秘密の終わりと、次の席
会議室の空気が、急に狭くなった。
企画部フロアのアクセスポイント。
昨日まで、同じ場所でキーボードを打ち、同じ会議に出て、同じ給湯室でコーヒーを淹れていた誰か。
頭の中に、ひとりずつ顔が浮かびそうになる。
やめよう、と私は膝の上で拳を握った。
証拠もないのに、目の前の人を疑う側にはなりたくない。
「接続した端末までは特定できないのでしょうか」
湊さん――霧島部長の声は、いつもより低かった。
「外部サービス側の記録が限られています。個人所有の端末から送信された可能性が高く、現時点では特定できません」
白石部長代理が淡々と答える。
「また、この記録だけでは、送信者が企画部所属とも断定できません。別部署の社員や来訪者が接続した可能性もあります」
わずかに息が戻る。
けれど、安心なんてできない。
「写真を撮った人物と、メールを送った人物が同一とも限りません」
三上さんの言葉に、白石部長代理がうなずいた。
「そのとおりです。写真が転送された可能性も含めて調べます。結城さん、初めて食事をした店を、社内の誰かに伝えましたか」
「いいえ」
答えてから、あかねの顔が浮かんだ。
交際を知っているのは、あかねと、あかねの夫、羽田くん、相沢さんだ。でも、店の場所までは誰にも話していない。
「交際を知っていた人はいます」
隠せば、また別の疑いを生む。
「来栖さんと、その夫、羽田くん、相沢さんです。ただ、初デートの場所は誰にも伝えていません。四人が誰かに話したとも思っていません」
言い切ると、白石部長代理は私をまっすぐ見た。
「信頼ではなく、事実で答えてください」
胸の奥がちくりとした。
「事実として、私は店の名前も、待ち合わせ場所も伝えていません」
「わかりました。挙げられた方々への確認はこちらで行います」
嫌だった。
私が話したせいで、あかねまで疑われる。
けれど、あかねを守るために事実を隠したら、あかねが守ってくれた約束まで嘘にしてしまう。
「送信者の調査は継続します。ただし、憶測で部員を問い詰めることは禁止します。お二人もです」
「承知しました」
湊さんと私の返事が重なった。
反射的に隣を見そうになって、止める。
席は離れている。会社では名前を呼ばない。直接の業務連絡もできない。
それなのに、同じ言葉を同じ速さで答えただけで、胸の奥に少しだけ温度が戻った。
*
フロアへ戻ると、全員がこちらを見た。
一秒にも満たない視線が、いっせいに画面へ逃げていく。
気まずい。ものすごく気まずい。
私の席だけ、天井の照明が三割増しで明るい気さえする。もちろんそんな機能はない。今だけは節電に協力してほしい。
椅子に座ると、三上さんから社内メッセージが届いた。
『十時から修正案の確認をします。霧島部長への質問は私を通してください』
『承知しました』
短い返事を打ち、資料を開く。
午前十時の打ち合わせでは、湊さんはテーブルの端、私は反対側に座った。
私が説明し、三上さんが質問し、私が答える。
湊さんが確認したいことも、一度三上さんの言葉になる。
「霧島部長からです。大阪で取得した利用者データと、今回の想定数の差を説明してください」
「はい。対象年齢を広げたためです。三ページ目に年代別の内訳を追加しています」
目を合わせてはいけないわけではない。
それでも、彼に向けて答えれば直接の業務連絡に見える気がして、私は三上さんを見る。
たった一人を挟むだけで、こんなに遠い。
「この数字、根拠が弱くないですか」
別の席から声が上がった。
誰かを責める口調ではない。普段なら、ただの確認だと思えたはずだ。
けれど今は、その裏に『部長に評価されたから通った数字ではないのか』という言葉を勝手に探してしまう。
喉が固くなる。
ここで霧島部長が補足すれば、また庇われたと言われる。
私は資料を一枚戻した。
「前回施策の実績だけでは足りないので、三店舗の視察結果と大阪出張での調査結果を合わせています。算出方法はこちらです」
声が少し速い。落ち着け、私。早口は自信のなさを字幕つきで上映しているようなものだ。
一度息を吸い、計算式を説明する。
説明を終えると、羽田くんが手元の資料を確認して口を開いた。
「大阪の数値は僕も現地で確認しています。元データと一致しています」
助け船というより、事実の提出だった。
「わかりました。なら問題ありません」
質問した人も、すぐにページをめくった。
疑われたのかどうかは、わからない。
でも私は、自分の仕事を自分で説明できた。
それでいい。
会議の最後、三上さんが資料を閉じた。
「現在、調査中です。個人的な詮索は業務の妨げになります。一方で、企画への疑問は遠慮なく出してください。結城さんも、全部に恋愛を結びつけて身構えないこと」
「……はい」
図星が痛い。
けれど、少しだけありがたかった。
全員が敵なのではない。質問は質問で、仕事は仕事だ。
その境界を、私自身まで見失ってはいけない。
*
昼休み、あかねに給湯室へ連れていかれた。
「聞かれた。店を知ってたか、誰かに言ったかって」
「ごめん」
「なんでひなたが謝るの」
あかねは紙コップを二つ並べながら、むっと頬を膨らませた。
「私、言ってないからね」
「うん」
「そこはもうちょっと疑ってもいいところじゃない?」
「疑わない」
即答すると、あかねの手が止まった。
「だって、約束したから」
信じるのは、証拠ではない。
でも、誰を信じるかまで、匿名の誰かに決めさせたくなかった。
あかねはしばらく黙ったあと、私の紙コップにだけ砂糖を入れた。
「そういうところ、前より強くなったよね」
「砂糖、多くない?」
「今日は甘くていいの」
一口飲むと、本当に甘かった。
胸の奥に残っていた苦さが、ほんの少しだけ薄くなった。
*
一週間後、一次調査の結果が出た。
過去一年分の評価と決裁記録に、不当な引き上げは認められなかった。
むしろ私の企画には、他の案件より細かな差し戻しが多かったらしい。
氷の部長は、恋人になる前から容赦がなかった。知っていたけれど、記録で証明されると複雑である。
匿名の送信者は、まだ特定されていない。調査は継続される。
そして交際については、一律禁止の規定に反してはいない。ただし、直属の上司と部下という関係は、今後も公正さを疑われる可能性がある。
白石部長代理は、会議室で結果を読み上げたあと、書類を閉じなかった。
「暫定措置を、このまま続けることはできません」
向かい側に座る湊さんの肩が、わずかに固くなる。
「指揮命令系統を正式に分ける必要があります」
「私の職務範囲を変更してください」
湊さんが迷いなく言った。
まただ。
この人はすぐ、自分を切り分けようとする。
「待ってください。私の希望も聞いてください」
思わず言葉を重ねると、湊さんが私を見た。
久しぶりに、遮るもののない視線だった。
「どちらか一方だけが、先に譲る話にはしたくありません」
声は震えなかった。
恋人だから守られるのでも、恋人のために彼が全部を手放すのでもない。
一緒に決めると、私たちは約束した。
白石部長代理は私たちを順に見てから、書類を一枚抜いた。
「では、結城さんの希望も確認します」
机の上に置かれた紙の上部には、人事異動案と印字されていた。
「来月付で、あなたを営業企画部へ異動させる案が出ています」
(第76話へ続く)




