異動案
営業企画部。
その五文字を、私はすぐには飲み込めなかった。
白い会議室の壁も、一定の音を立てる空調も、さっきまでと何ひとつ変わっていない。それなのに、机の上へ置かれた一枚の紙だけが、部屋の温度を下げたように感じた。
相沢さんがいる部署だ。店舗施策や営業現場との調整が多く、大阪出張で私が担当した仕事とも近い。
興味がないわけではない。むしろ、いつか経験してみたいと思ったことさえある。大阪で、自分の企画が現場へ届く手応えを知った。ああいう仕事をもっとしてみたいと、帰りの新幹線で考えたことも覚えている。
なのに、机の上の「人事異動案」という文字は、行き先ではなく退去命令のように見えた。
「これは、今回の件に対する処分ですか」
声にした瞬間、自分の喉がひどく乾いていることに気づいた。膝の上で重ねた指先に、じわりと汗がにじむ。
「違います」
白石部長代理は即答した。
「調査の結果、あなたにも霧島部長にも規定違反は認められていません。異動になった場合も、等級や待遇は変わりません」
処分ではない。待遇も変わらない。
そう並べられると、傷つく理由まで先回りして否定されたような気がした。
「では、なぜ私なんですか」
聞きながら、嫌な答えを想像してしまう。
部長より私のほうが動かしやすいから。
二十六歳の中途社員一人を移すほうが、組織への影響が少ないから。
それはたぶん、会社として間違った計算ではない。感情を除けば、きっときれいな答えだ。だからこそ怖かった。
「大阪での生活者向け施策を、営業企画部が評価しています。現在の経験も活かせる。指揮命令系統を分けるだけでなく、結城さんの職域を広げられるという判断です」
筋は通っている。
筋が通っている言葉は、ときどき、気持ちの逃げ場をきれいに塞ぐ。
評価されているのだから喜ぶべきだ。職域が広がるのだから前向きに考えるべきだ。そんな「べき」が、胸の内側へ一つずつ積み上がっていく。
「本人の希望を確認する前に、異動を前提として話を進めるべきではありません」
湊さんの低い声が、向かい側から届いた。
視線を上げると、彼は白石部長代理をまっすぐ見ていた。表情はいつもどおり冷静なのに、机に置いた右手の指だけがわずかに固い。
私を守ろうとする声だった。
それが嬉しくて、同じくらい苦しかった。
「霧島部長」
私は彼の言葉を止めた。
その呼び方をするのも、真正面から仕事の話をするのも、一週間ぶりだった。名字と役職のたった六文字が、今の私たちの間には必要だった。
「ここからは、私が答えます」
湊さんが黙る。
一瞬だけ、言いすぎたかと思った。せっかく守ろうとしてくれたのに、手を払いのけたように聞こえただろうか。
でも、守られたまま運ばれていくのは違う。
彼の部下としてでも、噂の当事者としてでもなく、私自身の仕事について話さなければならない。
「営業企画部の仕事には関心があります。ただ、今回の告発をきっかけに決めるなら、私は納得できません」
「理由を聞かせてください」
「異動そのものが不利益でなくても、匿名メールを送った人の望みどおりに、私が今の部署を離れることになるからです」
写真を撮られた。
能力まで疑われた。
そのうえ、席まで明け渡す。
それを合理的な配置と呼ばれたら、私はたぶん、笑って受け入れてしまえる。「大丈夫です」「新しい仕事も頑張ります」と、誰より明るく頷けるだろう。傷つく前に笑うのは、私の得意技だ。
そしてあとから、一人で苦しくなる。
もう、その順番を繰り返したくなかった。
「異動を拒否しているわけではありません。業務内容と、異動しない場合の選択肢を確認したうえで決めたいです」
「期限は?」
「少なくとも、今日ここで返事はできません」
きっぱり言ったつもりなのに、最後だけ少し早口になった。
緊張すると早口になる二十六歳、重要な人事面談でも通常運転である。心の中で自分にツッコミを入れる余裕が戻っただけ、ましだと思いたい。
三上さんが書類に目を落としたまま口を開いた。
「私も、本人への正式な説明が先だと思います。結城さんの担当案件には、来月以降も継続するものがあります。引き継ぎの影響も検討が必要です」
感情ではなく、案件と引き継ぎの話に置き換えてくれた。その援護がありがたくて、私は机の下でそっと息を吐いた。
「わかりました」
白石部長代理は書類を回収せず、私の前へ押し出した。
「これは決定通知ではなく案です。持ち帰ってください。人事を交えた面談を設定します」
「ありがとうございます」
紙を受け取ると、思ったより薄かった。
たった一枚で、毎朝座る席も、仕事を教わる相手も変わるかもしれない。
人の居場所というのは、案外軽い紙に載っている。
*
会議室を出たあと、私はいつもの席へ戻った。
湊さんは三上さんに呼び止められ、別の方向へ歩いていく。背中が角を曲がって見えなくなるまで、私は書類を抱えたまま立ち尽くしていた。
追いかけたくなった。
今、どう思っているのか。私が彼を遮ったことを怒っていないか。営業企画部へ行くと言ったら、寂しいと思ってくれるのか。
聞きたいことは山ほどあるのに、勤務時間中の私たちの間には、まだ三上さんという正式な経路が必要だった。
パソコンを起動すると、昨日までと同じ企画書が画面に開く。
同じ席。旧版の資料を溜め込んだ引き出し。少しだけ高さの合わない椅子。朝、湊さんが通るたびに無意識に背筋を伸ばしてしまう通路。
失うかもしれないと思った途端、全部が急に自分のものに見えた。
異動は、仕事を失うことではない。まして、湊さんとの関係まで失うわけでもない。
頭ではわかっている。それでも、同じフロアで働き、会議で意見をぶつけ、彼の短すぎる指示を解読してきた時間まで切り離されるようで、画面の文字がなかなか頭に入らなかった。
昼休み、給湯室であかねに異動案のことを話した。
「あんた、行きたいの?」
あかねは珍しく、冗談を挟まなかった。紙コップへ注がれるコーヒーの匂いが、狭い部屋に濃く広がる。
「わからない。営業企画部の仕事は面白そう。でも、今決めたら逃げたみたいで嫌」
「じゃあ、二つに分けなよ」
「二つ?」
「その部署へ行きたいかと、追い出されたくないか。似てるけど、別の話でしょ」
紙コップの縁を指でなぞる。
確かに、私は異動先ではなく、異動させられる理由に怯えている。
営業企画部へ行く未来を嫌っているのではない。誰かの悪意に押されて、自分で選んだことにされるのが嫌なのだ。
「来栖先生、本日も鋭いですね」
「相談料はプリンでいいよ」
「有料だった」
「格安でしょ」
ようやく笑うと、胸につかえていた紙の角が、少しだけ丸くなった。
*
夜九時ちょうど、湊さんから電話が来た。
『話せるか』
「はい」
自宅の窓に、細い雨粒が当たっている。一定ではない小さな音が、返事を待つ沈黙まで近く感じさせた。
机の上には持ち帰った異動案。その横には、七年前の紺色の傘が立てかけてあった。
あの日から長い時間を越えて、もう一度私たちを引き合わせた傘。指先で柄に触れると、冷たいはずなのに不思議と安心した。
『会議室では、すまなかった』
「どうして湊さんが謝るんですか」
『君より先に答えた』
私は瞬きをした。
怒っていないかと心配していたのは、私のほうだったのに。彼は、私が遮ったことではなく、自分が私の選択へ口を挟んだことを気にしている。
「私も、言い方が強かったです」
『強くていい。君の異動だ』
短い言葉の向こうに、息を吐く音がした。
「営業企画部へ行ったほうがいいと思いますか」
数秒、返事がない。
動揺すると黙る人の沈黙を、私はもう少しだけ読めるようになっている。迷っているのではなく、私を傷つけない言葉を、不器用なほど慎重に探しているのだ。
『仕事だけを考えれば、悪くない。君の企画は営業現場に近い場所でも活きる』
上司としてなら、満点に近い答えだった。
「仕事以外では?」
また沈黙した。
耳が熱い。電話なのに、こういうことを聞くときだけ視線の置き場までなくなるのはなぜだろう。私は窓を流れる雨粒を、必要以上に真剣に目で追った。
『離れるのは、寂しい』
胸の奥に、温かいものが落ちた。
たった一言なのに、雨音が遠くなる。彼の低い声が耳元に残り、そこからじんわり体温が広がっていくようだった。
私が欲しかったのは、正解ではなく、たぶんその一言だった。
「私もです」
『ただ、それを理由に君の選択を縛りたくない』
「はい。だから、湊さんの気持ちだけで決めません。でも、湊さんが何も望んでいないふりをするのも禁止です」
『禁止事項が増えたな』
声がほんの少しやわらぐ。
笑った気配だけで、会えない距離が一歩縮んだ気がした。
「湊さんは、どうしたいんですか」
『俺は——』
長い間のあと、彼は静かに言った。
『企画部で、今の仕事を続けたい』
それは驚くほど小さくて、でも彼がめったに口にしない、自分のための希望だった。
私を残したい、ではない。自分がここで仕事を続けたい。
その言葉を聞けたことが、嬉しかった。私たちのどちらかが、相手のためだけに何かを諦めるのではなく、それぞれの望みを持ったまま並んで考えられる気がした。
「私も、今はここで続けたいです」
営業企画部を否定するためではない。
誰かに押し出された今日ではなく、自分で選べる日に選びたい。
そう口にすると、ようやく自分の気持ちが、自分の足で立った。
通話を終えた私は、異動案の隣に白い紙を置いた。
窓の外ではまだ雨が降っていたけれど、もう退去命令には見えなかった。案であるなら、こちらからも案を出せばいい。
そして翌朝、始業前の廊下で白石部長代理を呼び止め、その紙を差し出した。
「私を動かすか、霧島部長を動かすか。その二択にする前に、検討していただきたい案があります」
(第77話へ続く)




