共用タブレット
共用タブレット。
報告書に記されたその六文字を見つめていると、第一会議室の細長い机と、壁際の充電スタンドが頭に浮かんだ。
企画書をモニターに映すとき。外部の資料を確認するとき。誰かの端末が不調になったとき。
特別なものではない。そこにあるのが当たり前で、誰も警戒せずに手に取る、会社の備品。
私も使ったことがある。
あかねも、羽田くんも、三上さんも。
そして、湊さんも。
浮かんだ顔を打ち消したくて、膝の上で指を組み直す。けれど、一度生まれた疑いは、目を閉じたくらいでは消えてくれなかった。
「つまり、企画部の人間なら誰でも送れたということですか」
声にした途端、知っている顔が一斉に容疑者へ変わった気がして、胃の奥が冷えた。
昨日まで一緒に働いていた人たちだ。笑った顔も、残業中に交わした愚痴も、差し入れでもらったお菓子の味も知っている。それなのに、共用というたった二文字が、そのすべてに薄い影を落としていく。
白石部長代理は報告書を閉じなかった。紙面へ落とした視線も、説明する声も冷静だった。
「現時点では、そう断定できません。端末の暗証番号は企画部内で共有され、会議室も施錠されていませんでした。清掃や設備点検で、他部署の人間が入ることもあります」
「使用者の記録は」
自分でも驚くほど早く聞き返していた。
「共通アカウントです。送信前後の通信履歴は残っていますが、操作した個人までは特定できていません」
個人が特定できない。
その言葉に、ほんの一瞬、ほっとしかけた自分が嫌だった。
誰かが疑われずに済むという意味ではない。全員への疑いが消えないという意味なのに。犯人の顔が見えない代わりに、知っている人全員の輪郭がぼやけてしまっただけだ。
「端末は情報システム部が回収しました。今後、聞き取りも行います」
「私たちにも、ですか」
「当然です。結城さんも、霧島部長も対象です」
胸の奥が小さく縮んだ。
被害を受けた側だから、最初から白とは限らない。自分たちで騒ぎを起こし、交際を公表する理由を作った可能性まで調べるのだろう。
そんなことを湊さんがするはずはない。私だってしていない。
反射的にそう言いたくなる一方で、そこを省けば調査の公平性そのものが揺らぐこともわかっていた。わかってしまうから、なおさら気分が沈む。
「わかりました」
「もう一点」
白石部長代理の声が少し強くなった。私は無意識に背筋を伸ばす。
「独自に犯人を捜そうとしないでください。問い詰める、予定を照合する、端末の使用者を聞き回る。すべて禁止します」
先回りされた。
顔に出ていたのだろうか。私、探偵に向いていない。たぶん開始五分で全員に目的がばれるし、開始十分で推理より先に胃薬が必要になる。
「調査を混乱させるから、ですね」
「それもあります。ですが一番の理由は、あなたが同僚を疑う役目まで引き受ける必要はないからです」
思いがけない言葉に、返事が遅れた。
事務的で隙のない人だと思っていた。けれど、その言葉は思ったより静かに、固くなっていた胸の内側へ届いた。
私は被害者で、当事者だ。だから自分で何とかしなければならないと思い込んでいたのかもしれない。
白石部長代理は書類の角を揃え、いつもの事務的な表情に戻る。
「自席へ戻ってください。午後一時から案件会議でしょう」
「はい」
立ち上がり、会議室を出る直前、私はどうしても気になって振り返った。
「あのタブレットは、いつから第一会議室に?」
「結城さん」
「……独自調査ではなく、ただの質問です」
「その境界線を自分に都合よく動かさないように」
ぐうの音も出ない。
「はい……」
私は大人しくドアを閉めた。
*
フロアへ戻ると、第一会議室の前に情報システム部の人が二人いた。
透明な袋に入れられたタブレットが運び出されていく。袋の表面で天井の照明が白く滑り、画面はもう何も映していなかった。
見慣れた備品なのに、急に触れてはいけないものに見えた。周囲でも何人かがキーボードを打つ手を止めている。
誰かが小さく息をのみ、別の誰かが視線を逸らす。
その一つ一つに意味を探しそうになって、私は自分の爪が手のひらに食い込むほど拳を握った。
だめだ。
目を逸らしたから怪しい。見つめたから何か知っている。落ち着いているから不自然。動揺しているから後ろ暗い。
そんな基準なら、今朝の私は全身が挙動不審だったので真っ先に逮捕される。
「結城さん」
三上さんに呼ばれ、肩が跳ねた。
「午後一時の会議資料、追加した数値を確認して」
「はい。すぐに」
いつもと同じ声だった。その平常さに安心した直後、安心した自分まで疑わしく思えてしまう。もう何を感じても罠みたいだ。
三上さんの横では、湊さんが別の資料を読んでいる。
私たちの直接の業務連絡は禁止されたままだから、彼は私を呼ばない。私も仕事のことで彼に声をかけない。
数メートルしか離れていないのに、その距離が今日はやけに遠い。
けれど、ページをめくる彼の長い指が、一度だけ止まった。
私がタブレットを見送っていたことに気づいたのかもしれない。大丈夫かと、声にできないまま気遣ってくれたのかもしれない。
そう考えた自分に、心の中で待ったをかける。
視線や沈黙に、都合よく意味を足さない。
それは同僚を疑わないためだけではなく、湊さんに甘えすぎないためにも必要な線だった。
それでも席へ向き直る寸前、視界の端で彼が顔を上げた。
ほんの一瞬だけ重なった視線は、冬の朝みたいに澄んでいた。何も言えないのに、それだけで呼吸が少しだけ楽になる。
私は会議資料を開き、数字へ意識を戻した。
*
昼休み、給湯室であかねと二人になった。
電気ケトルが低く唸り、湯気が乾いた空気を白く曇らせる。あかねは紙コップにお湯を注ぎながら、こちらを見ずに言った。
「聞いていいよ」
「何を?」
「匿名メールが送られた日、私が第一会議室を使ったかどうか」
どきりとした。
自分では隠していたつもりなのに、友達にはお見通しらしい。探偵どころか、平静な会社員役にも向いていないのかもしれない。
「聞かない」
「どうして?」
「あかねを疑ってないから」
即答すると、あかねはお湯を止めた。
褒められると思ったわけではない。でも、彼女の口から出たのは深いため息だった。
「ひなた。それ、信じてるんじゃなくて、怖くて確認できないだけじゃない?」
「違う」
「じゃあ、もし私が使ったって答えたら、今と同じ顔でいられる?」
言葉に詰まった。
いられる、と答えたかった。けれど今朝から何度も勝手に揺れた心が、そんなきれいな返事を許してくれない。
あかねは紙コップを私の前に置いた。中身は甘くない紅茶だった。立ち上る湯気の向こうで、彼女の表情がわずかに滲む。
「ちなみに使ったよ。午前中の打ち合わせで。情報システム部にもそう答えた」
「……そうなんだ」
胸がざわついた。
信じている。それなのに、送信に使われた端末へ触れたという事実だけで、記憶の中のあかねが半歩遠ざかりそうになる。
そんな自分が悲しかった。疑いたくないという気持ちだけで、疑いそのものをなかったことにはできない。
「あのね。私を友達枠に入れて調査の外へ出す必要はないの」
あかねは自分の紙コップを持ち上げる。
「調べられても、私はやってない。それでいい。ひなたが無理やり私を信じようとすると、逆に私が何も話せなくなるよ」
その言葉は厳しかったけれど、突き放す響きではなかった。
信じるとは、疑いが生まれる材料から目を背けることではない。
事実を事実のまま受け取り、自分だけで判決を出さないことなのかもしれない。揺れないことではなく、揺れた自分を理由に相手を裁かないこと。
「ごめん」
「謝罪より紅茶の感想」
紙コップへ口をつけ、すぐに離す。
「熱い」
「猫舌なの忘れてた」
「通常運転に戻す方法が雑すぎない?」
「戻れたなら成功でしょ」
ようやく少し笑えた。張り詰めていたものが、湯気と一緒にほどけていく。
給湯室を出ると、入れ替わりに羽田くんが入ってきた。彼は私たちを見て、一瞬迷ってから足を止めた。
「結城先輩。僕もあの日、タブレットを使いました」
今度は、すぐに表情を作れなかった。
「夕方、相沢さんと改善案の資料を確認するためです。聞き取りでは、そのまま話します」
まっすぐ向けられた目を見返す。何かを読み取ろうとすれば、きっといくらでも理由を作れてしまう。
「教えてくれて、ありがとう」
それ以上は聞かなかった。
聞いてはいけないからではない。
今の私が尋ねれば、答えの内容ではなく、声の震えや瞬きの回数まで数えてしまいそうだったからだ。そして、数えた数字に勝手な意味をつけてしまう。
「調査が終わるまでは、仕事をしよう」
「はい」
羽田くんははっきりとうなずいた。
自席へ戻る途中、第一会議室の前を通った。充電スタンドだけが残された壁際は、一本だけ歯の抜けた口みたいで落ち着かない。
誰かを信じたい。
でも、そのために事実を選り分けたくはない。
怖くても、今は調査に任せる。それが同僚に対しても、湊さんに対しても、私にできる一番誠実な態度なのだと思った。
私は立ち止まらず、午後の会議資料を開いた。
*
終業時刻を少し過ぎたころ、外線電話が鳴った。
フロアにはキーボードの音と、書類を揃える乾いた音が残っている。私は反射的に受話器を取った。
「はい、企画部、結城です」
相手は名乗らなかった。
短い沈黙のあと、聞き覚えのない低い声が、私の名前を確認する。
『結城ひなたさんですね。霧島部長との交際について、御社は取引先にも説明されるのでしょうか』
息が止まった。
受話器が急に重くなり、耳の奥で自分の鼓動だけが大きく響く。
企画部の中だけに届いたはずの匿名メールは、もう社外へ出ていた。
(第80話へ続く)




