私の口から、言う
月曜日というものは、ただでさえ人の心に優しくない。
それなのに今朝の私は、目覚ましが鳴る一分前に目を覚まし、布団の中で最初に思った。
今日、職場で恋人を発表する。
字面がすごい。
結婚会見でもなければ、交際宣言で世間を騒がせる立場でもない。ただの会社員である。それでも、企画部全員の前で「直属の上司と交際しています」と言うのだから、私にとっては公開記者会見に近かった。
鏡の前で三度髪を結び直し、結局いつも通りにした。
服もいつも通り。靴もいつも通り。
せめて外側だけでも、今日は普通の月曜日だと主張してほしい。
会社の最寄り駅に着くと、夜明け前に降ったらしい雨が歩道を濡らしていた。傘を差すほどではない細かな雨が、灰色の空から残っている。
エントランスへ急ごうとして、軒下に立つ人影に気づいた。
湊さんだった。
社内では霧島部長。そう呼び直すだけで、胸の奥に薄い壁が立つ。
彼は私を見ると、自動販売機の取り出し口から缶を二本取った。一本が、床の線を越えない距離から差し出される。
「これを」
甘さ控えめの、温かい缶コーヒー。
「……偶然、二本買ったんですか」
「今日はその説明で通す」
つまり偶然ではない。
受け取った缶の熱が、冷えた指に移る。触れたのは缶だけなのに、彼から温度を渡されたようで、朝から心臓が忙しい。
「眠れましたか」
「三時間ほど」
「私より寝てないじゃないですか」
「君は?」
「三時間半です」
「誤差だな」
真顔で言われて、少し笑った。
ほんの少しだけ、息ができた。
けれどエレベーターの到着音が鳴ると、現実が開いた扉の向こうで待っていた。
「結城」
乗り込む前、彼が私を呼ぶ。
もう仕事の声だった。
「業務の指示は三上を通す。今からのは、業務じゃない」
断りを入れてから、彼は続けた。調査中でも、これだけは自分の口で言っておきたかったのだろう。
「話すのは私からでいい。君は必要な事実だけ補足してくれれば——」
「私も話します」
彼の言葉を遮ると、短い沈黙が落ちた。
「守ろうとしてくれているのはわかります。でも、部長だけの問題みたいにはしたくありません」
「矢面に立つ必要はない」
「あります。私が選んだ交際でもあるので」
怖くないわけではない。
むしろ逃げられるなら、エレベーターの閉ボタンを連打して地下まで行きたい。そのまま誰もいない資料倉庫で一日を終えたい。
でも、彼の後ろに隠れたら、周囲には「上司に選ばれた部下」としか見えなくなる。
私は湊さんに選ばれただけではない。
私も、この人を選んだ。
「交際していることは、二人の事実です。だから、二人で言いましょう」
湊さんは数秒黙ったあと、小さく息を吐いた。
「わかった」
閉まりかけた扉を彼が手で押さえ、私が先に乗る。
それだけの仕草が、今日はやけに頼もしかった。
*
午前九時。
企画部の全員が、執務フロア中央の打ち合わせスペースに集められた。
事情を知っているあかねは、私と目が合っても笑わなかった。机の陰で小さく拳を握ってみせる。応援方法が試合前の選手なのだが、今はありがたい。
三上さんの隣には、白石部長代理が立っていた。
「人事へ提出中の運用案について、霧島部長から説明があります。承認までは現在の暫定措置を継続します」
その一言で、ざわめきが止まる。
湊さんが半歩前へ出た。
いつもの朝会と同じ姿勢。背筋はまっすぐで、声も揺れない。
「私と結城さんは、現在交際しています」
静かすぎて、空調の音が急に大きくなった。
誰かが息をのむ音。靴底が床を擦る音。
視線が私たちの間を何度も往復する。
耳が熱い。たぶん赤い。こういうときに限って、私の耳は機密保持にまったく向いていない。
「交際開始は、結城さんの直近の評価確定後です。匿名メールで指摘された評価上の不正については、一次調査で認められませんでした。ただし、公正性への疑念を生じさせたことは、部門責任者として重く受け止めています」
湊さんは、人事へ提示している指揮命令系統の案を説明した。
承認後も、私の評価と決裁には関与しないこと。業務指示は三上さんを経由すること。案件への参加条件を明文化すること。試行期間中は記録を残し、定期的に監査を受けること。
淡々と、逃げずに。
最後まで説明してから、彼は言った。
「交際によって結城さんの成果が不当に扱われることも、ほかの社員に不利益が生じることも避けます。質問があれば答えます」
沈黙が続いた。
誰も口を開かない時間は、実際より長く感じる。
やがて、少し離れた場所から声が上がった。
「結城さんは、どう考えているんですか」
責める口調ではなかった。
だからこそ、胸にまっすぐ届いた。
湊さんがこちらを見る。
代わりに答えようとはしなかった。
私の言葉を待ってくれている。
私は一歩前へ出た。
「交際は、私自身が選んだことです」
声が少し硬い。それでも続ける。
「同じ部署に残りたいと希望したのも、仕事を続けたいからです。霧島部長との関係を守るためだけではありません。私は企画部で担当している仕事に責任を持ちたいと思っています」
一度、息を吸った。
「疑問を持たれることまで、やめてくださいとは言えません。ただ、私の仕事に疑問があるときは、交際相手が誰かではなく、企画の内容を見て指摘してください。私も、説明から逃げません」
言い終わった瞬間、膝から力が抜けそうになった。
七年前の私は、気持ちを伝えたあと、相手の答えを待つことしかできなかった。
今の私は、自分の選択が何で、そのために何を引き受けるのかまで言えた。
怖さは消えない。
でも、怖いまま立つことはできる。
「ひとつ、いいですか」
今度は羽田くんが手を挙げた。
「これまで結城先輩が担当した企画の評価も、見直されるんでしょうか」
白石部長代理が答えた。
「不正が認められなかった以上、成果を取り消す理由はありません。今後も同じです」
「わかりました」
羽田くんはそれだけ言って手を下ろした。
次に、実務上の質問が二つ出た。承認経路と、会議への参加方法。
恋人同士がどうして同じ部署にいるのか、ではない。
案が通ったあと、仕事をどう回すのかという質問だった。
そのことに、泣きそうなほど救われた。
説明が終わると、三上さんが手を叩いた。
「では、九時半の案件会議は予定通りです。感想を語り合う前に資料を仕上げてください」
容赦のない一言で、人の輪がほどけた。
あかねが私の横を通り過ぎながら、小声で言う。
「耳、過去最高に赤いよ」
「今それ言う?」
「通常運転に戻してあげてるの」
たしかに、いつものあかねだった。
自席へ戻る途中、湊さんとすれ違う。
立ち止まらない。言葉も交わさない。
ただ、彼が持っていた資料の端と、私の袖が一瞬触れた。
紙一枚より薄い接触。
それでも私は、ひとりで前に立ったのではないと思えた。
*
昼前、白石部長代理から会議室へ呼ばれた。
私はてっきり、朝の開示について追加確認があるのだと思っていた。
けれど机に置かれていたのは、情報システム部から届いた調査報告書だった。
「匿名メールの送信経路について、進展がありました」
白石部長代理が該当箇所を指で示す。
「送信に使われた端末が特定されました」
そこに記されていた端末名を見て、指先が冷えた。
企画部の全員が使える、第一会議室の共用タブレットだった。
(第79話へ続く)




