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残るための条件

 差し出した紙を、白石部長代理はすぐには受け取らなかった。


 始業前の廊下を、出社してきた社員たちが通り過ぎていく。誰もこちらを見ていないふりが、以前より上手になっていた。


「結城さん」


「はい」


「これは、霧島部長と相談して作ったものですか」


「いいえ。案の内容は話していません」


 昨夜、湊さんと確認したのは、お互いがどうしたいかだけだ。


 企画部で仕事を続けたい。


 同じ答えだったからといって、同じ場所に残す仕組みまで彼に考えてもらったら、私の希望を上司に叶えてもらうことになる。それでは順番が違う気がした。


「私個人の提案です」


 白石部長代理はようやく紙を受け取り、一枚目に目を落とした。


 表情は変わらない。


 廊下で人事案を読み込まれる時間は、体感でだいたい一時間だった。実際には二十秒くらいだと思う。心臓だけが勝手に長時間労働をしている。


「午前十時に、第三会議室へ来てください。三上さんにも同席してもらいます」


「霧島部長は」


「まずは、提案者から聞きます」


 紙の端が白石部長代理の指先で揃えられた。


「あなた自身の言葉で説明してください」


     *


 午前十時、第三会議室のモニターに映した資料には、三つの項目しかなかった。


 一つ目。私に関する評価、承認、人員配置の権限を、正式に三上さんへ移す。


 二つ目。湊さんから私への個別指示を行わず、案件の担当決定と進捗確認を、共有された会議記録に残す。


 三つ目。一定期間ごとに、評価と決裁の記録を白石部長代理に確認してもらう。


 今の暫定措置を、その場しのぎではなく正式な運用に変える案だ。


「期間は六か月を想定しています。その後、問題があれば異動も含めて再検討します」


 説明を終えると、喉がからからだった。机の上の水に手を伸ばしたいけれど、ペットボトルの蓋を落とす未来しか見えないので我慢する。


 白石部長代理は資料から顔を上げた。


「三上さんに負担が偏ります」


「はい」


「霧島部長は、部長である以上、三上さんの判断に影響を与えられます。完全に指揮命令系統を分けることにはなりません」


「それも承知しています」


「では、なぜこの案が異動より適切だと考えたのですか」


 厳しい声だった。


 責められているわけではない。たぶん、試されている。


 ここで恋人のそばにいたいから、とだけ答えれば、この紙は仕事の提案ではなくお願いになる。


 でも、そばにいたくないわけではない。


 そこを隠したら、湊さんが自分の希望を言わないことを責めた昨夜の私は、早くも自分に負ける。最短記録すぎて笑えない。


「私は、企画部に残りたいです」


 白石部長代理の目を見て言った。


「今担当している施策を、最後までやりたい。霧島部長と同じ部署で働きたいという個人的な気持ちもあります」


 三上さんがわずかに息を吸った。


「ですが、その希望を通すために、公正さを曖昧にしていただきたいとは思っていません。むしろ、誰が、いつ、何を判断したかを、今まで以上に残す必要があると考えました」


「記録があれば、疑念が消えると?」


「消えないと思います」


 自分で言って、胸の奥が少し痛んだ。


 正しく働いても、疑う人はいる。今回、不正がなかったと調査で確認されても、写真を見た人の記憶まで消すことはできない。


「異動しても、交際の事実は消えません。部署をまたぐ案件で霧島部長と関わる可能性もあります。ですから、疑念をゼロにするのではなく、疑われたときに検証できる形にしたいです」


 白石部長代理は黙ったまま、二枚目をめくった。


「あなたが営業企画部へ行けば、もっと簡単に線を引けます」


「はい」


「キャリア上、不利な案でもありません」


「それもわかっています。ただ、今回の異動を受けたら、私は自分で選んだのではなく、匿名メールに動かされたと感じると思います」


 写真を撮った誰かに、仕事も居場所も決められる。


 それがいちばん嫌だった。


「営業企画部を拒んでいるわけではありません。いつか自分で行きたいと思ったときに、選びたいんです」


 言い切ると、膝の上で握っていた指から力が抜けた。


 三上さんが資料を手元へ引き寄せる。


「私は、この運用なら対応できます」


「三上さん」


「ただし、結城さん。私は霧島部長より甘くないかもしれないわよ」


「これ以上ですか」


 思わず聞き返すと、三上さんの口元がほんの少しだけ緩んだ。


「そこを心配する余裕があるなら大丈夫ね」


 張り詰めていた空気が、一瞬だけほどける。


 白石部長代理はため息をつく代わりに、資料の角を指で二度叩いた。


「霧島部長本人の意見も必要です」


 内線をかけると、数分後に湊さんが会議室へ入ってきた。


 目が合ったのは一秒にも満たない。それでも、私の前に置かれた資料を見て、これが私の出した案だと理解したらしい。


 隣ではなく、斜め向かいの席に座る。


 今の私たちに許された距離だった。


 白石部長代理が提案の概要を説明したあと、尋ねた。


「霧島部長は、この案をどう考えますか」


 湊さんは資料を一枚ずつ読んだ。


 すぐに賛成してくれたら嬉しい。けれど、仕事の案として穴があるなら指摘してほしい。


 そう思える自分と、お願いだから味方でいてと思う自分が、胸の中で椅子取りゲームをしていた。


「二点、修正が必要です」


 やっぱり氷の部長は、恋人作成の資料にも容赦がない。


「三上に権限を移すなら、評価だけでなく、関連する予算承認も私から外すべきです。それと、監査は六か月後では遅い。最初の三か月は毎月、その後は四半期ごとが妥当です」


 白石部長代理がペンを走らせる。


「そこまで権限を外されても、企画部長として残りますか」


 湊さんが一度、黙った。


 七年前なら。少し前までの彼なら。


 自分を異動させてください、と言ったかもしれない。


 私は机の下で指を組み、彼の答えを待った。


「残ります」


 短い言葉が、会議室の真ん中に落ちた。


「必要な制限は受けます。それでも私は、企画部で今の仕事を続けたい」


 昨夜、電話越しに聞いた希望を、今度は仕事の席で口にしてくれた。


 私のために残るとは言わない。


 私のために去るとも言わない。


 それが嬉しくて、でも顔に出したら会議室全体が恋愛事故現場になるので、私は資料の三行目を必死に見つめた。


「結城さんの提案を基本として、霧島部長の修正を加えます」


 白石部長代理は資料を閉じた。


「人事と協議します。承認されるまでは、現在の暫定措置を継続してください」


「はい」


 まだ決まったわけではない。


 それでも、異動案を渡されたときのような、誰かに席を引かれる感覚はなかった。


 私が残りたいと言い、湊さんも残りたいと言った。そのうえで、守るべき線を一緒に引き直した。


 会議室を出るとき、湊さんが私の資料を机の端へ寄せた。触れそうになった指先の間には、紙一枚ぶんの距離が残る。


 それでも彼の手の温度を、知っている。


 今は触れなくても、離れたことにはならない。


     *


 その日の夕方、白石部長代理から内線が入った。


 人事は、六か月の試行運用を前提に案を検討するという。


 私は受話器を握り直した。


「ありがとうございます」


『ただし、条件があります』


 低く告げられた声に、浮きかけた心が止まる。


『一部の人だけが交際を知る状態では、運用の透明性を確保できません』


 フロアでは、終業前のキーボード音が続いている。


 同じ部署に残る。その代わりに、もう隠れてはいられない。


 白石部長代理は、期限まで明確に告げた。


『月曜の朝、企画部全員に、あなたと霧島部長の交際を開示してください』


(第78話へ続く)

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