つないだ手の、その先
聞き慣れた声だった。
だからこそ、聞き間違いであってほしかった。
恐る恐る振り返ると、改札から数歩離れたところに羽田くんが立っていた。
休日らしい黒いパーカーに、斜めがけのバッグ。会社で見るよりずっと年下に見えるのに、その顔だけが不自然なくらい固まっている。
そして隣には、相沢さん。
こちらも淡い色のシャツに細身のパンツという軽い服装で、驚いたように目を見開いていた。
そうだった。
二人も今日、改善案の参考にする店舗を見に行くと言っていた。
東京には駅がいくつあると思っているのだろう。その中から、どうして今日、この時間、この改札なのか。
運命という言葉を使うには、あまりにも会社員へ厳しすぎる偶然だった。
「お、おはよう」
とりあえず挨拶をした自分を褒めたい。
ただし声は完全に裏返った。
「おはようございます」
羽田くんは反射的に返してから、私の顔を見て、湊さんを見て、最後に私たちの手へ視線を落とした。
言い逃れはできない。
朝の駅で、上司と部下が、休日の服で手をつないでいる。
これを業務上の連携ですと言い張れたら、私は企画職ではなく詐欺師へ転職したほうがいい。
湊さんの指に、わずかに力がこもる。
けれど次の瞬間、その力は少しだけ緩んだ。
離すためではない。
私が離したければ、離せるように。
判断を私に返してくれたのだとわかった。
胸の奥で、七年前の私が慌てている。
見つかった。隠さなきゃ。迷惑をかける。私から手を放さなきゃ。
でも、今の私は知っている。
恋人でいるための距離は、一人で決めない。
私は逃げそうになる指を曲げ、湊さんの手を握り返した。
「羽田くん、相沢さん」
心臓はうるさい。それでも、今度の声は裏返らなかった。
「ここで見たこと、会社では――」
「言いません」
羽田くんが、きっぱり遮った。
相沢さんが隣で一度まばたきをしてから、深くうなずく。
「私も言いません。仕事と関係のないことなので」
数字に厳しい相沢さんらしい、明快な区分だった。
「助かる。ありがとう」
湊さんが頭を下げた。
部長としてではなく、一人の人として。
その横顔を見て、羽田くんはほんの少し目を細めた。
「いつからですか」
「羽田さん」
相沢さんが小声で止める。
「すみません。今のは業務と関係なかったです」
「自分で気づくの、早いね」
私が言うと、羽田くんの口元がわずかに緩んだ。
「結城さんにだけは言われたくないです」
「どういう意味?」
「そのままの意味です」
いつものやり取りだった。
それがありがたくて、泣きそうになる。
羽田くんはもう一度、私たちのつないだ手を見た。
胸が小さく痛んだ。
彼の気持ちを知っていた。応えられないと伝えて、彼も受け止めてくれた。それでも、目の前で見せて平気なものではない。
「ごめん」
思わずこぼすと、羽田くんの眉が寄った。
「何に謝ってるんですか」
「それは……」
「振られたことなら、もう結城さんが謝ることじゃないです」
隣の相沢さんが息をのむ。
羽田くんはしまったという顔をしたが、逃げなかった。
「俺が好きになって、俺が伝えて、結城さんが答えた。それで終わったことです」
駅のざわめきの中で、その言葉だけがまっすぐ届いた。
好きだったことを、なかったことにしない。
でも、終わった気持ちで誰かを縛らない。
それは私が思っていたより、ずっと潔くて、やさしい卒業だった。
「うん」
余計な慰めは失礼な気がして、私もうなずいた。
「ありがとう」
「そこは、おめでとうって言わせてください」
羽田くんは少し困ったように笑った。
「おめでとうございます、結城さん」
それから湊さんへ向き直る。
「泣かせたら、部長でも許しません」
一瞬、空気が止まった。
私は慌てたけれど、湊さんは表情を変えなかった。
「わかった」
「そこは『泣かせない』じゃないんですね」
「泣かせないと約束するのは無責任だ。傷つけたら、逃げずに話す」
短い返事に、握られた手が温かくなる。
相沢さんが小さく息を吐いた。
「羽田さん。予約時間まで、あと二十二分です」
「あ」
「駅から八分、入店前の外観撮影に五分。余裕は九分しかありません」
「余裕、ありますよね?」
「初めて行く場所で迷わない前提なら」
相沢さんはスマートフォンの地図を開き、さっさと歩きだした。
羽田くんはその背中と私たちを見比べる。
「じゃあ、月曜からは今までどおりで」
「うん。資料、楽しみにしてる」
「結城さんに赤を入れられないくらい詰めてきます」
「それは頼もしい」
「羽田さん、七分になります」
「今行きます!」
羽田くんは二歩駆けてから振り返った。
「手、放さなくていいと思います」
そう言い残し、今度こそ相沢さんの隣へ走っていった。
二人の背中が人波へ紛れていく。
並んだ歩幅はまだ少し違う。相沢さんが早く、羽田くんが追いつこうとしている。
けれど、その差はもう私が気にするものではなかった。
「いい後輩だな」
湊さんが言った。
「はい。すごく」
「彼に好かれていたことは知っていた」
「やっぱり気づいてたんですか」
「大阪で確信した」
「それで素っ気なかったんですね」
「否定はしない」
氷の部長は、休日でも嫉妬の自白が簡潔すぎる。
私は笑いながら、つないだ手を軽く揺らした。
「行きましょうか、水族館」
「ああ」
もう誰にも会いませんように、と願いながら歩きだす。
ただ、さっきより手をつなぐことは怖くなかった。
*
大水槽の前で、湊さんは予想どおり黙って魚を観察した。
けれど、頭上を大きなエイが通った瞬間、ほんの少しだけ目を見開いた。
私は危うく、その横顔を撮り逃すところだった。
「今、驚きましたよね」
「驚いていない」
「写真、見ます?」
「消してくれ」
「嫌です。永久保存します」
館内の青い光が、湊さんの横顔を柔らかく縁取る。
さっきの緊張が、水の揺らぎに溶けていくようだった。
クラゲの水槽では、彼の指先が私の手の甲に触れた。
暗い館内だから、今度は迷わず指を絡める。
「さっき」
湊さんが水槽を見たまま言った。
「俺が手を緩めたとき、握り返してくれてうれしかった」
危うくクラゲではなく隣の人だけを見るところだった。
「私も、選ばせてくれたのがうれしかったです」
「本当は、放したくなかった」
「……そういうこと、ここで言います?」
「二人きりだから言った」
正確にはクラゲが数百匹いるけれど、数には入らないらしい。
青い光のせいにできないくらい頬が熱い。
私たちはしばらく、つないだ手を揺れる水槽の光に照らされていた。
*
月曜の朝。
羽田くんは約束どおり、いつもと同じ顔で出社した。
相沢さんとまとめた資料は悔しいほどよくできていて、私は赤を二か所しか入れられなかった。
「次はゼロにします」
「期待してる」
それだけ言って、羽田くんは相沢さんの席へ修正案を持っていく。
もう大丈夫だ。
そう思ってパソコンへ向き直った瞬間、フロア全体に白石部長代理の声が響いた。
「霧島部長、結城さん。十時に第二会議室へ来てください」
キーボードの上で指が止まる。
白石部長代理は、全員に聞こえる声で続けた。
「お二人の社外での行動について、確認したいことがあります」
(第71話へ続く)




