写真の外側
白石部長代理が差し出した写真から、目を離せなかった。
窓際の席。白い皿。湊さんが水のグラスへ手を伸ばし、その向こうで私が笑っている。
見覚えのある横顔なのに、自分ではない誰かを見ているようだった。
あの日、私は浮かれていた。
待ち合わせの十五分前には来ていた湊さん。大量に料理を作ってしまう話。観葉植物を二鉢枯らした私への、呆れたようなため息。
『水をやりすぎです』
『元気になってほしかったんです』
『根腐れさせておいて、よく言えますね』
冷たい言い方のくせに、口元は少し笑っていた。その表情が嬉しくて、私もたぶん、写真のとおり無防備に笑ったのだ。
会社から離れた場所なら、少しくらい恋人らしくてもいいと思っていた。
触れ合ってさえいない。ただ向かい合って食事をして、他愛のない話をしただけ。それなのに第三者の視線を通した途端、白い皿も、水のグラスも、私の笑顔までが証拠らしい顔をしている。
写真の中の私は、何も知らない。
その数メートル先に、自分たちを見張る目があったことも。
「店内から撮られたものでしょうか」
どうにか声を出すと、三上さんが写真を手元へ引き寄せた。紙が机を滑る乾いた音に、肩が小さく跳ねる。
「角度が低いですね。窓の外から、望遠で撮ったようにも見えます」
白石部長代理が頷く。
「元データは添付されていません。画像は一度加工されており、撮影機器や時刻を特定できる情報も消されています」
そこまでして、私たちを撮った。
偶然見かけて、ついスマートフォンを向けたのではない。撮ると決めて待ち、身元につながる情報まで消して送った人がいる。
胸の奥が、遅れて震え始める。
「ほかにも、あるんですか」
「添付は二枚です。改札前と、この店だけです」
だけ。
二枚も、の間違いではないだろうか。
改札から店までの私たちを、誰かが追っていたのかもしれない。そう考えた瞬間、あの日歩いた道の景色が、安心できる思い出ではなくなっていく。
「結城さん」
湊さんが私を呼んだ。
仕事中の声だった。低く、静かで、私が崩れないように支える声。
いつもなら、その声だけで顔を上げられる。
でも今は、その声に応じることさえ、業務上の接触になるのかもしれない。
顔を上げるだけで一瞬迷った。
その迷いに気づいたのか、湊さんは口を閉じた。机の上に置かれた彼の手が、わずかに握られる。
届く距離にいるのに、届かない。
それが、写真よりも苦しかった。
「交際開始後、ほかに社外で二人きりになった日は?」
白石部長代理の質問に、私は背筋を伸ばした。
「あります。写真展と、水族館です。それ以外にも、退勤後に短時間会ったことがあります」
水槽の青い光の下で見た横顔。写真展で一枚の作品を並んで眺めた時間。雨の夜、傘の内側で近づいた体温。
本当なら、どれも私だけが大切にしまっておきたい記憶だった。
隠す必要はない。けれど、自分たちの時間を一つずつ机に並べていくようで、喉が詰まる。
「日付と場所を提出してください」
「それは、調査に必要ですか」
湊さんの声が、わずかに硬くなった。
「追加の写真が出た場合、事実確認を早められます」
「交際の証明と、私生活の全記録を差し出すことは同じではありません」
白石部長代理と湊さんの間に、冷たい沈黙が落ちた。
守ろうとしてくれている。
わかるからこそ、私は口を開いた。
「私が提出します」
湊さんがこちらを見る。まっすぐな視線に心臓が揺れたけれど、逸らさなかった。
「必要な範囲は、私も確認して決めます。全部を霧島部長に任せたくありません」
一人で守られる側には戻りたくない。
写真を撮られたのは怖い。噂にされるのも、仕事を疑われるのも悔しい。
だからといって、私の判断まで誰かに預けたくはなかった。十二歳という年齢差も、上司と部下だった事実も、私の意思を小さくする理由にはならない。
湊さんは短く息を吐いた。
「わかりました」
その一言に、不満と心配と、それでも私の意思を尊重する気持ちが全部混ざっていた。
恋人らしく触れることはできない。
でも、対等でいることはできる。
*
面談のあと、三上さんから修正指示が届いた。
これまでなら湊さんから来ていた内容だった。
『二ページ目の根拠数値を追加。明日十時まで』
たったそれだけの文面なのに、知らない席へ移されたような気持ちになる。
斜め前には湊さんがいる。
彼も同じ資料を開いているはずなのに、画面越しに確認することも、直接質問することもできない。
キーボードを打つ音も、椅子を引く音も、昨日までと同じだ。それなのに、彼との間に透明な壁が立ったみたいだった。
会議では三上さんが進行し、私の提案に対する質問も代わりに読み上げた。
「対象店舗を三店に絞った理由は?」
「生活圏の重なりを避けるためです。比較条件は別紙にまとめています」
答えながら、視界の端に湊さんの指先が見えた。
何か言いかけるとき、彼はペンを一度止める。
私はその癖を知っている。
以前なら怖いだけだった無表情の、そのわずかな変化を読めるようになったことが嬉しかった。今は知っているからこそ、言葉を飲み込ませていることまでわかってしまう。
でも、今日は止まったままだった。
会議が終わり、みんなが立ち上がる。
「結城さん、別紙の条件、あとで私に送って」
三上さんに言われて頷く。
「はい」
「霧島部長には私から共有します」
正しい手順だ。
たった一人を間に挟むだけ。なのに、自分の言葉が彼へ届くまでに、ひどく遠回りをする気がした。
席へ戻る途中、あかねが給湯室へ向かうのが見えた。追いかけそうになって、やめた。
今のあかねに声をかければ、何を話しても目立つ。
秘密を知っていた彼女まで巻き込みたくない。
午後六時を過ぎるころ、窓に雨粒が当たり始めた。
最初は小さな点だった雨が、ほどなく筋になって窓ガラスを流れていく。天気予報にはなかった雨だった。
フロアの何人かが窓の外を見て、傘がないとぼやいている。私は机の脇に置いた紺色の傘を確かめた。
七年前から、雨の日には何度も助けられてきた傘。
あの日の駅前で、この傘を差し出してくれた人が、今は斜め前にいる。
けれど今日は、それを開いて湊さんと並ぶわけにはいかない。
退勤時刻をずらしたほうがいい。
そう考えたところで、胸がずきりと痛んだ。
誰かに見られたから会わない。
誰かに疑われたから、声もかけない。
会社の指示に従うことと、怖さに負けて離れることは違うはずだ。
私はスマートフォンを取り出した。
業務の連絡ではない。就業時間も終わっている。それでも送信ボタンを押す指が震えた。
『今日は別々に帰りましょう。でも、帰ったら少しだけ電話したいです』
すぐには返事が来なかった。
斜め前で湊さんが立ち上がり、三上さんに何かを伝えている。こちらを見ないまま鞄を持ち、先にフロアを出ていった。
閉まるドアの音が、やけに大きく聞こえた。
胸に小さな穴があく。
わかっている。返事をすれば、それを見られる可能性もある。今は慎重になるべきだ。
それでも、恋人になったあとで初めて、七年前と同じ不安が顔を出した。
私の気持ちは、困らせるものなのではないか。
十分後、机の上でスマートフォンが震えた。
『わかった。九時に電話する』
続けて、もう一通。
『離れたいわけじゃない』
息が止まりそうになった。
雨音も、周囲のキーボードの音も、一瞬だけ遠ざかる。
どうしてこの人は、私がいちばん怖がっていることだけは、言葉が少なくても見つけてしまうのだろう。
『私もです』
そう返してから、私は紺色の傘を持って立ち上がった。
一人で帰る。
でも、一人になったわけではない。
*
翌朝、出社すると、フロアの入口に白石部長代理が立っていた。
いつもなら朝の挨拶が飛び交う場所なのに、彼女の姿を認めた瞬間、空気が一段冷えた気がした。
「結城さん。霧島部長も、会議室へ来てください」
一次調査は一週間の予定だったはずだ。まだ二日目なのに、白石部長代理の手には薄い紙のファイルがある。
三上さんも呼ばれ、四人で会議室へ入った。
「情報システム部から、匿名メールの調査結果が来ました」
白石部長代理は椅子に座らず、ファイルを開いた。紙をめくる音だけが、静かな部屋に響く。
「外部のメールサービスが使われており、送信者の氏名は特定できていません。ただし、送信時の接続記録が一部残っていました」
私は無意識に、膝の上で指を握った。爪が手のひらに食い込む。
「メールは社内の無線ネットワークを経由して送られています」
隣ではない席で、湊さんの気配が固くなる。
白石部長代理が、記録の印刷された紙を机へ置いた。
「接続先は、企画部フロアのアクセスポイントです」
背中を、冷たいものが滑り落ちた。
写真を送った人は、遠くにいる誰かではなかった。
昨日まで同じ場所で仕事をしていた人が、私たちの最初のデートを撮っていた。
(第75話へ続く)




