隣に立つ
メールを開く指が、動かなかった。
開かなくても件名は見えている。
『霧島部長と結城さんの関係について』
宛先は企画部全員。
送り主は、見覚えのないフリーメールのアドレスだった。
フロアのあちこちで、ほとんど同時に通知音が鳴る。
一つなら軽い電子音なのに、重なると非常ベルみたいだった。空調の風が首筋に触れ、そこだけがひどく冷たく感じる。
お願いだから、誰も開かないで。
そんな都合のいい願いが届くはずもない。隣の席でマウスをクリックする音がした。少し離れた席では、誰かが息を呑んだ。
私はようやくメールを開いた。
本文は短かった。
『企画部長と直属の部下が交際しています。公私混同による不公平な評価が行われていないか、調査を求めます』
その下に、さっき会議室で見た写真が添付されていた。
駅の改札前。湊さんが差し出した手に、私が触れた瞬間。
土曜の朝には、ただうれしかった一枚だ。
人の流れの中で見失わないように伸ばされた手。触れた指先の温度まで、私は覚えている。
なのに、説明文を添えられただけで、不正の証拠みたいに見える。
私たちの間にあった気持ちも、迷いも、話し合った時間も、この一枚には映らない。切り取られた一瞬だけが、勝手な物語をつけられてフロア中にばらまかれている。
胃の奥が冷えた。
視線を上げられない。それでも画面の端に、部長席から立ち上がる人影が映った。
「全員、メールには返信しないでください」
湊さんの声だった。
いつもと同じ、低くて落ち着いた声。
ざわめきが止まる。
「添付ファイルの転送、保存、社外への持ち出しも禁止します。三上さん、情報システム部と白石部長代理へ連絡を」
「わかりました」
三上さんはすぐに受話器を取った。
私は椅子に座ったまま、膝の上で手を握る。爪が掌に食い込んでいるのに、力を緩められない。立ち上がって何か言うべきなのか、それとも黙っているべきなのか、判断できなかった。
仕事なら、優先順位をつけられる。トラブルが起きれば、事実を整理して、影響範囲を確認して、対応案を出す。
なのに、自分の恋愛が議題になると、頭の中の会議は全員が一斉に発言して収拾がつかない。しかも議長の私は、今すぐ机の下へ逃げ込みたい。
逃げたい私。
否定したい私。
写真を撮った人を問い詰めたい私。
そして何より、湊さんの隣にいたことを、悪いことにされたくない私。
「結城さん」
三上さんに呼ばれ、顔を上げた。
「白石部長代理から。二人とも、その場を動かず待機してほしいそうよ」
「はい」
返事が少し掠れた。
向かいの席にいるあかねと目が合う。
驚いてはいる。でも、心配そうに眉を寄せるだけで、余計なことは言わなかった。知っていたと悟られないためだ。
私たちは、隠すことも一緒に決めた。
そのせいで、今は親友にさえ助けを求める顔ができない。
秘密というのは、二人だけを守る壁だと思っていた。
壁の内側で何か起きたとき、外から手を伸ばしてもらえないことまでは考えていなかった。
「結城さん」
今度は羽田くんだった。
反射的に肩が揺れる。
彼は自分の画面を見たまま、静かに言った。
「午前の修正案、共有フォルダに上げてあります。確認、今日じゃなくても大丈夫です」
仕事の話。
それだけだった。
でも、今までどおり接してくれることが、こんなにありがたいなんて知らなかった。腫れ物にも、噂の主人公にもせず、ただ同じ案件を進める先輩として扱ってくれる。
「ううん。確認する。予定どおり進めよう」
「はい」
羽田くんはそれ以上、何も聞かなかった。
私は添付された写真を閉じ、共有フォルダを開いた。
文字は目に入るのに、意味になるまで時間がかかる。それでも一行ずつ追った。赤字を入れ、コメントを書く。震えそうになる指を、キーボードの上で無理やり働かせる。
ここで仕事ができなくなったら、それこそメールの文章に負けた気がする。
私の企画も、積み上げた実績も、誰かと付き合った瞬間に消えるものではない。
湊さんに出会う前から、私は私の仕事をしてきた。徹夜寸前まで資料を直した夜も、採用されずに悔し泣きした案も、誰かの好意でもらったものではない。
それだけは、自分で信じなければ。
十五分ほどして、白石部長代理がフロアへ戻ってきた。
「霧島部長、結城さん。こちらへ」
また会議室かと思ったけれど、白石部長代理はその場で足を止めた。
「先に、部内へ説明してください」
空気が張りつめる。誰かが置いたペンの音まで、必要以上に大きく響いた。
「説明、ですか」
「メールが全員へ送られた以上、何も言わず通常業務へ戻すことはできません。ただし、調査前です。事実だけを簡潔に」
湊さんが一瞬、黙った。
その横顔を見て、七年前を思い出した。
彼は誰かを守ろうとすると、自分の中だけで答えを出す。
さっきの会議室でも、自分だけが異動すると言った。
もし今、彼が私を守るために全部引き受けようとするなら、止めなければならない。
「私から話します」
自分の声が、思ったより大きく響いた。
湊さんがこちらを見る。
視線が重なった。黒い瞳の奥に、止めたい気持ちと、私の意思を尊重しようとする迷いが見えた気がした。
何かを言おうとした彼より先に、私は小さく首を振る。
恋愛上の距離は、一緒に決める。
問題が起きたときだけ、彼の後ろへ隠れるのは違う。
十二歳の年齢差も、上司と部下という立場も、なかったことにはできない。だからこそ、守られるだけの人になりたくなかった。
私は椅子から立ち上がった。膝が少し震えている。立っただけで拍手がもらえる年齢ではないので、そこは自力でどうにかするしかない。
「メールに書かれている交際については、事実です」
誰も動かなかった。
自分の心臓の音だけが、やけに近い。
「ただし、業務上の評価や担当決定について、特別な扱いを受けたことはありません。疑問が出る立場だということは理解しています。必要な確認には応じます」
一度、息を吸う。肺に入った空気が浅くて、声を支えるには頼りない。
「ご迷惑をおかけして、申し訳ありません」
頭を下げようとした瞬間、隣から声がした。
「結城さん」
湊さんだった。
「交際していること自体を謝る必要はない」
フロアの真ん中で、その言葉に胸を掴まれる。
甘い言葉ではない。けれど今の私には、どんな慰めよりもまっすぐ届いた。
湊さんは私の隣に立った。
触れてはいない。会社だから、名前も呼ばない。肩と肩の間には、きちんと仕事上の距離がある。
それでも、すぐそばに彼の体温があるような気がした。
逃げずに、同じ場所へ立ってくれた。
「直属の部下と交際する以上、管理職である私に、より重い説明責任があります。これまでの決裁記録、評価資料はすべて提出します。結城さんを含む部員への詮索は控えてください」
短い言葉だった。
けれど、私だけに責任を背負わせないという意思が、はっきり伝わった。
白石部長代理が口を開く。
「現時点では、事実確認中です。業務上の不正があったと決まったわけではありません。憶測による発言やメールの拡散は慎んでください」
そこでようやく、凍っていたフロアの空気が少し動いた。
三上さんが立ち上がる。
「十一時の企画会議は予定どおりでいいですか」
「予定どおり行います」
湊さんが答えた。
「では資料を差し替えます。羽田くん、相沢さんの分も確認して」
「はい」
仕事の声が戻ってくる。
完全に元どおりではない。誰もが何かを聞きたいはずだ。それでも、全員が自分の画面へ向き直った。
あかねも書類を開きながら、机の下で一度だけ拳を握った。
たぶん、応援のつもりだ。
私もほんの少しだけ拳を握り返してから座り直し、修正案の続きを開いた。
怖さは消えていない。
明日からどんな目で見られるのか。私の評価が、どこまで疑われるのか。考え始めれば、指はまた止まりそうになる。
それでも、自分の口で事実を言えた。
湊さんの後ろではなく、隣で。
それだけは、誰にも切り取られない。
*
昼休み直前、社内予定表に新しい通知が届いた。
白石部長代理からの面談招集だった。
時刻は午後四時。出席者は、白石部長代理、三上さん、湊さん、私。
そして備考欄には、朝にはなかった指示が追記されていた。
『調査終了まで、霧島部長は結城ひなたの評価・決裁・業務指示から外れること。両名の直接の業務連絡を禁止する』
(第73話へ続く)




