匿名の告発
十時まで、あと二十三分。
画面の右下に表示された時刻を見た瞬間、数字というものが急に攻撃力を持った。
二十三分。長いようで短い。逃げるには短すぎて、悪い想像を育てるには十分すぎる時間だ。
白石部長代理がフロア全体に聞こえる声で告げたせいで、周囲の空気がわずかにざわついている。
社外での行動。
確認したいこと。
言葉だけ並べれば、休日に競合店の売り場を見ていたとか、経費を使って会食したとか、そういう話にも聞こえる。聞こえるはずだ。お願いだから、みんなその程度だと思ってほしい。
「結城さん」
斜め前から呼ばれて肩が跳ねた。
「はいっ」
自分でも驚くほど上ずった声が出た。振り向くと、羽田くんが修正済みの資料を持って立っている。
「ここ、確認お願いします」
「あ、うん。すぐ見る」
受け取った紙には、私が入れた赤字がきれいに反映されていた。普段なら数字の整合性まで確認するのに、今日は文字が水の中を泳いでいる。
土曜日に見た魚ならかわいいけれど、これはただの集中力不足だ。しかも原因は、水族館で魚を見た相手との関係を問いただされるかもしれないからである。全然かわいくない。
「大丈夫ですか」
「もちろん。ちょっと朝から頭を使いすぎて」
「まだ九時半ですけど」
正論が痛い。
「午前中に使える分を前倒ししてるの」
「午後、空っぽになりません?」
「そのときは補充するから」
何をどう補充するのか、自分でもわからない。
羽田くんは不思議そうにしながらも、それ以上追及せず自分の席へ戻っていった。相沢さんもこちらを見ないままパソコンを操作している。けれど、フロアの何人かが普段よりゆっくり書類をめくっている気がした。
気にしすぎ。たぶん。きっと。
部長席へ視線を向ける。
湊さんはいつもどおり資料を読んでいた。背筋も、ページをめくる速さも変わらない。横顔には近寄りがたいほどの隙のなさがあって、氷の部長という呼び名が今日ほど頼もしく見えたことはない。
さすが氷の部長。こういうときまで冷静――と思った直後、彼の手元のコーヒーが新しいものに替わっていることに気づいた。
さっき席に着いたときにも、一杯あったはずだ。
動揺すると淹れ直す癖。
冷静に見えるだけで、同じように緊張している。
それがわかると、不思議と呼吸がしやすくなった。私だけが怖がっているのではない。彼も同じ場所に立っている。
私は社内チャットを開いた。
『打ち合わせ前に、対応を確認したいです』
送信して三秒もたたず、返信が来た。
『九時五十分。小会議室』
短い。いつもどおり短い。でも、すぐ返ってきたことが今は何より心強かった。
*
九時五十分。小会議室に入ると、湊さんはドアを閉め、私から一席空けて座った。
ブラインド越しの白い光が、細長いテーブルを照らしている。空調の音だけが妙に近い。
会社の中では上司と部下。その距離が、今日はいつもよりはっきり見える。
「白石部長代理は、七年前からの知り合いだと知っています」
「ああ」
「土曜日に駅で会ったことも、隠しません。手をつないでいたことも」
口にすると、胃の奥がきゅっと縮んだ。
あのときは、差し出された手がうれしくて、周りなんてほとんど見えていなかった。温かかった指先の記憶が、今は私たちを追い詰める証拠になるかもしれない。
それでも、後悔しているのかと自分に問えば、答えは違った。
湊さんは一度黙った。短い沈黙のあと、まっすぐ私を見る。
「交際について聞かれたら、俺が答える」
「それは嫌です」
思ったより強い声が出た。会議室の壁にぶつかって、自分の耳へ返ってくる。
「君を矢面に立たせたいわけじゃない」
「わかっています。でも、二人で決めたことを、湊さん一人の責任みたいにしないでください」
隠し方も、寂しさも、望むことも、一緒に相談すると決めた。
都合が悪くなった途端、十二歳上の上司に全部預けるのは違う。それは優しさに甘えることと、対等でいることを諦めることを、取り違えている。
「交際は私も選んだことです。聞かれたら、私も自分で答えます」
湊さんの眉がわずかに寄る。
「立場の問題はある」
「あります。だから仕事の評価や担当について疑われないように説明します。でも、それと私の気持ちは別です」
七年前の私は、好きだと伝えたことそのものが、相手の重荷になったのだと思った。
今は違う。
守ってもらうだけの恋人になるために、もう一度好きになったわけではない。
言葉を受け止めるように、湊さんは数秒、私を見つめていた。その目から普段の冷たさが薄れ、代わりにひどく不器用な心配がにじむ。
「……わかった」
湊さんは静かに息を吐いた。
「一緒に答えよう」
その一言だけで、強張っていた肩から少し力が抜けた。
テーブルの上では触れられない代わりに、彼の視線が一瞬だけ私の指先へ落ちる。
私もそこを見た。土曜日なら、ためらわず重ねられた手。今は膝の上で握るしかない。それでも、同じものを見たことが、触れるより確かな合図に思えた。
私は顔を上げ、うなずいた。
*
十時ちょうど、第二会議室の扉を開けた。
白石部長代理は長机の中央に座り、薄い紙の束を前に置いていた。挨拶を返す声にも、表情にも、普段との違いはない。それがかえって怖い。
「座ってください」
私と湊さんは並ばず、向かい側に一席空けて座った。
土曜日にはあんなに自然につないでいたのに、会社では一メートルの距離が必要になる。その空席が、上司と部下という事実を形にして置かれているようだった。
白石部長代理は私たちを順に見た。
「先に確認します。土曜日の午前九時半頃、水族館の最寄り駅にいましたね」
「はい」
湊さんと私の声が重なった。
「二人で?」
「そうです」
今度は私が答える。
「業務ですか」
「いいえ。私的な外出です」
白石部長代理の指が、机の上の紙を一度叩いた。乾いた音がする。
「手をつないでいた、という報告があります」
やっぱり、見られていた。
胸の内側で心臓が速くなる。駅で声をかけてきた羽田くんと相沢さんのほかにも、会社の誰かがいたのだ。
「事実です」
湊さんが短く答えた。
白石部長代理の視線が私へ移る。
「結城さんも同じ回答ですか」
逃げ道を確かめるような問いだった。
上司に誘われて断れなかった。昔からの知人として手を借りただけ。そう言えば、少なくとも私は守られるのかもしれない。
でも、それは土曜日に私が握り返した手を、なかったことにする答えだ。
私を大切にしようとして、何度も手を離そうとした人。その手を今度こそ離したくないと決めたのは、ほかの誰でもない私だ。
「はい。私の意思で手をつなぎました」
声は少し震えた。それでも最後まで言えた。
隣ではなく、一席離れた場所から、湊さんが息を止める気配がした。
白石部長代理は表情を変えない。
「では、交際していると理解していいですか」
会議室の時計の秒針が、やけに大きく響く。
「はい」
今度も、二人の返事は重なった。
秘密が、初めて私たち以外の言葉になった。
怖い。喉の奥は乾き、指先は冷たい。けれど、嘘をつかなかったことへの安堵もあった。
白石部長代理は紙へ視線を落とした。
「会社は、社員同士の私的な交際を一律に禁じてはいません。ただし、直属の上司と部下となれば話は別です。評価、配置、出張者の選定。公平に行ったつもりでも、周囲がそう受け取るとは限らない」
大阪出張のことが頭をよぎる。
同行が決まったとき、私は担当を外されかけ、湊さんはその判断の誤りを認めた。二人で仕事と気持ちを分けてきたつもりだった。
けれど、その経緯を知らない人には、違って見える可能性がある。私の実績まで、恋人だから与えられたものだと塗り替えられるかもしれない。
悔しさが胸に刺さった。でも、疑う側がすべて悪いとも言い切れない。立場がある以上、説明する責任は私たちにある。
「業務上の判断については、記録を提示できます」
湊さんが答えた。
「必要なら、三上さんを含めた確認にも応じます」
「そういう話をしているのではありません。記録が正しくても、噂は記録を読みません」
その言葉が重く落ちた。
白石部長代理は、机の紙をこちらへ滑らせた。
印刷されていたのは、初めて二人で出かけた日の二枚の写真だった。
少し画質は荒い。それでも、湊さんと私だとははっきりわかる。改札前に立つ私たちと、洋食店で向かい合う私たち。
知らないところから切り取られた私たちは、思っていた以上に近く見えた。あの瞬間の喜びまで勝手に覗かれ、紙の上へ貼りつけられたようで、息苦しくなる。
「今朝、企画部全員宛てに匿名で届きました」
背中が冷える。
「送信者に心当たりは?」
「ありません」
「私もです」
白石部長代理は写真を裏返した。
「現時点で、この匿名の報告は企画部全員が受け取っています。事実確認が終わるまで、憶測を広めないでください」
それは命令であり、わずかな猶予でもあった。
会議室を出ると、湊さんは何も言わず部長席へ戻り、私は自分の机へ向かった。
廊下からフロアへ戻るまでの数十歩が、ひどく長い。背中に視線が刺さっている気がしても、振り返れなかった。
誰もこちらを見ていない。
そう思いたかった。
席に着いた瞬間、パソコンの通知音が鳴った。
いつもなら気にも留めない軽い電子音に、心臓を直接叩かれたような気がした。
企画部の共有アドレスに、新着メールが一件。
件名は、たった一行だった。
『霧島部長と結城さんの関係について』
そして宛先には、企画部の全員が入っていた。
(第72話へ続く)




