声の届かない席
直接の業務連絡を禁止する。
その一文を、私は三回読み直した。
読み直したところで、文字が気を利かせて別の意味に変わってくれるわけではない。
隣の部長席までは、ほんの数メートル。
何か確認したければ立ち上がり、数歩歩いて、「霧島部長」と声をかければ届く距離だ。昨日までは、それが当たり前だった。
今日からは、その数歩を歩いてはいけない。
「午後四時までは、今までどおりでいいんでしょうか」
向かいからあかねが小声で聞いた。
「たぶん。『調査終了まで』ってあるから、通知された時点からじゃないかな」
「厳しすぎない?」
「白石部長代理には白石部長代理の考えがあるんだと思う」
自分でも驚くほど、仕事用の声が出た。
平気なふりは得意だ。七年前から、かなり練習してきた。
ただし心の中では、まったく平気ではない私が机を叩いている。
交際を公にした直後に、会話禁止。
恋愛ドラマなら障害として盛り上がるところかもしれないけれど、現実の会社では、確認一件に余計な人手がかかるだけだ。しかも、その余計な人手は主に三上さんである。
「結城さん」
さっそく三上さんに呼ばれ、私は顔を上げた。
「十一時の会議資料、私から修正指示がある。確認したい点もあるから、こちらへ来て」
「はい」
返事をして立ち上がる。
部長席の前を通らない経路を無意識に選びかけて、足が止まった。
避けるほうが、かえって不自然だ。
私はいつもの通路を歩いた。
湊さん――ではなく、霧島部長は画面を見ていた。こちらを呼び止めることも、資料を手渡すこともない。
三上さんの机で受け取った紙には、赤字が三か所あった。
「二ページ目の数値は最新データに差し替え。五ページ目の見出しは結論を先に。最後の提案は、予算根拠を一行追加」
「承知しました」
三上さんが判断した、簡潔で的確な修正だった。
誰が書いたかなんて、確認するまでもない。文字まで冷静で、無駄がなくて、少し右上がりだ。
「質問は?」
「最後の予算根拠ですが、先週の試算を使うのか、営業企画部から今朝届いた数字を使うのか確認したいです」
「わかった。私から聞く」
三上さんはすぐに内線を取り、営業企画部の担当者へ数字の扱いを確認した。
私が直接聞けば十秒で終わる話が、三上さんを往復させて一分かかる。
たった一分。
でも、その一分が胸に重かった。
湊さんと交際したことで、周囲に負担をかけている。その事実だけを切り取れば、匿名メールに書かれた非難が正しいように思えてしまう。
「今朝届いた数字で。出典の日付も入れてほしいそうよ」
「ありがとうございます」
私が頭を下げると、三上さんは赤字の紙を指先で軽く叩いた。
「私に謝らなくていい」
「でも、お手数をかけています」
「これは会社が決めた手順。あなた一人の都合じゃない」
言い切ってから、三上さんは声を少し落とした。
「気を遣うなら、早く正確に終わらせて。往復が一回で済むように質問をまとめる。それが今できる配慮」
「……はい」
胸の奥で縮こまっていたものが、少しだけ姿勢を正した。
申し訳なさで小さくなるより、仕事を止めない。
私は席に戻り、修正点と確認事項を一枚にまとめた。
*
十一時の企画会議で、いつもと違うことが一つあった。
私の報告に対して、湊さんは一度も質問しなかった。
代わりに三上さんが聞き、私が答え、それを湊さんが議事録に残す。
「営業企画部との共同検討は、羽田くんと相沢さんを中心に進めます」
私が説明すると、羽田くんが頷いた。
「来週までに一次案を出します」
「お願いします」
そこまでは順調だった。
けれど、次のページを映したとき、試算表の数字が一つずれていることに気づいた。
しまった。
画面を切り替えようとした瞬間、部長席から低い声がした。
「三上さん。三列目」
三上さんが表を見て、すぐに私へ向き直る。
「結城さん、三列目の単価と数量が逆になっている」
「失礼しました。修正版に切り替えます」
私のミスだ。
それなのに、ひどく苦しかった。
湊さんの声は聞こえているのに、その言葉は私へまっすぐ届かない。
仕事と恋愛は分ける。そう決めてきた。会社で特別扱いされたくないとも、何度も思った。
なのに、名前を呼ばれないだけでこんなに寂しいなんて、我ながら面倒くさい。
会議を終え、全員が資料を片づけ始めた。
「結城さん、残って」
三上さんに呼び止められ、私は椅子へ座り直した。
湊さんも残っていたが、私には声をかけず、三上さんに告げた。
「午後の修正も、通知どおり君の決裁で進めることになっている」
「了解しました」
「結城さんに関する私の評価・決裁・業務指示の権限は、通知された時点ですでに停止している」
迷いのない口調だった。
正しい。誰より早く、彼自身が線を引かなければいけない。
わかっているのに、会議室を出ていく背中へ「待って」と言いたくなった。
もちろん、言わなかった。
今、待たせてはいけないのは彼ではなく、仕事のほうだ。
「つらい?」
二人きりになると、三上さんが聞いた。
「少しだけ」
「少し?」
「かなり、です」
「正直でよろしい」
三上さんは資料をそろえながら、小さく息をついた。
「でも、これは処分じゃない。調査中の暫定措置よ。結城さんの評価を守る意味もある」
「私の評価を?」
「今後、あなたが成果を出したとき、霧島部長が恋人だから認められたと言わせないため。別の決裁者が同じ評価を出せば、記録になる」
離されることばかり考えていた。
けれど、この距離は、私から仕事を奪うためだけのものではない。
「私が引き継ぐ以上、甘くはしないから」
「望むところです」
答えると、ようやくいつもの自分の声が戻った。
*
午後四時の面談で、白石部長代理は机の中央に分厚いファイルを置いた。
湊さんと私は離れた席に座り、間に三上さんがいる。
「過去一年分の評価資料と決裁記録を確認します。三上さんには、結城さんの業務指示と評価の代行をお願いします」
「承知しました」
「霧島部長は、結城さんが関わる案件について、会議での直接の質問も控えてください。必要な確認は三上さんを通すこと」
「承知しました」
湊さんの返答は短い。
白石部長代理は次に私を見た。
「結城さん。これはあなたの能力を否定する措置ではありません」
「はい」
「ただし、匿名メールが送られた以上、社内に疑念を持つ者がいる。交際を続ける自由と、現在の指揮命令系統を維持できるかは別の問題です」
胸の奥が冷えた。
「業務上の接触を避けることで、調査が公正に進むのであれば従います」
湊さんが先に答えた。
また一人で背負おうとしている。
私は膝の上で指を握り、それから開いた。
「私も従います。ただ、私の担当業務や、これまでの成果まで外さないでください」
白石部長代理の眉がわずかに動く。
「評価する人が変わっても、同じ仕事を続けます。必要なら、すべて改めて証明します」
怖くないわけではない。
けれど、湊さんの後ろに隠れたら、昨日隣に立った意味がなくなる。
「わかりました。担当変更は行いません」
息を吐きかけた私に、白石部長代理は続けた。
「ただし、暫定措置には期限が必要です。一週間で一次調査を終えます」
一週間。
長いのか、短いのかわからない。
「それと、添付写真の確認です」
白石部長代理がファイルから一枚の紙を抜き、机の上に置いた。
「匿名メールに添付されていた、洋食店の写真を確認します」
印刷されていたのは、朝にも見せられた二駅先の小さな洋食店だった。
窓際に向かい合って座る、湊さんと私。
初めてのデートの日の写真だった。
「これは、交際を始めた翌週ですね」
喉が乾く。
改札前だけでなく、店の中まで撮られている。
私たちは、最初のデートから見られていた。
(第74話へ続く)




