旧知の人が座る席
翌朝も、雨は細く降り続いていた。
先方のビルに着き、濡れた傘を袋へ入れながら、私は昨夜から何度目かわからない深呼吸をした。
桐谷美桜。
社長室・事業戦略担当。そして、湊さんの旧知。
たった二文字なのに、「旧知」は想像力へ渡す材料が多すぎる。
いつから知っているのか。どれくらい親しいのか。私は会ったことがあるのかと尋ねたかったけれど、昨日は仕事の連絡すら慎重に扱う状況だった。まして恋人としての質問を、社内で投げるわけにはいかない。
結果、私の脳内では勝手に人物像だけが育った。
知的で、隙がなくて、湊さんと並んでも釣り合う大人の女性。
……会う前から完成度を上げてどうする、私。
「結城さん」
三上さんに呼ばれ、慌てて顔を上げる。
「傘袋、落ちますよ」
「あっ」
握っていたはずの袋が、指先から半分ずり落ちていた。
「緊張するのは構いませんが、床まで濡らさないでください」
「はい」
いつもの三上さんの声に少しだけ救われる。
白石部長代理は受付で訪問手続きをしていた。湊さんはその隣で資料を確認している。近づいて声をかけることはできる。でも、彼の顔を見たら、仕事とは関係のない質問が口から飛び出しそうだった。
旧知って、どの程度の旧知ですか。
そんな質問を午前九時の取引先ロビーでする社員は、たぶん私くらいだ。
視線に気づいたのか、湊さんが顔を上げた。
目が合ったのは一瞬だった。
彼は資料の四ページ目を指で軽く叩き、私へ見せるように持ち直す。
今日、私が説明する担当企画の検証結果が載っているページだ。
大丈夫、と言われたわけではない。
それでも、仕事を見てくれているのだとわかった。
私は小さくうなずき、資料を開いた。
*
桐谷美桜さんは、約束の時刻ちょうどに会議室へ入ってきた。
濃紺のスーツに、低いヒール。髪は肩のあたりで整えられ、手にしているのは薄い書類入れひとつだけだった。
想像通り、隙がない。
脳内で勝手に完成させた人物像が、本人によって一秒で正式採用されてしまった。
「桐谷です。本日は急なお願いにご対応いただき、ありがとうございます」
落ち着いた声だった。
彼女は白石部長代理、三上さん、私の順に名刺を交換し、最後に湊さんの前へ立った。
「お久しぶりです、霧島さん」
「ご無沙汰しています」
二人の挨拶は短い。
親しげではない。けれど、初対面にはない静かな自然さがあった。
胸の奥が、針の先ほど痛む。
たったそれだけで反応するなんて、私の心臓は今日も働き者すぎる。
全員が席に着くと、美桜さんはすぐに本題へ入った。
「最初に、弊社の立場を明確にします。社員の方同士の交際そのものについて、説明を求める意図はありません」
予想していなかった言葉に、私は瞬きをした。
「確認したいのは、現在進行中の企画に不適切な評価や意思決定がなかったか。そして、今後の取引に影響する管理上の問題が残っていないか。その二点です」
白石部長代理が、調査結果と社内で決まった試行運用を説明する。
湊さんを私の評価、決裁、直接指示から外すこと。三上さんが代行すること。担当業務は変更せず、六か月後に運用を再検証すること。
美桜さんは一度も話を遮らなかった。
ただ、説明が終わると、細いペン先で資料の一行を示した。
「評価の再検証は、どなたが行いましたか」
「人事と監査部門です」
「霧島さんが関与できない状態で?」
「はい。閲覧権限も一時停止しました」
「結果は」
「不正を示す事実はありませんでした」
質問に感情は混じらない。
私を疑うためでも、守るためでもなく、必要な事実だけを一つずつ机の上へ並べている。
怖い人だと思った。
同時に、信頼できる人かもしれないとも思った。
「結城さんにも伺います」
まっすぐ名前を呼ばれ、背筋が伸びた。
「はい」
「今回の企画を、あなたが担当し続ける必要性を説明していただけますか」
恋人だから外されるのは不当です、と答える質問ではない。
私が担当者である理由を問われている。
開いていた四ページ目に手を置く。
「試行店舗で集めた利用者の声と、改善案の設計を継続して担当してきたからです。引き継ぎは可能ですが、開始直前の変更には情報の欠落と日程遅延の危険があります」
自分の声が、思ったより落ち着いて聞こえた。
「ただし、私を残すことで取引上の懸念が生じるなら、検証に必要な記録をすべて提出します。担当継続を感情だけで求めるつもりはありません」
「では、担当を外れるべきだと思いますか」
一段深い問いが来る。
膝の上で指を組み直した。
「いいえ」
はっきり答える。
「業務上の不正が認められていない以上、匿名の情報によって担当を変更するべきではないと考えます」
会議室が静かになった。
隣ではない席にいる湊さんの気配を感じる。けれど、彼の顔は見なかった。
これは私が答える質問だ。
「わかりました」
美桜さんは短く言い、資料へ視線を戻した。
「合理的です」
その一言で、肩に入っていた力がわずかに抜けた。
次に彼女は湊さんを見る。
「霧島さんは、この運用を守れますか」
「守ります」
「問題が広がった場合も、ご自分の異動だけで収めようとはしませんか」
息をのみそうになった。
美桜さんは、湊さんの癖を知っている。
湊さんも一瞬、言葉を止めた。
「……必要な対応を確認する前に、自分を外す判断はしません」
「以前よりは、少し変わられたんですね」
「そうかもしれません」
その変化に私が関わっていると思いたい。
でも、二人の間にある「以前」を私は知らない。
胸の中で、安心と小さな棘が同時に居場所を主張する。感情というものは、どうして会議資料みたいに項目別に整理されてくれないのだろう。
*
予定していた一時間を少し過ぎ、協議は終わった。
先方は企画の試行運用を予定通り進める。ただし六か月間、三上さんを窓口として月ごとの報告を提出する。外部へ送られた匿名メールについては、双方の調査結果を共有する。
厳しい条件ではある。
それでも、噂だけを理由に企画が止まることはなかった。
会議室を出る前、美桜さんが私に言った。
「結城さん。ご説明、ありがとうございました」
「こちらこそ、確認の機会をいただき、ありがとうございます」
「あなたの企画については、資料と回答で判断しました」
わざわざ付け加えられた言葉が、じんわり胸に残る。
湊さんとの関係ではなく、私の仕事を見てくれた。
会う前から勝手に怖がっていたことが、少し恥ずかしくなる。
エレベーターを待つ間、白石部長代理と三上さんは今後の報告日程を確認していた。私はその半歩後ろに立つ。
湊さんとは、仕事上の距離を空けたままだ。
到着を知らせる音が鳴ったとき、美桜さんが口を開いた。
「霧島さん。業務の話は以上です」
「ああ」
「ここからは私事です。父から、今週末の食事について返事をいただくよう言われています」
湊さんの表情が固まる。
私は足を止めた。
開いたエレベーターの扉を、誰もすぐにはくぐらなかった。
「桐谷さん。その話は、別の場所で」
「いいえ。結城さんに関係がないように扱うほうが、不誠実でしょう」
美桜さんは私へ向き直った。
声は会議中と同じく静かで、だからこそ聞き間違える余地がなかった。
「私は、霧島さんとの縁談を受けるつもりです」
(第82話へ続く)




