


『十分後、いつもの店の近くで』


 文字を見ただけで、冷えていた指に少し温度が戻る。


 店の一本手前の通りで待っていると、黒い傘が雨の向こうから近づいてきた。


 見慣れた長身が雨の幕の向こうで輪郭を結ぶ。湊さんは私を見つけると足を速めたが、すぐ隣ではなく、一歩分を空けて止まった。


「待たせた」


「いいえ」


 傘を打つ雨音が、二人の間を埋めている。顔を見れば聞けなくなりそうで、私は彼のネクタイの結び目へ視線を置いた。


 けれど、ここまで来て逃げたら、また七年前へ戻ってしまう。


 雨音に紛れそうな声を、息と一緒に押し出す。


「土曜日の食事、行くんですか」


「ああ」


 胸が強く縮んだ。


 たった一音で、足元の冷たさが一気に這い上がってくる。わかりました、と聞き分けのいい言葉が喉まで出かかった。


 けれど、俯く前に湊さんの手が伸びた。傘を持つ私の指先へ触れ、逃げる隙もないほどまっすぐ握る。


 雨に冷えた私の手を包む掌は、驚くほど温かかった。会社では決して縮めなかった一歩分の距離が、指先から一瞬で消えていく。


「断るために行く」


 雨の中でも聞き違えようのない声だった。


 顔を上げると、湊さんはまっすぐ私を見ていた。曖昧に慰める目ではない。私にきちんと伝えると決めた人の目だった。


 安堵で力が抜けかけた、そのとき。


「ただ、桐谷社長から条件を出されている」


 低くなった声に、ほどけかけた胸が再び固まる。


 握られた指に、湊さんの力がわずかに増した。


「縁談を断るなら、今の企画から俺を外せ、と」


(第83話へ続く)

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