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噂に消されないために

「恐れ入りますが、お名前とご所属を伺えますか」


 自分でも驚くほど、声は仕事用の形を保っていた。


 受話器を握る指は、まったく保てていなかったけれど。


 手のひらに、硬い樹脂の感触が食い込んでいる。周囲ではキーボードを叩く音も、コピー機が紙を吐き出す音もしているのに、電話の向こうの声だけが不自然なほど近かった。


『それに答える必要がありますか』


「交際に関するお問い合わせには、私個人ではお答えできません。担当部署からご連絡いたしますので——」


 通話が切れた。


 耳に残ったのは、短い電子音だけだった。


 受話器を置いても、手が離れない。


 企画部の中だけに送られた匿名メール。その内容を、外部の誰かが知っている。


 改札前と洋食店の写真まで、見られているのだろうか。


 向かい合って笑ったことも、店を出てから並んで歩いたことも、私にとっては大切な初デートの記憶だ。そこへ知らない人の目が勝手に入り込み、説明のつかない後ろ暗さを塗りつけてくる。


 悪いことなんて、していないのに。


「結城さん」


 三上さんの声で顔を上げた。


 少し離れた場所では、湊さんも立ち上がりかけていた。


 目が合う。


 来てほしい、と思った。今すぐ隣に立って、その低い声で大丈夫だと言ってほしかった。


 でも今、私への指示も評価も外されている彼が、フロア中の前で真っ先に駆け寄れば、また余計な材料を与えるかもしれない。


 湊さんの指が、机の端で止まる。


 私も小さくうなずいた。


 大丈夫、ではない。


 けれど、今は動かないで、の合図だった。


 恋人同士なのに、こんなときほど近づけない。


 胸の奥が痛んだ。それでも彼が私の意図を受け取って座り直したことに、別の温度が残った。触れなくても伝わるものがある。それは少しだけ、私を強くした。


「会議室へ行きましょう。白石部長代理には私から連絡します」


 三上さんが私の手から受話器をそっと外した。


「来栖さん、結城さんに水を」


「はい」


 あかねが即座に立ち上がる。


 頼もしい。こういうときの親友は、たぶん救急箱より先に備品登録したほうがいい。


     *


 第二会議室で、私は電話の内容を一言ずつ説明した。


 机に置かれた水のペットボトルは、表面に細かな雫を浮かべている。ひと口飲んでも、喉に引っかかった緊張までは流れてくれなかった。


 白石部長代理は途中で遮らず、時刻と発言を書き留めていく。情報システム部には着信記録の保全が依頼され、法務と広報にも連絡が入った。


「相手の声に心当たりは」


「ありません。男性だと思いますが、年齢までは」


「聞かれたのは、取引先への説明についてだけですね」


「はい。私と霧島部長の交際、と明確に言いました」


 口にするたび、冷たいものが胃の底へ落ちていく。


 交際を部署に開示した朝は、恥ずかしくても、自分の口で自分のことを話せた。


 今は違う。


 見知らぬ誰かが、私たちの関係を勝手に持ち運んでいる。


 秘密でなくなったことと、奪われていいことは同じではない。


「確認が取れました」


 白石部長代理がパソコンの画面から顔を上げた。


「同じ内容の問い合わせが、代表窓口にも一件入っています。取引先を名乗っていますが、会社名は告げていません」


「社外へ送られた経路は」


 湊さんの声が低く響く。


 彼は私の向かいではなく、斜め奥に座っていた。会議中も私へ直接指示を出さないための席だ。その距離が正しいとわかっていても、長い会議机がいつもより広く見える。


「まだ特定できません。ただ、今朝、複数の取引先宛てに匿名メールが送信された可能性があります。社内向けの文面を画像にしたものが添付されていたとのことです」


 あのメールが、画像になって増えている。


 削除しても、送信者を突き止めても、一度届いたものはなかったことにできない。画面の向こうで何人が読み、どんな顔で私たちを値踏みしたのか。想像し始めたら、息が浅くなった。


「暫定措置を見直しますか」


 三上さんが尋ねた。


 白石部長代理の視線が、湊さんと私の間を往復する。


「人事は今朝、六か月の試行運用を承認しました。しかし、社外への影響が出るなら、霧島部長の異動案を再検討する意見も出るでしょう」


 また、異動。


 終わったと思った言葉が、机の上へ戻ってくる。


「必要なら、私が——」


 湊さんが言いかけた。


 心臓が強く鳴る。


 七年前と同じ言葉の入口に聞こえた。


 自分が離れればいい。自分が引き受ければいい。誰かを守るためなら、自分の希望は後回しでいい。


 それは優しさなのだろう。でも、残される側の気持ちまで一人で決めてしまう優しさは、もう受け取りたくなかった。


「待ってください」


 気づけば、私は声を重ねていた。


 湊さんが黙る。


 会議室で部長の発言を遮るのは心臓に悪い。しかも恋人である。社内恋愛の悪い見本として研修資料に載せられそうだ。


 でも、ここで黙ったら、もっと嫌だった。


「外部への説明が必要なら、決められた手順で対応します。担当変更が必要な案件があれば、個別に判断してください」


 一度息を吸う。空調の乾いた空気が、熱くなった喉を通った。


「ただ、匿名の働きかけがあったからという理由だけで異動を決めたら、送った人の望んだ結果になるんじゃないでしょうか」


 声は少し震えた。


 湊さんは何も言わない。けれど、言いかけた言葉を飲み込み、私の続きを待っていた。


「私たちは交際を隠していた責任を認めました。評価の検証も受けました。これからの制限も受け入れています。それでも問題が起きたなら、何が問題なのかを調べて、その問題に対応したいです」


 恋人だから残してほしい、ではない。


 怖いから離さないでほしい、でもない。


 同じ会社で働く一人の社員として、正しい手順で判断してほしい。そして彼にも、私と一緒にその判断を受け止めてほしかった。


「異動させれば噂が消えるわけではありません」


 言い切ると、膝の上の手が震えていた。


 湊さんが、ゆっくり息を吐く。


「結城さんの意見に同意します」


 仕事の声だった。


「先ほどの発言は撤回します。必要な対応を確認する前に、異動を選択肢として出すべきではありませんでした」


 驚いて彼を見る。


 撤回します、と彼は言った。


 自分を差し出す言葉を、私が止めたからではなく、自分の判断として引き戻した。


 その小さな変化が、今は何より嬉しかった。


 目が合ったのは一瞬だけ。それでも、私の言葉を対等な意見として受け取ってくれたのだとわかった。胸の中に張りつめていた糸が、ほんの少し緩む。


 白石部長代理がペンを置く。


「では、試行運用は予定通り開始します。外部流出への対応とは切り分けます」


「はい」


「結城さん。今後、同様の電話には答えず、すべて広報へ転送してください。あなたが説明を背負う必要はありません」


 背負う必要はない。


 その言葉に、ようやく肩から少し力が抜けた。


     *


 会議が終わるころには、窓の外で雨が降り始めていた。


 灰色のガラスに細い雨粒が幾筋も流れ、遠くのビルの輪郭をぼかしている。


 湊さんとは別々に部屋を出る。


 廊下の角を曲がる直前、背後から足音が一度だけ近づいた。


「結城さん」


 振り返ると、湊さんは手を伸ばせば届きそうで届かない位置にいた。


「さっきは、ありがとう」


「止めてよかったんですか」


「ああ」


 短く答えたあと、彼は少し黙った。


「また、決める前に自分を外そうとした」


 自覚はあったらしい。


「危なかったですね」


「危なかった」


「次は罰金にします」


「いくらだ」


「コーヒー一杯」


「安くないか」


「何度も払う前提にしないでください」


 ほんの少し、湊さんの口元が緩んだ。


 その表情に、電話を受けてからずっと縮こまっていた心臓が、今度は別の意味で跳ねる。こんな状況でもときめくなんて、我ながら忙しい。


 誰かに見られる前に、私たちはそれぞれの席へ戻った。触れもしなかったのに、冷えていた指先へ温度が戻っていた。


 噂は消せない。


 でも、その噂に押されて、自分たちまで消える必要はない。


     *


 午後六時、白石部長代理から緊急の予定が共有された。


 匿名メールを受け取った取引先の一社が、明朝、対面での説明を求めているという。


 出席者は白石部長代理、湊さん、三上さん、そして担当企画を持つ私。


 添付された先方の出席者一覧を開く。


 一番上には、見覚えのない名前があった。


 役職は、社長室・事業戦略担当。


 氏名欄には、先方担当者の名前が記されていた。


 その横に付された備考を読み、私はマウスを握り直した。


『霧島部長の旧知につき、本件の責任者として出席』


(第81話へ続く)

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